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作品名:夏、花の島 作者:Quote

第15回   夏、帰郷
 昼休みが終わっても会えなかった二並のことばかり考えていた。長い髪の毛
をいじって窓の外ばかり見ていた。仕事なんて上の空。客室の掃除も、買い物
の伝票整理も、予約受付も身体が覚えているからできているだけ。そんな姿を
三回叔父にからかわれ四回蹴り飛ばした。昨日の無断欠勤には何も言わず、た
だ、私を笑って迎えてくれる叔父。
 ほんとうに。この場所には私の家族が似合っていた。そして叔父は私の家族
の一人で、両親と同じくらいに大切な人。そんな大切な人に好きな人のことで
何か言われると恥ずかしい。
 いつもどおり料理を作り、簡単な給仕に客相手の島自慢をして、後片付け。
誰かを好きになっても世界は関係なく回り続けて。私にとっての大きな一歩は
人類にとっての進歩ですらなくて。海の香りを含んだ涼しい風が窓から入る時
刻、いつもどおり円満に別れてバスに乗る。頭の中が二並のことでいっぱいで
バスから降りた記憶もあいまいなまま、ゲートを開き、家の前まで送ってもら
う。さて、後は母と温かい紅茶でも飲んで寝るだけ。家に続く、夏の最後を彩
る花の中を歩いて、そしてそいつはその道の終わりに立っていた。
「ききょうさん、こんばんは」
 二並が。いるはずのない基地の中に。家の前に。あってしまったら何も考え
られなくなるんだろうって思っていたけれど。頭の冷静な部分がこの状況に疑
問を挟む。二並がここにいる、というのは普通に考えてありえない。島の北半
分に住むのは私と母だけ。あのゲートをくぐることの出来るものは軍関係か、
私の家族だけ。何を疑問に思っているんだ。そんなことどうだっていいじゃな
いか。二並に会ったら聞きたいことも、やりたいことも山ほどにあるんじゃな
いか。
「二並、こんなところで待ち人なんて」
「うん、ききょうさんを待ってた」
 顔が赤くなる。ちょっとしたその笑い顔だけで胸が苦しい。社交辞令に決まっ
ているのに。だって。そんなことを言われたことはなかったから。私を待って
いる人なんていないと思っていたから。
「なに、よ。そんな嘘ばっかり」
 必死で取り繕って、自分が傷つかない方向を見る。でも独特な響きを持つそ
の言葉が頭から離れない。ききょうさん。誰かに名前で呼ばれるということが
こんなにも恥ずかしくて、素直になれる琴田なんて思っていなかった。名前で
呼ばれるということ。夢にまで見たそのことが実現したというのに、頭に残る
のはくすぐったいような、そんな感情。
「違う。ほんとうにききょうさんを待ってた。僕の」
 二並の手が肩にかかり、そっと付け加える。自分の髪の毛が風の力に揺れる。
「大切な人だから」
 脈絡なんてないその言葉。意味を理解するまもなく、近づいてきた二並の胸
に強く押し付けられて、時間が過ぎる。それだけのことなのに、心臓が競りあ
がりそうで一瞬でも早く離れないといけないのに、身体が動かなくて。
「明日、お母さんとあの場所に行ってあげてほしい。そうしたら僕のこともき
っと」
 身長も大して変わらない二並の胸にいる、ということは。顔もすぐ近くにあっ
て。何を言われているのかどうかも分からないくらいに頭が真っ白になって。
「ちょ、ちょっと、二並。私、そんな」
 言葉にすらならない。
「そんな、何」
 なんだか分からなかった。どうしたらいいのか分からなかった。そして私の
とった行動は、二並を突き飛ばして走ることだった。違う、違うのに。そんな
ことをするべきじゃなかったはずなのに。身体が覚えている方向に向かって走
り、一気に家の中に転がり込む。ほんの少しの距離のはずなのに息が上がって、
身体が熱くて。玄関の扉に身体を預けて出てきた母に何とか言葉を告げる。
「た、た、ただ、い」
 ほんと、無様に。
「あら梗ちゃん、おかえりなさい。どうかしましたか」
 いつもよりはるかに元気な顔で私を迎える母。その笑顔を見ると突然足の力
が抜けて、笑いがこみ上げる。さっきまでのことを思い出すと笑えて仕方ない。
「梗ちゃん、楽しそうですね」
 そりゃそうだ。言ってやろう。私の幸せを。母が父に連れられて学校を飛び
出したくらいに嬉しかったことを。
「お母さん、あの、あのね、私っ」
「はい、なんでしょう」
 息の間に何とか言葉をねじ込む。二並が私に言ったのより、もっと唐突な告
白を。
「好きな人、と会ってきた」
 自分がどうしようもなくアホみたいで笑いが止まらない。
「はい、知ってます。おめでとうございます、梗ちゃん。ではお茶でも飲みな
がらゆっくりと話しましょうね」
 うん、そうしよう。いろんなことを話そう。明日、母を連れて行った後、二
並に謝ろう。いや、謝るんじゃなくてこっちから言ってやろう。逃がしてやる
ものか。こんなに慌てさせた罰だ。思いっきり抱きしめて、一気にキスしてや
ろう。
「梗ちゃん、顔に出ています。強引なのはいけないと思います」
 はい、ごめんなさい。でも。たったあれだけのことでここまで取り乱してい
たら。もう、これ以上何かあったら鼻血を吹いて意識でも失ってしまう。
「でも、お父さんは強引だったんでしょ」
 ちょっとだけ母を困らせてみたくなる。
「えっ、千秋さんですか。そ、それは、言えませんっ」
「もう言ってるようなもんよ、お母さん。さあ、もう洗いざらい言っちゃお」
「もう、梗ちゃんはいじわるです。もうどうだっていいです」
 このたそがれ具合が母そのもので。笑うのが得意で怒るのが苦手で。居間の
風景はずっと昔と一緒で、ただ、私一人が大きくなってしまって。二人分の笑
い声が五年ぶりに響いて、なんだか家の中が嬉しそうだった。


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