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作品名:夏、花の島 作者:Quote

第18回   夏、未来。


 基地への侵入に対してお咎めもないまま、正門から車で送り出される。時間
は午後四時。手元には一通の文書。
 八月いっぱいで基地内を占拠しているあの家を明け渡すこと。
 簡単に翻訳すればそんなことが書かれている。母を送ってもらった代償だ。
もう、あの場所には住めない。二度と足を踏み込むこともできない。悲しいけ
れど、これでいいと思う。大丈夫。どれほどに現実が変わろうとも、私は現実
の真っ只中にいる。行き先を迷わない。どこでだって幸せになれる。夏が終わ
ってしまっても母と一緒に、どこまでも歩いていける。
 目張りのライトバンから出ると、基地の外の小さな集落のバス停だった。長
い一日の落ち着いた一時をのんびりと感じ取る。風が大きく吹き降ろし、遥か
遠くの灯台が強い光を向ける。海の向こうには船。空には鳥。笹原を過ぎ去り、
紺碧のかなたへと消えていく。母の飛び立った遥か向こうに思いを馳せ、そし
て誰も乗っていないバスがやたら高いエンジン音を響き渡らせて、目の前で止
まった。行き先は島の南、連絡線乗り場。もう、実家に用事はない。潮浜へ戻
ろう。山の陰に覆われた起伏のない二車線道路をただ、私だけを乗せたバスが
走る。
 終点、連絡線乗り場。または始発の駅で降りて、潮浜と反対方向に歩く。イ
ブキトラノオの戯れる坂を上り、あの場所へ。港を望むこの島の高台へ。何時
も二並のただずんでいる場所へ。一歩登るごとに期待が高まって、そして二並
はいつもどおりきれいな顔で笑っていた。夕焼け空に融けてしまいそうな姿で。
気づいたら走りよっていた。
 夕焼けの中で二人、並んだ。ずっと遠くの鳥に思いを馳せ、足元に生える花
に心を奪われ、どこからともなく笑いがこぼれる。そんな贅沢な時間を無言で
すごした。ただ、それだけで満足できそうだった。好きなのだから。たったそ
れだけの時間で十分に満足できる。
 いや、違う。こんなものじゃ満足できない。同じようなことに後悔したじゃ
ないか。高校一年生のころを思い出す。あの日、退学願を片手に入った植物園、
誰かを犠牲にしてでも生きて言ってやると決意した日、あの植物園の前でたっ
た一言、話した男子生徒に同じ思いを抱き、後悔した。植物園に勇気付けられ
た私は、植物園を管理していこうと決意する。そんな決意の前に現れた男子生
徒。同じクラスの、ものすごく目立つ奴だった。住んでいる世界の違う奴だっ
た。もし、この人を植物園に引っ張り込めば。そう考える。きっとうまくいく。
ありったけの勇気を集め、壊れそうなほどの心臓と震える声を必死で押さえつ
け、言った。
 一緒に植物園を管理してください。
 笑える。そんなのじゃ愛の告白みたいだ。でも私は必死だった。きっかり三
秒の沈黙の後、そしてその生徒は私に言った。
 手伝えない。俺には音楽がある。お互い、自分の道を行こう。
 そうして、まだ髪の短かった私の肩をそっと押してくれた。心がはじけた。
絶対に立派になって、目の前のこの人の言葉に恥じぬ生き方をしようって思っ
た。それが私の初恋。三年生までずっと同じクラスで、ほとんど話し合わなかっ
たけれど最高の友人で、恋人にはなってくれなかった。それで満足だって思っ
ていた。それが私の好き、という感情なんだって自分をだました。好きってこ
とは隣にいてほしいなんてことじゃない。
 好きなのだから、横にいて、手をつないで、身体でも心でも疲れ果てるほど
に愛し合って、時には殴って、蹴り返されて、子供をもうけて、泣かされて、
裏切られて、嘘をついて、だまして、そして看取って。その先の未来に確証も
ないままに期待すること。
 もう後悔しない。私は二並を自分のものにする。
「あのさ、二並」
 どきどきする。まずは昨日の謝罪だろうか。それともストレートだろうか。
透き通るほどに笑ってこちらを向いた二並なんて見てられない。頭の中なんて
真っ白だ。中学生がラブレターを靴箱に入れるほどに初心で滑稽だ。そして、
その滑稽さは振り返るといい思い出だ。振り返るべき未来のために続ける。
「ありがとな。私ようやくさ、この島で生まれたことも、母も立派だと思える
ようになった」
 返事もなく、だから私はそちらを見ない。茜色の空気が大切な人のそばを吹
き抜けて私の身体に入ってくる。ほんとうはそちらを見ないといけないのだけ
れど。隣島の赤く輝く山肌と、訪れる夜の境目に目を固定してその先を続ける。
「二並。私、お前が」
 我慢できずに横を見る。どこまでも続く海が見えた。強い風が海から吹き付
ける。見晴らしが良すぎた。自分ひとつ分の影だけが伸びている。
「……なんだよ。人が告白しようってときにさ」
 足元の草を二並の代わりに蹴っ飛ばしてやる。でも、まあいい。いくらだっ
て次がある。空に向かって口笛を吹いた。今度は逃げ出せないように手を握っ
て言ってやろう。好きだって。絶対に逃がさずに。そうだ、抱きついてキスし
てやろうって思っていたんだ。二並のいなくなった、私一人の大気に向かって
笑ってみた。秋空の落日がどこかで聞いたことのあるやさしい旋律を語る。
 幸せになろう。いつか必ず。
 涼しい風が吹き抜け、一日の終わりと夜の始まりを運んできた。遠くから人
影が近づく。
「梗ちゃん、さっき軍の人がうちにきたんだけど」
 叔父だ。不恰好な、でも私に残された血のつながる大事な人。その人に自然
と笑いかけていた。さあ、大変なのは今からだ。母のこと、家のこと、私のこ
と。私の過ごした五年間と、これから歩む未来のこと。


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