島に戻って二週間目。退屈な生活に身体が慣れてきた。民宿の手伝いにガイ ド、その間で二並や高嶺と会ってばかな話と飲み会の毎日。この島のけだるい 、涼しくて強い風の中で私はこの微妙な状況を当然のものとして受け入れてい た。要するに母のことをあきらめきっている。適当にあしらって、適当に無視 して。そんな秋の訪れをふとした拍子に感じる日のこと。 朝から降り続ける雨がこの島を霧の中に閉じこめ、肌寒さに勢いをつける。 傘なんて持ち歩いていないから全身ずぶぬれ。気分が優れない。母が玄関先に 立っていた。余計に頭が重くなる。 「梗ちゃんずぶぬれです。タオル持ってきますね」 走りよってきた母が奥に戻る。この島を飛び出した日から伸ばし続けた後ろ 髪が頭に重く、背中に冷たい。 「はい、どうぞ……梗ちゃん、どうかしましたか」 ぞんざいに受け取ろうと、手を伸ばす。自分でも気付かぬ瞬間にその手が宙 で止まり、息が出来なくなった。 忘れようとしていたそれが視界の真ん中に居座る。 笑い顔の母の顎の下あたり。赤黒い何かの塊を見つけて。いや、そんなごま かし方はしなくていい。もう間違いない。母は吐血を繰り返している。身体か ら力の抜けるような絶望感が訪れた。この島に戻ってきてから溜まっていたも のが吹き出る。抑えきれない。いい子供を取り繕うなんて思う気持ちすら吹っ 切れた。タオルをひったくり、闇に投げ捨てる。母の肩をつかんで壁に強く押 し付けて、あとは感情に任せるままに。 言ってやった。 「なんで言ってくれないの。身体壊してんでしょ。笑って隠さないでよ。お父 さんに頼って生きてきたくせ。今更一人で大丈夫みたいな顔して。それで現実 逃避していない娘をかわいがってるつもりなんでしょ、ばっかみたい。お母さ んの知ってる千島桔梗はいないのよ、もう。いい加減に目、冷ましてよ」 病気なんてどうだっていい。自分から壁を作って子供を拒否する母が憎い。 自分のことを隠し通そうとする母が憎い。 玄関の壁に拳をぶつける。大きな音がして小物が棚から落ちる。ずっと言っ てやりたかったことをぶつけてつづける。一人で頑張ってきてお母さんにわか らない苦労をしてお母さんに認めてもらいたくてお母さんに褒めてほしくてお 母さんに大好きと思ってほしくてお母さんに甘えたくてそれが無理なら今のお 母さんを助けてあげたくて必死で帰ってきたのに甘えさせてもくれなければ甘 えてもくれなくて子供でも親でもない関係の癖にこのうえなくやさしく笑って その笑い顔をこっちに向けるな迷惑だ鬱陶しい。笑うな、笑うな、笑うな。
あんたの桔梗はここにいないんだ。生まなきゃよかったんだ。
それが言葉になったのか私にもわからない。喉が枯れ、息が上がり、床にへ たりこむ。酸欠で視野が暗い。笑顔の壊れる音が聞こえた。そしておなかを押 さえて玄関先で頭を擦り付ける母の姿があった。 母の口から漏れ出る、笑いを押し殺したような声が全てを凍らせる。凍り付 いた笑顔が崩れ、喉から漏れていた奇妙な声が言葉を形作る。 「ごめんなさい……桔梗を殺さないでください……桔梗は私の子どもです」 言葉が世界を壊す。悲痛に泣き始める。その言葉の意味も、向けられた先も わからない。絞り出すような声で繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい。ご めんなさい。桔梗は私の子どもです。生きています。 「母さん、何を、私は生きているから、ほら」 ひねり出した間抜けな言葉が空しく跳ね返る。肩に乗せた手は振り払われ。 その悲惨な言葉は終わらない。ごめんなさい、ごめんなさい。殺せないです。 「ごめんなさい……桔梗を殺さないでください」 頭の中に繰り返される懺悔がこだまする。 ああ、この声を繰り返す人は誰だったのだろう。 目の前で泣き続けるこの人は、誰なのだろう。その泣き声は母親特有のもの だった。誰も知らないところで戦う強い母だった。その女の人は「桔梗」とい う子供を持つ母親だった。母親は自分の娘を何よりも大切にしていた。 そして私は、その人の娘ではなかった。 あの出て行った日。私と母は他人同士になった。もう、ここに私の居場所は なかった。 私は幸せの日を夢見続ける哀れな「母親」を観察する他人。娘の振りをして、 マッチ一本ほどの温かさも勇気も持ち合わせずにのうのうと戻ってきた悪人だ。 家を飛び出した。家の前に広がるキンバイの花を、トラノオのうす桃色を、 玄関先のとっくに枯れてしまった母の鉢植えを、五年前からおきっぱなしの私 の自転車を蹴っ飛ばして。踏みつけて。思い出を壊して。海を左手に見て、引 きちぎった草を土ごと投げ捨ててやった。それでも足りなくて。暗い方へ走っ てやった。死んでやろうと目をつぶって走った。運良く崖から海に飛び込める ことを切望して。 なのに。息が切れて目を開けると世界一滑稽な場所にいた。通っていた小学 校の校庭のど真ん中。母と一緒だ。不幸から逃避して幸せの記憶がある場所へ 向かって。 校舎を見てやる。草に覆いつくされ、平屋建ての空色の校舎が廃墟そのもの に街灯を反射する。さびきった鉄棒に頭突きをくれてやり、古タイヤにつまづ いてひっくり返った。最低だ。暗い、雨の降る夜空に一人。空を見上げていた。 顔から胸元に流れ込む雨が気持ち悪くて、そんな気持ち悪さが気持ちを代弁し ている。 「……この…大馬鹿者」 息の切れ間から口にする。泣いてみた。覚悟なんてできているわけがなかっ た。私が帰ってこれば。あの、誰にも優しく上品な母親に戻ってくれる、そう 思っていた。今更。自分だけはこの家から逃げ出して。自分だけはあの人の子 どもだと思っていた。あの人を救えるのは自分だけだと思っていた。なのに。 幻想の私を愛する母が悔しくて。思いっきり泣いた。声を上げて、五年前の晴 れた日ならば見えるはずの漁火に呪いをぶつけた。 世界なんて滅びてしまえ。
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