「梗ちゃん、ここですか」 その、大切なところ。そう聞く母の顔を見ることすらできなかった。 わかっていた。ここは基地だもの。最果ての、寂れた観光地なんかじゃない。 最前線でこの国を守る島だから。あの日、基地用地に決まったときからここは もう、私だけの秘密ではなくなったんだ。戦闘機の離陸場所。誘導灯の緑と青 が光る、幅五十メートル、長さ二千メートルのアスファルトが横たわるだけ。 白色のストロボ進入灯が海に向かって放たれて、ずっと向こうに管制塔のパネ ルが光を反射する。そこに身体を横たえ、ばかみたいに明るい空を眺める。風 が一枚、身体を撫でて消える。 夏が終わりを告げた。 セミも、海で遊ぶ子供の声も、麦藁帽子も、食べかけて捨てられた西瓜も、 砂に埋められた花火も、何もない北の島、北緯45度の夏が。 もう、ここでは生きていけないのかもしれない。 力が抜けた。どうにだってなってしまえ。ここからスタートするつもりだっ た。母とやり直せると思った。島を歩くだけで全てが戻ってくると思っていた。 ここにくれば何もかも昔のままだって思っていた。その程度の覚悟で全てが許 されると思っていた。昨日一日で全てが取り戻せるって思っていた。私の覚悟 は、その程度のものだった。 でも。一度手放したものは二度と戻らない。五年間押し込めたものは私を拒 む。それはあたりまえのこと。だから残酷なのは時でも運命でもなくて私。五 年前に父も母も、故郷も見捨てて逃げ出した私、千島帰郷。言葉すら出ない。 どこまでいっても本気ではなくて、どこまでいっても償うべきものに向き合わ なくて。なんだこれ。結局行き着いた先は取り戻せない過去を嫌ほどに認識さ せる、アスファルトの滑走路。破壊され尽くした最後のよりどころ。ここにあっ たチョウノスケソウも、フタナミソウも、シコタンソウも。全てがアスファル トの下。世界が終わっていた。母が父と仲を違えても守ろうとしたものは簡単 にこの、黒い物の下敷きになってしまった。 もう、いい。何もかもどうにでもなれ。 「見てのとおりよ、お母さん。私はこの島を見捨ててお母さんから離れて。こ れが私の」 大切な場所。涙で言葉が続かない。ここにいたって私がどうにかできたって 話ではない。わかっている。でも、こんなのあんまりじゃないか。母を狂わせ、 父を殺し、大切な場所までもが破壊されて。平らな、平凡なこんな滑走路が私 達の幸せを破壊した結果だって。人を殺すだけのこんな基地が私たちの幸せま でも壊して、大切な場所を壊して、何もかもを葬り去って。言葉にならない。 近づいてきた母の胸を捕まえて泣く。ものすごく滑稽な悲劇だ。ああ、なんて 滑稽なんだろう。自分で作った悲劇に酔いしれるピエロじゃないか。 世界なんて、世界なんて滅びて 「見てください梗ちゃん、これ、フタナミソウです」 滲んだ世界の中にいつもどおりの笑いを含んだ母の顔。母は私が体をもたげ る前に、そっと抱き寄せ、小さな子供に何かを見せるように私の目をそっと拭 く。今、母の胸は世界で一番泣きやすい。その足元には、アスファルトの切れ 目には、確かにそれが生えていた。 幅一メートル。長さ二千メートル。延々と続く人工的な花壇があった。 「ほら、これはトチナイソウ。梗ちゃん、知っていますか。私結婚するまで栃 内って苗字だったんです。で、今が千島小桜。なんだか笑えちゃいますね。な んだか私の花みたいです。私、千秋さんと出会ってほんとうに」 滑走路の真ん中にぽっかり空いた地面に目を注ぐ。赤茶けた地面の、小石の 並ぶそこには小さいけれどお花畑が広がっていた。 この島の気高い花たちが。ほんとうは自分達の楽園なのだけど。追い出され もせず、なんとかその姿をとどめ、そんな苦境にも花を咲かせ。文句の一つも 言わずに青い花、白い花、薄桃色の花を、空へ向ける。
夏、花の島。 遠い昔への鎮魂詩。 遠い昔への癒しの備え。 新しい世界の誕生詩。
人工的に残された、人間の最後の理性の姿。私の大切だった場所。もう、私 だけの秘密の場所でもなんでもないけれど。ここで寝ることは出来ないけれど。 もう、お花畑なんて名前で言うことはできないけれど。それでも、かろうじて 残された私の場所。人工的に作られたお花畑の名残。滑走路の真ん中を縦に割 って残された私の大切な場所。何もかもが懐かしい。私の守ってあげたフタナ ミソウが元気に咲き、隣にこの島では絶滅に近いチシマギキョウの花が下を向 く。風に飛ばされた涙が心地よくて。単純に広い滑走路のど真ん中で。一人で 生きてやるって決めたあの日と同じくらいにすがすがしく笑った。 「昨日、千秋さんに会いました」 幅一メートル、長さ二千メートルのお花畑に母がつぶやく。肩で息をしなが ら笑いを崩さずに。身体を起こして、母をしっかりと抱いてみた。小さくて、 ほんとうに細くて、軽くて。こんな身体で私を生んで、育てて、一人でがんばっ て、こんなところまで来たんだ。 「この場所、千秋さんが残してくれたそうです。桔梗が出て行っても帰ってこ れるように、私のためにって。あんなに基地を作ろうって頑張った人なのに」 母が、記憶を取り戻していた。この、滑走路横の花壇は父が頼み込んで作っ てもらったものだって。 「私、千秋さんには二回も花壇、作ってもらいました。出会ったときも、別れ る前にも。私って子供っぽいですから。基地に賛成しないとたったこれだけの 花すらも残らないって分かっていたのに、千秋さんを苦しめて。守るべき桔梗 を守れずに、ほんとうはね」 母の力が急速に抜ける。慌てて支えたけれど、一緒に倒れこんだ。 「お母さん、もういいから、もういいから。背負って降りるから掴まって」 母が私の手を握る。 「私、わかっていました。桔梗がもう大きくなっているって。でもあの頃が楽 しくて。千秋さんは大切なものを守ったのに、私だけが何もせずに生きているっ て不公平です。だから、ごめんなさい」 握り返しが弱くなる。心の中だけで言う。大好きだから、そんなお母さんは 私が守る、って。必死で母を抱えて、立ち上がって、走る必要はなかった。 武装した兵士が近づいてきたから。当たり前だ。滑走路の上に何かがいれば 民間空港だって黙っていない。もう言い逃れも何も出来ない。腹をくくる。 母を背負ってその場に立ち、腹にありったけの力を込める。滑走路のど真ん 中で。 「あれ、千島さ」 「ごめんなさい、急病人です。お母さんを助けてちょうだい」 マスクをとった兵士は潮浜固定メンバー。その顔に、力が抜ける。思いっき り頭を下げた。三秒の沈黙の後。 「わかった、車で運ぶ」 母を引き渡し、私も車に乗り込む。無駄に回転のいいエンジンが一気に加速 を促す。母の弱い握り返しに応えながら、どこまでも続く花壇を眺めた。 「あとで厄介だなあ、これ」 ハンドルを握った角刈りがぼやく。母の手を握りながらも運転席に向かって 言ってやる。 「まかせて、死ぬほど飲ませてあげるから」 文字通りね。
その会議は五秒で結論が出た。基地司令官の空軍一佐と、二尉と、その他三 名と、私。入った瞬間に条件を書いた用紙を渡される。一発で私がサインをし、 その命令が下った。 この空港初の民間人搭乗フライト。しかも帰還予定あり。かつて反基地の先 鋒を基地側が特例措置で助ける。そんな美談作りに最適なだけと言えるかもし れないけれど。たった一回のフライトで名声を獲得したと考えれば向こうも決 して高い買い物ではないのだろう。 会議室から出て、母の元に急いだ。長い廊下を移動用ベッドに寝かされ、ヘ リコプターに積み込まれる母がいた。その姿を遠くから見ているだけだった。 母を乗せた輸送ヘリがローターの回転を上げる。あっけないほど簡単に重力を 断ち切り、上昇を始める。 空に光る、どこまでも遠い高みへ。
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