「すべては、ここからだと」 言葉少なめに、つぶやく一人の女性がいた。 彼女は、悲しそうに海のむこうを見ていた。 その姿を、不思議そうに見つめる少年がいた。 彼女は、その少年に気付かず、そうつぶやくと、海を背にバス停まで歩き始めた。 少年は、その後ろ姿に、何かを感じていた。
これが、二人の再会の始まりだった。
彼女の名前は、ない。 なぜなら、彼女自身が、わからないのだ。 自分のことをすべて。 彼女の記憶は、愛する人と来たこの、海だけだった。
まわりに、「由紀子」と、名前をいわれつづけても、理解できなかった。納得できないでいた。 彼女の記憶は、この海でとまり、自分が何をしていたか、両親さえ、わからないでいた。
彼女は、バスに乗り込み、そして、また海を見つめていた。 涙をこらえるように、自分の薬指をみつめ、さすっていた。 そこには、日焼けした指輪のあとがあった。
少年は、最後まで、その女性を見送っていた。 少年は、海にこういった。
「僕の、とおさん。母さん。どこにいるの?」
後ろから、かすかに聞こえる声がした。 少年を呼ぶ声、後ろをふりかえると、老婆がいた。
その老婆は、少年を優しく包み、こういった。
「おうちへ帰ろう」
少年は、泣いた。 何も言えずに泣いていた。そして、声が大きくなるのが自分でもわかっていた。
そんな少年を老婆は何も言わずに、やさしく包んでいた。
夕日が、海に隠れはじめ、あたりは、すこし冷え込んでいった。 夜が、そこまで来ていた。
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