食堂に車座の常連客と叔父。三十年前から改装していない薄汚れた壁紙に重 い沈黙が似合う。 ここは民宿潮浜。だが、それはこの民宿の一面に過ぎない。夜は居酒屋と化 し、血も涙もないアルコールだけが真実となる。ここで常連といえば近所の親 父連合に私が子供の頃からずっと駐留し続ける軍人四人。いずれも劣らぬ積層 装甲の肝臓を供えた侮りがたい敵だ。五年前。まだ島を出るとも考えていなか った頃、約束をした。いずれ飲もう、と。初めて飲むときは私が客の立場でい い、って。情けも容赦もない仁義なき飲み会が始まるにはもってこいの沈黙だ った。 民宿潮浜鉄の掟。ホスト側は客を死ぬ気でもてなす。出された酒は死ぬ気で 飲み干す。故にホスト側は客より先に杯を空けねばならぬ。そして今、私は客。 叔父と常連客がホスト。 「それじゃ梗ちゃん、始めますか」 それは死刑判決の言葉だった。叔父の引きつった笑みに、常連のつばを飲む 音が聞こえる。 冷えたジョッキに六人分、生を注ぐ。 「千島桔梗、ただいま戻りました。では」 乾杯。五秒。すっからかん。うん、今日はいい調子。 「梗ちゃん、都会でどんな修行を」 拍手が起こる。そのとき気付く。ホスト側の杯が半分も減っていないことに。 「叔父さんたちが遅いだけでしょ」 角刈り頭が四つ、アホ丸出しに口を開けてこちらをみる。 「雁首そろえて拍手?飲んでる手を止めんじゃない。わかったらさっさと一杯目 、空けなさい」 そして五秒で全てのジョッキが空になる。 「よし、その心意気。今日は死ぬまで飲むよ」 六つのジョッキを両手に持ち、正確に全てを満たす。乾杯、五秒、すっから かん。歴史はいつも繰り返される。私のいない五年間に、いやそれ以前からあ ったアホ集団のアホな飲み会。幼いころ、身長も届かないのに客にビールを注 ごうと懸命になっていた自分の姿を思い出す。今はそれと感じることはないけ れど。そんな滑稽な喜劇の中で育ってきた私、そしてその中心にいた父。 喝采があがる。誰かが一枚服を脱いでポージング。物が乱れ、議論が飛び交 い、筋肉自慢が服を脱ぐ。誰かが出した恋人の写真が跳ね飛ばされ、パンツが 窓から飛び出す。血の粛清が終わるとなんともいえない静けさが溢れる。彼岸 に渡ってきた彼らの最後の、この世への名残。ただ、最後の思い出にこの島の お花畑と、そしてこの民宿の楽しい思い出を提供できんことを。 彼らも何かを残して、残してきた何かの時間を止めてしまって、北のどこか で終えるのだから。 二並は叔父がぶっ倒れた直後民宿に現れ、全員に飲まされて一気に死者の列 に連なった。各自振ったさいころの目の数だけジョッキを並べたところで私も 一旦記憶が途切れる。六を出した奴が土下座して、鼻水を床にこすり付けてい たのが最後の映像、か。後は知らない。 気付くと午前三時。叔父さんが半裸で寝、客の残骸が生きていることを思い 出したかのように寝返りを打つ。その横で私一人が焼酎片手に食堂に居座る。 左手に氷の解けたグラス、右手にほっけの糠漬。父の好きだった肴だ。一瞬郷 愁に浸る。半裸で倒れている叔父に毛布をかけてやった。 足下に目を落とす。長いまつげに白い肌。柔和そうな頬に形のいいあご。こ れで男なんだから二並は女の敵ってところか。ここで眠らせるわけにもいかな い。グラスを傾け、二並の耳に酒を注いでみる。幸せそうな寝顔はいじめたく なるものだ。 「ほら、起きなさい、家の外まで送ってあげるからさ」 戯れに寝ぼけた二並の耳を引っ張る。整った眉毛が少し、動く。 「起きたか。この軟弱者」 その言葉に意外な爽やかさで笑いかける二並に少しだけ、緊張する。そんな 夏のさなかと民宿のにおいの中。お互いに口もきかず玄関を出る。静寂が気持 ちいい。 外は強風。星と空だけはどこまでもきれいで。 「……風、強いね」 しっとりと伝わるその声に優しく頷く。 「ああ、強いな、なんたって」 樹が生えていないからな。そう続けた。この島に樹が生えない理由なんて小 学校で習う。かつてこの島に人がたくさんいたころおこなわれた乱伐、そして 山火事。一度裸になった島は強風と大雪に曝された。樹が生えることなどでき るわけもない。代わりに美しい高山植物が海抜0メートルから咲く世界になった のだ。足を進めようとした瞬間。二並が大きく天を仰いだ。 「でも、これは物語の続きだから」 電波でも受信したか、そうからかってやろうと思った。だけど口まで出かか った憎まれ口は、二並の姿の前に消えてしまった。透き通った声が私を通り越 してどこかにいる誰かに語りかける。大きく空に手を広げて山に背を向ける。 一人で始める舞台の始まり。足を止めた。胸元に入る風が気持ちいい。 「そう、この島の物語。花を見せるために樹を切ってしまった代償のお話」 二並のつかの間の舞台。空にかざした手を胸の前で合わせる。星がスポット ライトで、星に届かぬ手を胸で組んで、それでも空を仰ぎ続けて。きれいだっ た。いつの間にか釘付けになっていた。二並の細い手首が夜の闇に薄く消えそ うになる。つかむことのできない星に向かって差し出されていた手に、中学生 の頃の自分が重なる。何度も夢に見る、一人たどり着いたお花畑の中の自分が。 過酷な自然の中、花の美しく咲く浮島。それが呪いの続きである、と。幸せの 代償だ、と。母のようだと思った。 そして私は確かにいた。語られる物語の中に。二並の延ばした指の先に。 先を聞くと何かが壊れそうな気がした。こんな気持ちは酔った勢いだ、そう思 おうとする。盛りのついた中学生のようにどきどきして、顔も見ていられなく て、近くにいるだけで苦しくて。 「二並。また、ここで」 それが私なりのスタート。精一杯の。出会ったときの高台の、その場所で。 二並が頷く。言葉はなかったけれど。 「それじゃ、また会おう、な」 返事はなかった。代わりに、大きな頷きが灯台に映し出された。それだけで 十分だった。さあ、潮浜に戻ろう。告白に成功した中学生のような走りかただ と自分でわかりながら抑えられなかった。自分に残っていた1パーセントの純情 さが酔いを醒ます。
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