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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第104回   セレンと海獣王《バレンヌデロイ》(1)
 熱心に手習いをしているセレンの足元で、リュールが退屈そうに伏せて尻尾を振っていた。手習いを教えてくれると言っていたリィイヴは、ラウドと難しい話をしていて、セレンの面倒をさっぱり忘れているようだった。でも、セレンはふたりが仲良くしているので、うれしかった。
 喉が渇いたので小部屋に行こうと椅子から降りると、リュールが喜んで付いてきた。壺から柄杓で水をすくって飲み、小皿を出してリュールにも与えた。窓際に寄って池を見た。
「魚さん…アートラン…」
 夕べ、寝ていると冷たいものが顔に触れて、目を覚ました。静かな声が聞こえてきた。
「おまえが来ないから、会いに来たよ」
 でも、目を手で覆われてその姿はわからなかった。指先が頬に触れ、唇に触れた。水に濡れた冷たい手が夜着の襟の間から入ってきて胸や腹をさすった。
「魚さん…だよね…」
「ああ、俺はアートラン…おまえの魚だ」
 唇に指でない柔らかい何かが触れた。その途端、セレンの目の前に青い水が広がった。広くてきれいで暖かかった。
「海の中…?」
 その水の中にあの大きな魚が無数に泳いでいた。
「あいつら、とてもかわいいだろ?…俺はあいつらの王…バレンヌイデロイ…」
 頭の上から声がして、見上げた。きらきらと輝く光の中に誰かが浮かんでいた。
 セレンは魅かれるように手を掲げた。その光の中から手が出てきて、手を握られ、引っ張られて抱きしめられた。まぶしくてよく見えなかったが、自分とあまり変わらない背丈に思えた。
「…セレン…おまえの名前、おまえの身体、おまえの奥底、きれいだ…」
 海の中であの魚に触ったときのように、身体がふわっと浮き、頭の中がじんとしてきてとても気持ちよくなった。
 気が付いたとき、イージェンの仮面が覗き込んでいた。
イージェンは心配しているが、セレンはまたアートランに会いたかった。
 池を眺めながら、また会いに来てくれるようにと願った。

 セラディムの王弟アダンガルは、学院から執務宮に戻ってきた。執務室の担当官に報告書は私室に持ってくるよう命じ、私室のある東館に向かった。本来は執務室から外に持ち出すことは決まりに反するが、いつものことだった。どうせ、国王も王太子も処理しない。影の摂政であるアダンガルがしなければ、滞るだけなのだ。
居間で報告書に目を通し、指示を書き込んでいると、側近のひとりがやってきて耳元でこそりと報告した。王太子宮に潜ませている間者からの報告だった。側近を下がらせて、羽ペンを置いた。
「まったく、愚劣な」
「殺してしまおうか…いっそのこと」
 いきなり声がした。アダンガル以外には聞こえていない声だ。アダンガルが窓を見た。
「それが学院の総意ならばな。しかし、そうではあるまい」
 窓の外の池の中からザーッと音を立てて、誰かが上がってきた。椅子から立ち上がったアダンガルが大きな手ぬぐいを持って来て、投げた。
「俺の部屋を濡らすな、アートラン」
 黄金の髪を手ぬぐいで拭きながら、アートランと呼ばれたものが近寄ってきた。アダンガルの隣の椅子に乗った。
「父親に会いに戻ってきたのか」
 アダンガルが背もたれに寄りかかった。アートランが紫がかった瞳をくるっと丸くした。
「まさか、魔導師には親も子もない」
 ククッと笑い、アダンガルが飲みかけていた茶を飲んだ。
 年の頃は十二、三というところか、下帯だけの身体はまだ幼さがあったがきっちりと締まっていて、顔つきは妙に大人びていた。
「それはそうだが」
 アダンガルが立ち上がり、部屋の隅のワゴンから硝子の杯に茶を入れてきた。
「大魔導師の後継者というのには会ったのか」
 杯を傾けた。アートランがまだ濡れている両足を机の上に投げ出した。
「会ったというか、見たには見た。ヴィルトと同じだ」
 アダンガルがその片方の足首を握った。
「真っ昼間から俺を挑発するのか」
 アートランがするっとその手から逃れて床に立った。
「また夜に」
 姿が消えた。次には水音を立てて池に飛び込んでいた。
「あの下種(げす)をどうするか。賓客に粗相があってはまずい」
「俺がなんとかする」
 アートランのこだまのような声がした。

 五大陸総会は夕方になっても続いているようだった。ヴァンは一日中剣術の修練ですでにベッドでぐったりしていた。食欲もないようだった。ラウドが呆れてイリィを叱った。
「少しは手加減してやれ」
 イリィが申し訳なさそうに頭を下げた。なかなかに頑張ってくれたのでつい熱心にやりすぎたのだ。
「でも、よい太刀筋でした」
「そうか、そなたが言うのだから、間違いないな」
 リィイヴとセレンがテーブルの上の書物や地図をワゴンに移していると、扉が叩かれ、従者が王太子の伝令を連れてきた。
「王太子殿下が、一席設けるのでぜひ足をお運びくださるようにとのお言葉です」
 ラウドが戸惑ってイリィを見た。察したイリィが耳元で言った。
「お嫌かもしれませんが、王太子殿下のお誘いでは断れません、一献いただいて退席されれば」
 ラウドが溜息をついて、伝令に告げた。
「ヨン・ヴィセン殿にお招きありがたくお受けいたしますと伝えてくれ」
 伝令がひざまずいた。
 執務宮の来賓宿舎に戻り、衣服を整えて、イリィと共に王太子宮に向かった。迎えには天蓋付きの船がやって来た。胸元が開いた薄い衣を着けた女たちが椅子の周りに控えていた。ラウドもイリィも目のやり場に困って下を向いていた。船はゆっくりと進み、王太子宮の中庭に入り、大きな浮島のひとつに近寄った。その浮島には桟橋があり、そこから島に上がった。女が手を取ろうとしたが、かまわず先にどんどん歩いて行った。イリィは桟橋に留まるよう言われ、心配そうに見送った。
 玉石で敷き詰められた道が島の中央に続いていた。道の両脇には赤く大きな花が咲いていて、強い匂いを放っていた。急に開けた場所に出た。
 東屋(あずまや)のような屋根だけがあり、その下に金糸で紡がれた絨毯が敷かれ、その上にテーブルがあり、色鮮やかな料理の皿が所狭しと乗っていた。奥にヨン・ヴィセンが両脇に女をはべらせて座っていた。屋根の下に入る前に胸に手を当て、深く頭を下げた。
「ヨン・ヴィセン殿、お招きいただきましてありがとうございます。このたびは非公式な訪問ですので、このようなお気遣い、過分に存じます」
 ラウドの口上にヨン・ヴィセンが噴出すように笑った。すでに何杯か開けているような顔色だった。
「いやいや、ラウド殿、そんなに堅苦しくしないで、こちらに上がってくれ」
 みな、靴を脱いで上がっているようだった。身拭いしたりベッドに上がる以外に長靴を脱ぐことはないので、妙に恥ずかしかった。しかたなく脱いで上がった。長いテーブルのヨン・ヴィセンと同じ側に用意された席に座らされた。パンパンとヨン・ヴィセンが手を叩くと、青い酒瓶をもった女たちがやってきて、ふたりの杯に酒を注いだ。大降りの杯でなみなみと注いでいく。ヨン・ヴィセンが杯を掲げた。ラウドもならった。
「ラウド殿、今宵は我が国の銘酒に酔いしれてくれ」
 ヨン・ヴィセンがぐいと杯を空けた。ラウドも縁に口を付けて含んだ。
…これは…
 ひどく強い酒だ。とても飲めない。そっと杯を下に置いた。
「どうされた、わたしの歓迎の一杯、飲んでくださらないのか」
 ラウドが頭を下げた。
「申し訳ありません。わたしは…その…酒には慣れていないので、こんな強い酒は飲めません」
 ヨン・ヴィセンが顎をしゃくると、たくさんの半裸の女たちがやってきて、東屋の前で音楽とともに踊り出した。
「では、少し弱い酒にするか、もってこい」
 呼ばれてひとりの若い女が杯を持って来た。踊っている女たちと同じに乳房を露わにし、腰布一枚まとっているだけのようだった。ラウドのすぐ側に膝を付いて、杯を差し出した。どうしても胸に目が行ってしまう。戸惑っているとヨン・ヴィセンが不愉快そうに言った。
「まさか、それも断られるのか」
しかたなく、なるべく見ないようにして杯を受け取り、口を付けた。先ほどの酒よりは弱いのでなんとか一杯飲み干した。大きな吐息をついて杯を女に返した。ヨン・ヴィセンがにやりと笑った。


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