20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:夏、花の島 作者:Quote

第6回   夏、一昔前
 洗剤のにおいってのは刷り込みのようなもの。島を出て五年。自活して安い
ものを買うくせに、洗剤だけは実家と同じものを買い続ける。それがきっと母
から子に受け継ぐものだと思う。例えば洗濯のたたみ方、食事の食べ方、食器
の重ね方。数え切れないものを受け継ぎ、私がいる。だから、その中の一つに
母の性格を受け継いでも不思議ではないのかもしれない。母親、ってものは私
のとって何なのだろう。優しく微笑んでいたこの島の自然を好きな人。いつも
父に頼って生きていた人。私を生んだ人。私を大切にはしてくれたけれど、愛
してはくれなかった人。自分のことを何も語らない人。狂気にとらわれた哀れ
な女。いくらでも思いつく「母親」の姿。一体、母ってなんなのだろう。
「どうしたの梗ちゃん胸が重べばっ」
 そうだ、母を知っている叔父に聞こう……そういやさっき、何かがつぶれる
ような音を聞いたような。まあいいや。
「ねえ、叔父さん、私とお母さんって似てるの、って何そこでかがみこんで見
てんの」
 頭を踏んづけておく。梗ちゃんひどい、などという声が聞こえてくるがひど
いのは叔父のほうだ。
「私、どこが母と似てるんだろ」
「梗ちゃんは小桜さんと全然似てないよ。小桜さんのほうがおしとやかだし、
酒飲んで暴れないし、それに」
 小桜。母の名前にはっとしながらも聞く。
「あら叔父さん、ずいぶんとひどい言い草。私、お兄ちゃんにいいとこ見てほ
しいな」
 自分で気持ち悪いともいつつネタを振ってみる。悶絶する叔父の頭をもう一
度踏みつける。
「うん、梗ちゃんのほうがかわいいし、スタイルいいし僕の好み」
 余計なお世話だ。全部。洗剤のにおいが鼻を突く。
「でも小桜さんは強いよ、間違いなく」
 耳を疑った。あの母が。花と戯れ、父に全てを依存し、そして今現実から目
を反らす母が強いなど。
「梗ちゃんはたくましいけどね。小桜さんは強い人だった」
 余計なお世話だ。洗いものに力を込めようと頑張ってみる。
「小桜さん、ひとりで随分頑張ったしね」
 容赦のない言葉が突き刺さる。母を否定し、島を逃げ出した私を否定する言
葉。余計なお世話は私だった。
「ああ、洗い終わったら今日はガイドしてあげて、梗ちゃん」
 叔父なりの心遣いだろうか。悔し涙が流れる前に現実を見せてくれる。そん
な残酷な優しさに少しだけ、感謝した。

 島の北が基地用地になってハイキングコースの大部分が立ち入り禁止。ガイ
ドの仕事は減り、沿岸を除くこの島の近くが漁業禁止になったおかげで一気に
進んだ過疎。潮浜は島に残ったただ一つの民宿で、それも半分国有だから。そ
んなことを解説しつつ笹の合間に広がるお花畑を歩く。今日は東京から来たと
いう夫婦とその子供の案内。軍人以外の観光客は珍しい。島固有のウスユキソ
ウ自生地で民宿の弁当を広げ昼食にする、定番コース。ちなみに料金は昼食・
移動費込みで一組一万円。苦労せずに高山植物を眺めることのできる北の島で
手ごろなお値段。こんなご時世なのに人気は高い。
「おねえちゃん、これもウスユキソウ?」
 利発そうな顔をした子供が私の手を引っ張る。少しだけ笑いを漏らした。
「確かに白いもんね、でも、ちょっと背が高いでしょ」
 子供が植物に見惚れる。その目に幼い自分を重ねる。きっと母は私と同じ年
齢の頃、私を背負い、こうやってガイドをしていたのだ。
「その花はネムロシオガマ。花だけじゃなくて葉っぱもきれいでしょ。で、こ
の草、花だけじゃなくて葉まできれいってことでね」
 そこでメモ帳を取り出して書き付けてやる。
 葉まできれい→はまできれい→浜できれい。
 母から受けついだ説明。夏の匂いが希薄なこの大気の下でうけついだもの。
「浜できれいなものは塩を作る釜。だからこの草、シオガマって名前になった
んだって」
「ふーん、そうなの」
 話の八割くらいは理解されていないだろう。だいたい私も塩釜ってものがき
れいなものなのかどうか以前に見たこともない。そんな私達を両親が見て笑う。
「お詳しいですね、さすがガイドさん」
 一瞬で理解する。この人のほうが私より詳しいって。
「ありがとうございます。まだまだ学生の身分なんですけど」
 だから儀礼的な受け答え。おにぎりをほおばった子供の栗鼠のような頬に笑
いを隠せず。珍しく少し汗ばむくらいの陽気のなか、ほんの少し形態が違うと
いう理由だけで仲間はずれにされた白い薄衣を着た控えめ姿が同じ方向にゆれ
る。
「今は北から歩けないの」
 妻のほうからの質問。答える前に夫が話を続ける。
「いや、私達が出会ったのがちょうどこの島でしてね、ちょっと懐かしく思い
出して」
 そういう人は多い。学生時代に訪れたこの島で出会った人と結婚し、再び訪
れる人。大抵は失望を抱き、島に郷愁を残すようだ。あの頃と今はこの島の位
置づけが違うのだから。
「はい、残念ながら立ち入り禁止です。基地用地ですから」
 皮肉なことにそのおかげで絶滅危惧だった植物の多くが保護されているのだ
けれど。
「そうそう、この近くでチシマコザクラの咲くところ、あるんじゃない」
 愛想よく笑うはずの頬の筋肉が硬直した。チシマコザクラ。それは母の名前。
千島小桜。トチナイソウの別名。花の大きさが5mmに満たない小さな、可憐な花。
多分日本で一番探すのが難しい花。この花の咲く場所は私と母の秘密の場所だ
った。
「……ガイドさん、どうしました」
「あ、いえ。ちょっと思い出していまして……はい、トチナイソウ、ですね。と
っておきの秘密の場所ですが特別にご案内いたします」
 ちょっともったいぶりすぎかもしれないけれど、ほんとうに特別。一般登山道
から外れ、西側の斜面に向かって笹をかき分ける。そうすると地図には載ってい
ない小道が現れる。母に教えてもらった秘密の場所。沢沿いの海風吹き付ける霧
のたまり場。母はよく私をそこに連れてきてくれた。
 約二十分。誰も知らないお花畑が突如開ける。
「ああ、ここは」
「ここ、でしたね、あのときも」
 ……あのとき?ああ、彼ら夫婦の出会いは母のガイドだったんだ。
 母は人を幸せの場所に導き、私は人を彼岸の幻想世界に導く。母のガイドは人
を幸福へと導き、私のガイドはこの島から飛び立ち、二度と戻らない人への鎮魂
歌。こうやって戻ってくることも、二人で連れ立ってくることもない。
 記憶にある母の笑顔と、目の前で流れる家族の姿が言葉を奪う。入り込む余地
はなかった。かつてはそこにいたはずなのに。夏の日差しが珍しく強い、風の吹
きやんだ夏の日。白い空に開けた草原が映える日のこと。自分がそんな幸せから
切り取られたことを思い知った日のこと。この島を出る決意をした日のこと。
「もしかして、ガイドさん。あのときの人の娘さんではないですか」
「ええ、多分そうです。その頃は母が案内をしていました」
 母の案内する後ろをついて回った。子供ながらに高山植物をこのうえなく愛す
る母の言葉、仕種、その笑顔が大好きだった。笑うのが誰よりも得意で、怒るの
が苦手な人だった。気が弱いくせに花のことになれば必死になって全てを説明し
ようとする。あまりに一生懸命で、でもどこかに育ちのよさから来る余裕があっ
て、たくましくないのに一人でこの島の強すぎる風の中に立つのが好きな人だっ
た。
 母は今でも。この場所を覚えているのだろうか。娘を忘れても。
 汗をかいた背中にこの島の風が涼しい。幾多の夏を、誰が見ずとも越えてきた
この場所よ、どうか永遠であれ。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 3509