飛行機雲を目で追ったあの日。夕焼け空に光る一番星が目に痛かった日のこ と。 壮大な家出を始めた五年前の日に今の景色が重なる。中学三年生になって島 の道路が二車線に拡張され、私の家を含めた島の北半分が立ち入り禁止区域に 指定され、基地拡張計画が遂行された。基地計画と同時に冷め切った両親の仲 にも、変わりゆく島の姿にもうんざりし、島から出て行く決意をした。両親に も知らせずに。 中学校の先生にだけ進学先を伝え、勉強した。一人暮らしの計画を立て、下 宿先も自分で探した。必死の勉強で授業料免除枠と奨学金を獲得した。やれば できるじゃないか。私は誰よりも賢いんだ、だから一人でも生きていける、そ う思った。 五年前の三月二十七日。冬の、澄み切った空の広がった日だった。書置きを 残して家を出た。家出なんだから見送りなんてない。着替えに身の回りのもの 入れた鞄一つ、甲板に立つ。島から吹き付ける冷たい雪交じりの風が顔に痛い。 隣島の夕日に焼ける光景が目に入った。軍人とその家族が別れを惜しみ、汽笛 が係留ロープを分かち、東に向けて船が動く。 夕空を飛行機雲が切り裂いていた。その飛行機雲を海の上から目で追いかけ た。白く輝く雲と、太陽を反射する機体が目にしみて、泣いた。 この運命は小さな島が背負うには大きすぎる。島の運命に自分を重ね、子供 じみた既成の感傷に浸ってみた。悲劇のヒロインっぽくて、そんな自分に愛想 がつきた。陸地からついてきたカモメが離れ、日が沈み、島影が黒く海の一部 に蓋をする。灯台の光が空を射抜き、一番星と力比べをする。天空を半分に絶 った飛行機雲がぼんやりと解けてなくなった頃、コートの襟についた涙が凍っ ていた。 悲しいことなんてないはずなのに泣いていた。自分がばかみたいだった。だ からわざと大声で泣いてやった。世界なんて滅びてしまえ。そう口にしようと した。 そんなとき。世界を恨んだ瞬間にそれはやってくる。 頬に冷たいものが触った。振り返った先、年老いた男の手に銀色の缶が握ら れていたその人は私の手を取って優しくそれを握らせる。そしてこういった。 泣くなら飲め。 男の手から奪い取って、一気に飲み干してやった。初めて飲んだ日。ふるさ とに勝手な別れを告げた日。一人で生きていってやると決意した日。 希望なんてなかった。あったのは子供の意地と滑稽な屁理屈。 高校時代は生きていくのに必死で振り返っている暇なんてどこにもなかった。 身分違いの高校と、最低限度の生活も危うい奨学金と、冷気の入り込むぼろア パートと、被服工場のバイトの日々。生きていくってことは世界一難しいこと なんだって知った。私の五年は五秒で回想できるものなんかじゃない。気を抜 くとこの世界のどこかに自分が四散してしまいそうな日々だった。 高校一年生の夏。ひとりっきりの生活に疲れ果てた。元来金持ちが通うよう な私立高校に私のような家出人が来るべきではなかったと思い知らされて。そ んな貧乏まっしぐらの私に友人ができるわけもなくて。被服工場のバイトに疲 れ、都会の生活に苦しんで。 セミの声を初めて聞いた日。制服のブラウスに背中の汗が滲んだ日。明日と いう日が終われば実家に戻ろう、そう決めた。夏の大気を感じたその日、学校 の事務所に退学願の様式をもらった。濃密な、でも愁いを帯びたにおいの空気 を肺から大気へと戻す。私はセミのいる大気の下では生きていない。 最後だから学校を巡ってみた。踏み入れたことのなかった六面張りのテニス コートに入り、映画でも流せそうな視聴覚教室のドアを突っつき、そして植物 園の手前にまで足を進めた。関心はなかったけれど最後だから目を通した。足 を進め、門をくぐる。気の利いた花を咲かせる異郷の植物の間を妙に落ち着い た気分で通る。 そして、その場所が私を待っていた。 息が止まった。青のらせん状の花。小さいけれど五枚のしっかりした花弁を 空に向かって突き出す白い花。エンドウに似た、でも、小さくて白い絹毛をか ぶったふるさとの名前を冠した気高い花。いや、花、なんて名前じゃない。私 は知っている。彼らに与えられた気高い名前を。
得撫草、色丹草、礼文草。 故郷を背負った風変わりで気高く、消えゆく花。
ああ、これだと。 こみ上げたものは涙ではなかった。代わりに人生で最高に笑った。もしかし たら私も。彼らと一緒にこの大気の下で生きていけるのかもしれない。退学願 を丸めて捨てた。 何があっても絶対に負けない。その記念日に髪を伸ばし続けることにした。 一人で生きていく。大切なものを切り捨てて、強く、強く。たとえ何かを踏ん づけて壊してしまっても、私だけは生き残ってやる。その証の長い髪。高山植 物を毎日観察し、世話した。自分なりにまとめた高山植物の開花機構を発表も した。どれだけ立派な自分になろうとも私は大切なものを捨てて歩いてきた。 だけど、そこまでして強くなった私は、一体何を失ったのだろう。結局は故 郷の花にとらわれ、弱さを隠してきただけの生き方。勝負せずに、勝ったと言 い張るような生き方。こんなのじゃ、どこまでいっても母にはかなわない。人 生を賭けられるほどの存在もなければ支えるべきものもない。 分かっていた。母は立派だって。私の大切な人だって。まだまだ母に甘えた いんだって。 そっと目を閉じ、目の前で手を合わせる。 今、この大気の下で宣言しよう。北の果ての、この生まれ故郷で。 母さん。私は、ここにいます。戻ってきました。 「ここでしたか」 夕暮れの凪の一時。植物の葉が纏った露に太陽の金色。優しいその声に顔を 上げる。 「梗ちゃん、ばんごはんです。お友達の遊びに夢中でしたか」 校庭の真ん中に立つ、その人の姿を見つめる。金色の大気の中で優しく笑う 大切な人の姿を。変わることのない世界に閉じ込められた、強いその人が私に 声をかける。誰よりも強く、ときに私以外の世界全てに暴力的なその人。私の 母親。千島小桜。千島千秋の妻。笑うのが得意で怒るのが苦手で、泣き虫の人。 どれほどの言葉を費やしても語れないのに、たった一言で呼ぶことのできる人。 「母さん、ありがと」 今。五年経って。ようやくこの島に帰ってきたのだと思う。私の目を見て母 が笑い、告げる。 「帰りましょう、梗ちゃん」 もちろん過去の私が見えているのだろうけれど。それでも頷く。母に幸せを 与えてあげたかったから。贅沢は言わない。一緒にいてくれとも言わない。た だ、幸せの中に身をおいてくれれば。焦らなくともきっとわかってくれる。母 は今、悲しい記憶にとらわれているだけだ、と。自分で気付く。だって。 母は強いもの。 「うん、ただいま」 私は帰る。蝉のいない、夏の大気の薄い花の島へ。夕暮れの景色が美しい、 彼岸の島へ。長い、長い家出を終えて。失ってしまった思い出を飛び石のよう に渡って。
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