ガイドを終えた日の夕暮れ。早めに民宿を出て中学校へ向かう。キンポウゲ とセンダイハギの生える坂を上り、嫌いで仕方のなかった校門をくぐる。連絡 線の白い船体が鉄板のような海に一つ浮かび、海鳥が沖に羽ばたく。色気のな い校庭を過ぎやるとやたら装飾の激しい校舎。見なかったことにして職員室の 門を叩く。 「お、千島、今紅茶淹れたとこだ」 笑顔で迎える先生に筋金入りの笑顔を返す。 「どうせ何時来ても紅茶淹れたてなんでしょ。ありがと、先生」 高台から見ていれば来訪者が分かる。中学生の頃は、この見晴らしのいい職 員室を恨んだものだ。無断遅刻早退は全て職員室からお見通し。校門の陰に隠 れて早退しようしたときも、草陰に隠れて体育の授業を欠席しようとしたとき も先回りした先生に手を引かれて職員室へ直行。一通り怒られた後必ず出して くれたものがレモングラスのハーブティー。あのころから変わらない心の落ち 着くにおい。 深い青色の紅茶茶碗を両手でもって温かさを感じ、一気に飲む。そうすると もう少し頑張ってみようかって気持ちになった。泣いて授業を休んだ日も、家 に帰らないと意地を張った日も、島外の高校へ進学を決めた日も、ここで頂く お茶は先生の庭で栽培したレモングラス。 「うん、思い出ですねえ、これ」 「ほう、お前でも思い出す過去があるんだな、あれか。あのころ鬱陶しく感じ ていた高嶺への感情が実は恋愛だからバールのようなものは下げろ下げろ」 ふう。振り下ろすところだった。 「……まあ、私にも思い出す過去があるわけですよ。高校の準備とか」 島外の高校を受けることは両親に内緒だった。家族と島への子供じみた反発 だけで一人でも生きていける、そう思っていた。 「ああ、あれは俺にとっても最高の思い出だな。それで、高校は元気に過ごし たか。大学はどうなんだ」 矢継ぎ早の質問に一つずつ答えていく。私だって質問する。先生は結婚でき たの、とか。お互いに知らない時間を教えあうだけで日は過ぎる。職員室の中 をむせ返るような茜色が染め上げ、冷やされた空気が開けっ放しの窓から光の 粉を海の彼方に運ぶ。校庭の隅に植わったエゾカンゾウの花が透き通って見え た。ふと、二並の言葉が頭をよぎる。 「ところで先生、この島の物語って心当たり、ありますか」 「ん、そりゃアイヌがいたくらいだから何かあるだろうけどな。昔話がどうか したか」 口をつぐむ。二並の話をしたところで結局は理解できそうにもないから。沈 黙の心地よい夕暮れの名残。電灯を点けに先生が立ち上がる。紅茶茶碗を流し へと運んだ。 そして、その質問はふいだった。
「そういやお前のお母さん、最近どうだ」
それは先生が聞きたくて今まで聞けなかった質問。だから私もこの距離を保 つ。 「ご存知のとおり、悲劇のお姫様を演じています」 だからわざと刺々しく。最低だった。戻る言葉もなく、返す言葉もない。続 ける。 「先生みたいな他人には関係ないことですよ」 そんな言い訳を。言葉をつむぐたびに自分が最低な人間へと変化していく。 先生が他人なら私はもっとあの人の他人だ。関係のある悲惨な他人だ。悲劇の お姫様を演じているのは私だ。皮肉たっぷりに跳ね返ってくる自分への罵声が 頭に反響する。 言い訳ってものはそれが滑稽に聞こえるときは同情を誘えるけれど、切実に なると同情すらしてくれない。いつも通り紅茶茶碗を洗い終えると向き直らず につぶやいた。 「……じゃ、先生、もう家に戻りますね」 扉を開ける。顔を見られたくなかった。そんなときの私は自分でも認めたく ないくらいに泣きそうな目をしているから。 「あ、千島。お前の言ってた物語な、調べて潮浜に届けておくよ」 流れ出る気まずさを更に居心地悪くさせるような笑顔で凍りつかせようとす る。 「はい、ありがとう、先生。今度は潮浜に客として来てくださいね」 死ぬほど飲ませてあげる。そんな言葉を付け加えて無敵の笑顔を極める。こ のうえなく嫌いだった校門に拳を叩きつけて坂を下る。一歩ごとに誰からも他 人になっていく、そんな気がする。半分の月が頭の上に光り、地面を優しく照 らしていた。 冷たい風がほてった頬に気持ちいい。秋が近いのかもしれない。
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