世界なんて滅びてしまえ。この島を出た五年前に呪った同じ言葉を繰り返す。 その言葉を声にしようと口をあけて。 「ききょうさん、こんばんは……誰かを待ってるの」 幻想的に聞こえてくる穏やかな声。ああ、今私が一番欲しい人の声。でもこ んなところにいるはずがない。幻想だから、皮肉を言ってやる。 「……うん、私が帰ってくるのを待っててさ」 笑ってやった。泣く代わりに。そして目を閉じて涙を閉じ込める。 「そっか。じゃ、雨宿りしよ」 どうだっていい。幻想だろうが妄想だろうが、現実だろうが。快楽のあるが ままに向かう。差し出した私の手を水の滴る二並が握り、その場所へ導く。私 が卒業した年に廃校となった平屋の校舎の中へ。随分小さく見える教室に置き っぱなしの机と椅子。懐かしいはずのそんな奴らを無視して教卓に二人で腰掛 ける。冷えた体が二並の熱で温まる。二並の幻想的な優しさが私を幻想的な世 界へと誘う。二並腕の中でさっきまでの思いが消え、穏やかな気持ちが戻って くる。重いまぶたにあの日のことが浮かぶ。 涼しい風が島全体を覆い尽くした日のこと。そんな夏の晴れた日のこと。中 学三年生の夏の一章。その日、私は家に帰りたくなかっただけかもしれない。 家の側を流れる川を遡ろうと思い立って藪の中に足を踏み入れた。時折現れる 荒々しい岩の滝をゆっくり登る。
―――制服のまま沢の中を登る。青空に続く笹の中の冷たい水。やがて川か ら水が消え、目の前にはどこかの山頂。青空の高みへと体を運ぶ。 見たことのない景色が広がっていた。紫色の螺旋のような花。白い、柔らか な衣をまとった花。稀少な高山植物が惜しげもなく咲く場所。誇ることもなく、 ただ美しく。強い風に揺れるお花畑が幻想的だった。夕暮れが近づいて肌寒く なる。隣島の山肌が赤く染まり、私の暮らす集落に電灯がともる。はるか遠く の都会の光が星を写した海に輝き始めた月明かりの下。そんな夕暮れの終わり。 あまりにも美しい景色に呆然としたまま時間を過ごした。長い夏の日が終わ り、なにもかもを覆い尽くす夜が訪れる。 乾ききらない制服が夜風に冷たくて丸まった。ふと、目線に着飾った美しい 高山植物の中、岩陰で頭を垂れる黄色い花を見つけた。たとえるならばタンポ ポのような形。小さく、地味で。私のようだ、と思った。だからそっと、その 花を風から守ってあげた―――
花を包み込んで横になって寝た。頭上を飛ぶヘリコプターの音がうるさいは ずなのに、とっても穏やかな眠りが訪れ、そして切ない夢を見ていた。この島 の悲しい物語の夢を。この島で繰り返される悲しい物語。避けようのない、呪 いの物語。 いつのまにかヘリのローター音が消え、朝露の中で伸びた影に気付く。父だ った。父の差し出した手の強さと、温かさを知った日。 「でも、僕はうれしかった……おかげでこうやっていられるから」 まぶたの重い私の耳にそんな言葉が届いた、気がした。 思い出した。あの時見つけた花の名前。そう、この島の岩陰にしか生えない 幻の花。
フタナミソウ。 二並草。その言葉と共に、好きな人の腕の中で再び眠りに落ちる。
気がつくと金色の世界の中にいた。 夕暮れ間近。小学校の教室に一人。あのまま眠りこけ、朝になって誰もいな い机で目を覚ます。フナ舞の腕の中にいた時間をゆっくり思い出し。動く気力 もなく椅子に座り続けてこんな時間。小さな椅子から教卓を見上げる。 「ほんと、小さかった、私」 独り言が大気に吸い込まれる。この、次官の止まった北の果ての大気に。 教室独特のにおい。薄汚れた黒板。廊下の照り返し。自分の机を優しく抱い て、キスしてみた。木製の少し埃っぽいにおいと温かさが唇に印象的な夕暮れ。 八年以上前から画鋲に刺された掲示物を眺める。夏休み中の注意、町内のお知 らせ、そして年間行事計画。あの頃の残骸を目で追って、一つ一つ、埋葬して いく。夏祭り、スキージャンプ大会。校庭に水を張ってスケート。ああ、ほん とうに。素晴らしい子供時代だった。親子ハイキングは両親と行った。島の西 側に広がる崖を歩いた。穴の開いた貝殻を見つけては拾い、糸でつないで母に プレゼント。貴重な高山植物を摘んで遊んで先生に怒られたこともあった。交 通安全教室なんて思い出すだけで顔が綻ぶ。島にわずか三つしかない信号で勉 強するのだ。赤信号は渡っちゃダメだって。そんな注意を聞いた直後、私は赤 信号を渡って母に怒られる。 「赤信号は止まらないといけません。梗ちゃん。その、そうしないと、えっと、 困りました」 それが母の怒り方だった。普段より少しだけ真剣な顔が母の精一杯の怒り顔。 怒るのが苦手で、笑うのが得意な人だった。 対する私は得意に反撃。 「だって、車来てなかったもん」 ものすごいふくれっ面で顔を真っ赤にした自分が浮かぶ。母と先生の笑い声 が頭の隅に残っている。そしてその隣には笑顔の母。私は。ほんとうにたくさ んの人に愛されて元気よく育っていた。私の隣にはいつも父か母がいて。 幸せだった。もう、戻ろう。現実に。 小学生並みの家出は小学生並の理由で終了だ。それでも帰るのが怖いから。 それだけの理由で太陽が落ちるまで校庭で過ごす。迎えに来て欲しい。私の拒 絶したその人に。わがままだけど。 誰も入らなくなった校庭に咲くキンバイが夏を告げる。雨が降った後の冷た い、湿っぽい、世界一きれいな空気が身体を満たす。 そして夕暮れの景色はいつもいい。 機影が夕空に光り、北に飛んでいく。空を二分する飛行機雲を目で追いかけ た。
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