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作品名:夏、花の島 作者:Quote

第5回   夏、母のこと
 冷たい空気が開け放した窓から入る。客も引け、静かな食堂で一人洗い物。
「それじゃ、梗ちゃん、毎日ここに通ってくるんだね」
 昼頃になってようやく復活した叔父が立ち上がる。
「だって叔父さんと一緒にいると何されるか分からないでしょ」
 冷蔵庫の中を漁っていた叔父が凍り付いた。
「はいはい、立ち直る。気持ちだけ受け取らせてもらうからさ。私がいると酒
の消費だけで経営傾くでしょ」
 言い訳がましいので止めておく。簡単な挨拶を終えて外に出る。
 外は夜。曇り空の所々から星が漏れ出で、月明かりが海の香に染まる。夕暮
れも終わり、夜のかけらが島を覆う時間。夏のにおいすらない、最果ての島の
冷たい風が吹き始める。どんなに遅くなろうとも母のいるあの家に帰る。それ
が私なりのけじめだ。天の川がうす雲にさえぎられ、風が潮のにおいを運ぶ、
北の果ての島。堤防の上を鼻歌交じりに歩き、飛び降りてバス停に駆け寄る。
警音機を鳴らされた。
「お、千島さん、おでかけですか」
 車幅灯の弱い光に影が伸びる。車のドアが開き、中から現れた顔を見る。記
憶の片隅にその顔が引っかかる。
「もしかして、先生」
「あ、ああ。千島……桔梗、か。久しぶりだな」
 中学のときお世話になった先生だった。一瞬言いよどんだ先生の言葉に違和
感を覚える。五年ぶりだから。そう自分を納得させて話を続けた。
「よくわかりましたね、私みたいな」
 出て行って五年ぶりの生徒の顔を。
「ま、そりゃお前すごい生徒だったろ」
 笑いあう。先生にはいろいろと迷惑をかけた。日々の生活も、両親に内緒で
受けた高校のいろんな手配も、そして。
「やっぱり遭難事件ですか」
 下校中に沢を登り、夜になっても帰らなかったことがあった。そのころは私
の家も基地の中だ。警察すら入れない小さな島の北半分を夜通しヘリコプター
が飛び、軍隊と父親と先生が必死になって私を捜索した。迷惑をかけたことは
重々承知だが、基地拡張中の軍隊が住民に好印象を与えようと一介の民間人の
捜索をど派手に演出しただけとも言える。いずれにせよ迷惑をかけた私にそん
な偉そうなことを言える立場はない。
「ああ、んなことあったなあ。あれ、大変だったぞほんと。お前の親父、格好
よかったぜ。ききょー返事しろーってまてまてそのバールのようなものを振り
かぶるな」
 それにしても。父のその姿を私も覚えている。明け方のまぶしい朝日の中に
伸びた影が近づいてきて、私に触れたものが父だった。そしてその父の腕が苦
しいぐらいに強くて。
「久しぶりに帰ってきた生徒に何か一言、言ってみません? 色っぽくなったと
か」
「いや、色っぽくなったもなにも俺、さっきお前さんとお前の母親を見間違っ
てたわけだしな」
 風にシラネニンジンが揺れる。そんな言葉に現実が戻り、そして私の感じた
違和感が解けた。先生が声をかけたのは私を認識してではない、と。
「そんな似ていますか」
 母と。あの、現実から目をそらす母と。父がいないと何も出来ないくせに、
下手な意地を張って怒ることも出来ず、泣いて、私の前では必死で笑っていた
あの母と。
「ちょ、ちょっと待て。姿が似ているとは思うけどな、でも」
 遠くからバスのエンジン音が聞こえた。
「お、バスだ。じゃ千島、久しぶりのふるさと、楽しめよ。また学校来い」
 軽く警音機が鳴り、尾灯がカーブに消える。バスが中途半端な会釈を断ち切
る。ステップを登るとバスの中を流れる夜の大気に冷え込んだ水滴が混じる。
ゲート前で降り、車に乗せてもらって自宅前。昨日と全く一緒。
「おかえりなさい、今日は遅かったです。遊びに夢中でしたか」
 子供のように笑いかける母。玄関に立って娘を出迎える。五年ぶりに帰って
きた娘を何の不審にも思わず、叱りもせず。ただ、学校に行って帰ってきた。
苛立ちを感じないわけではない。適当な言葉を返し、食卓に就き、向き合う。
かみ合わない会話が始まる。
 母の中でも揺れ続ける私の姿。中学校の話をしたかと思えば小学校の私がち
らつく。娘をいとおしむ笑顔にいらだつのは私がきっと、もはやこの人の娘と
して認識されていないから。
 ため息を漏らしてそんな母の顔を観察する。そして気付いた。
 髪の毛に何かの塊がついていることを。黒くて、ほんの小さなものだけど。
私が飼える直前に顔を洗ったようだけれど、ぬぐいきれなかった何かが残って
いた。
 箸が止まった。
 血液だ。食事中だけど関係ない。トイレに走る。痕跡を探す。洗面所も調べ
る。血の一滴ですら見当たらない。洗面所に手をついて、白い壁を、床をもう
一度眺める。
「どうかしましたか、梗ちゃん」
 背後から突然聞こえた母の声に驚いて肘を壁にぶつける。
「家の中で走ってはだめです、もう」
 一瞬困ったような顔をして、それから笑いかける。その母が私に何かを隠し
ているようには見えなかった。そうだ。外に出て何かの種が髪に絡みついただ
けなのかもしれない。上っ面だけを必死に取り繕い、部屋に引きこもった。
 昔。民宿の客と私を連れてこの島をガイドしていた頃の母の顔を思い出す。
居間の笑顔となんら変わることのないその笑顔が私に何を隠し、そして私は何
を失っているのだろう。


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