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作品名:夏、花の島 作者:Quote

第16回   夏、幸せのとき
 朝、起きる。実家の自分の部屋。五年前から何もさわられていない、ここで
幸せだった日々から、泣いて、恨んで過ごした日々から何一つ手をつけられて
いない場所。恐ろしいほどの静寂に満ちた外を眺めると朝露のついた花が輝く。
ここが天国だって言われても驚かない。世界一美しい光と、大気の中。身体を
起こして外を眺める。生まれたばかりの今日という日の朝に、静かに祈る。
 今日という日が、世界で一番美しい日でありますように。
 母を起こした。これまで見た中で一番の笑みを私に向ける。
「おはようございます。今日は出かける日、ですね」
布団から半身だけを起こして。しっかりと私を見て。その瞳の中には確かに私
の姿が映っている。
「うん、待ってて。朝ごはん、作るから」
 母のために料理をする。簡単な朝ごはんだけれど、使用と思えば何度でもで
きたことだけど、それは初めての行為。大好きな人のために、出汁をとり、味
噌を溶き、菜を切る。そんななんでもない日常の、なんでもない幸せが初めて
で。
 用意した朝ごはんを二人で食べ、他愛のない話に花を咲かせ、温かくなる大
気を感じ取る。母と摂る朝ごはんも、こんな団欒も、戻ってきて初めて。ほん
と、もどって来て私は一体何をしていたのだろう。着替えた母の肩に手を置く。
そのまま肩をもんで昔を思い出す。褒められるのが嬉しくて肩を揉んだ子供の
頃の自分。母の背中に届かぬ嫉妬をしたあの頃。
 いや、もう、昔じゃない。私の手は大きくなったし、母は痩せたし、目線も
違う。もう、昔じゃない。それは残酷にも、華麗にも進み続ける現実であり、
未来へと続く序曲。だから私はこう言う。
「お母さん、今日は私が先に歩くから。私の、大切な場所に行くから」
「はい、わかりました。久しぶりですね、梗ちゃんと歩くの」
 食卓から立ち上がり、洗面所に向かう。映った自分の顔に問いを重ねた。
 果たして。人は事実を知って生きなければいけないものなのか。事実をゆが
めて幸せならそれでよいのか。
 そもそも、あの場所に何があるというのだろうか。今更、あそこが私の。
「それは梗ちゃんの大切なところ、なんですね」
 頷く。それが全てだった。問いなんて必要はない。私がそこに行きたい、教
えたい、だから今日という日は何時だって両手を広げて私を迎えてくれている。
 そうして、長い間住み慣れた家を二人で出て、歩いた。今はもう使われるこ
とのない、基地の中を突っ切るハイキングコースを。
 空がどこまでも青く、高く。気持ちいい風が解きに強く、弱く。翻弄される
わけでも頑として逆らうわけでもない植物の群れがずっと昔から繰り返す、風
へのなびき。
 母の伸びやかな笑顔に私の笑顔が重なる。うん、今日はいい日。絶対にいい
日。だから、踏み跡がぎりぎり残る道を、二人で歩く。
 簡単なお弁当に水に。いろいろ持ち上げて私が先頭を切る。風の強い岬を突
っ切り、五年前には廃道になってしまったハイキングコースを歩く。伸びやか
に、というわけにはいかない。一応基地の中だからあまり目立たないように、
上空にエンジン音が聞こえたら身体を落として。膝まで草に覆われた、母と歩
く道。あの頃は母の背中についていって、今は母が私についてくる。
 今は基地の中の忘れられたお花畑に。私の一番大切だった場所に。そして基
地用地に決まったとき、一切の立ち入りが許されないことが決まった場所に。
だけどいい。私はあの場所に行きたい。まさかこの広大な敷地に人が歩いてい
るなんて向こうも思わないだろう。それに二並が言ってくれたんだ。あの場所
に母を連れて行け、って。だから昨日、地図を見て必死に思い出した。あの場
所を。あの孤独の象徴だった場所へ、今日は母と一緒に向かう。
 歩き始めて三十分。降り返った先にいた母の顔色が極端に悪いことに気付い
た。私との距離が離れ、荒い呼吸が聞こえてくる。顔こそ笑ってはしゃいでい
るものの母は相当に体力が落ちている。それでも振り返れば笑い返す母の笑顔
が痛々しい。そもそも半分以上藪の中だ。笹が足に絡みつきもすれば、視界を
覆うこともある。歩くスピードだって通常の三分の一くらいしか出ない。頭の
中に妥協が浮かぶ。半病人の体力では限界なのかもしれない。だいたい、あそ
こへ向かおうと思っただけで十分なのだ。それ以上を期待したって仕方ないの
だ。このまま足を進めなくたって十分に努力賞だ。やはり、母を連れて行くの
は。
「見てください梗ちゃん、エゾイヌナズナです」
 母の嬉しそうな声が風の中を通る。でもナンブイヌナズナのほうがきれいで
すね。そんな母ののんびりした声が聞こえて現実に引き戻される。もう少し。
もう少し歩いてみようか。母と昔来た道を。私しか知らない場所へ。
 背丈を時折越える笹の中を歩く。今では手に入るはずもない昔の地図を眺め、
方角を合わせて微妙な稜線をたどり、一歩、道を外れる。昔から使われ続けた
ハイキングコースに別れを告げ、人の歩いたこともない稜線をたどる。ここか
ら先は私しか知らない場所だ。中学生の最後の夏、私がたどり着いた誰も知ら
ないお花畑の広がる場所へつながる稜線。あそこに行けばきっと、母は現実を
取り戻す。一歩一歩、その先を目指す。笹の奥、私がたどり着いたこの島の誰
も知らないお花畑。この高みにきっとある、その場所。期待に胸が高鳴る。母
の手を引いて、心だけがはやる。この島の高みへ。
 随分歩いた。途中で休憩もしたし、笹の切れ目では母と空を眺めて風に当た
った。遠くに見える海の紺色が空の光を反射し、どこまでも広く視界を渡って
いた。そんな中を、ずっとずっと歩く。母と私だけの道。誰が歩いたわけでも
ないそこにしっかりと踏み跡をつけて。
 頭上に青空が広がった。これ以上はない、天晴れな、青い、青い空だった。
そして。
 視界が広がった。やけに白い空が印象的なその場所。この島の高み。植物達
の聖域だったはずのところ。私の秘密の場所が覗くはずのところ。

 アスファルトが広がっていた。
 南から北へ、一直線に。無機質な黒色が。
 身体が、その場に崩れ落ちた。


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