私の名前は、君島万里(きみじままり)。栃木県出身、二十二歳。専門学校で商業デザイン科を卒業しアルバイトを経て、今年の春からWIZM(ウィズム)企画プロダクションに勤めている。勤め出してまだ半年。 モデルやタレントを預かる華やかなタレント事務所の傍ら、会社自らも企画・撮影を手掛けているこの会社では、暇な時期というものがまったくない。それでも私は、この仕事にやりがいを感じている。 「万里ちゃん、コピーお願い。こっちは社長にチェックしてもらって」 そう言ったのは、牧美里(まきみさと)先輩。若いけれど事務所のベテランで、受付事務をこなしながら、事務所を動かしている。尊敬する先輩の一人だ。 「はい!」 いい返事をして、私は素早くコピーを取り、社長室へ向かった。 「失礼します」 そう言って社長室に入ると、奥で木村広樹(きむらひろき)社長が書類に向かっていた。社長といっても、まだ三十代前半の若社長である。 「ああ、万里ちゃん」 気さくに笑って社長が迎えた。 社長は明るく優しい雰囲気を作り出してくれる人で、この事務所の居心地がいい理由のひとつは、間違いなく社長の人柄が良いせいだと感じている。 「チェックお願いします」 「はいはい、持ってきて」 そう言う社長は、苦笑しながら溜息をつく。 それもそのはず、社長の目の前には、チェックすべき書類が山のように重ねられていた。 「見てよ、この山。月末はいつも大変だよ」 社長の言葉に、私も苦笑した。 「お疲れ様です」 「ありがとう。鷹緒がいれば、もう少し楽させてもらえるんだけどねえ……」 諸星鷹緒(もろぼしたかお)――。入社して半年、その名前を聞かなかった日は多分ない。 その人は、この事務所の企画部に勤務し、人気のあるカメラマンだと聞いている。更に女子にも人気で格好が良く、仕事が出来、鬼のように厳しく、今は二年間の契約でアメリカへ出張扱いという形で仕事をしているらしいが、私はその人の顔や作品を見たことがなく、大きくなった噂だということを理解していた。 「そっちはどう? もう仕事は慣れたかな?」 続けて社長が言った。 私にとっては膨らんだ噂だけの男性より、目の前の社長のほうに興味がある。社長は持ち前の格好良さに加え、優しく微笑むその顔にはいつも癒される。 私は少し赤くなって頷いた。 「はい。毎日ついていくのが精一杯ですけど……ミスしないように頑張ります!」 「いい心意気。よし頑張ろう!」 「はい!」 そう言って、私は社長室を出て行った。 「俊二! おまえ、鷹緒さんからのメール見てんの?」 そんな声を聞きながら、私は奥にある企画部を見つめた。月末の企画部はあまりの忙しさで、戦闘状態の社員が切羽詰まった様子である。 「見てます。見てますけど……」 恐縮するように言い訳をしているのは、企画部の先輩である、木田俊二(きだしゅんじ)さん。私はこの人から仕事を学んでいる。俊二さんはカメラマンでもあるため、覚えることはたくさんあった。 「でも編集してないじゃん。このまま使うわけ?」 「相手は鷹緒さんですから、向こうでレタッチしてくれてますよ」 「そういう話をしてんじゃないって。こっちの雑誌社に回す写真だろ。レイアウトのプランまでこっちで加工する約束じゃないのかよ」 「すみません。わかってたんですが時間がなくて……すぐやります!」 カメラマンとしては一人前の俊二さんも、企画部では下っ端扱いである。すぐやると言っても、今は目の前の仕事だけで手一杯なことを、私ですらも知っている。 「ごめん、万里ちゃん! ちょっと来て……」 私は呼ばれる予感を感じていたため、苦笑して俊二さんの元へ行った。 「聞いてただろうけど、ごめん、手伝って……」 泣きの入った俊二さんだが、私は目の前のパソコンに広がる写真を見て息を呑んだ。 「すごい、綺麗……」 大きな空と綺麗な海が一面に広がった、海外と見られる写真だ。 噂の諸星さんから、メールなどで送られてきたものである。アメリカで仕事をしている彼だが、日本国内からも発注が続き、海外でも出来る写真ならと引き受けているらしい。 最近では、こうしてこちらの事務所で加工して、編集社へ回して雑誌になることも増えているほか、アーティストやモデルなど、わざわざ彼を指名して、海外まで撮影に行くことも増えているという。 そんな諸星さんという人は、私の中でも単に膨れ上がった噂だけではないと思っていたが、作品を見るのは初めてだった。 「鷹緒さんの写真だからね」 「私、初めて見ました。諸星鷹緒さんの作品」 「ええ? そんなことないでしょ。会議室に飾られてる写真とか、ホームページの写真とか、みんな鷹緒さんだよ」 「そうなんですか? あ、あのカレンダーみたいに綺麗な写真……そうですよね、こんな写真撮れる人ですもんね。全然知らなかったです」 俊二さんは苦笑しながらも、立ち上がる。 「このパソコン使っていいから、このプラン通りに加工してくれる?」 そう言って、俊二さんは雑誌のレイアウト表を机に置いた。サイズが書かれ、楕円形やひし形などに加工しなくてはならないらしい。比較的簡単な作業だ。 「わかりました。この通りにやればいいんですね」 「うん。ごめんね、僕の仕事なのに……明日締切が、あと二つも残っててさ」 「大丈夫です。私は暇ですので」 「じゃあ頼むよ」 逆に私のデスクに座り、別の仕事を始める俊二さんに頷き、私はパソコン画面に食いついた。 ほれぼれするくらいの写真だが、今は浸っている暇はない。デザイン学校に通っていたため、写真のレタッチなども慣れているが、実践でやるのはまだ日が浅いので緊張する。 慣れていれば三十分程で出来る作業だが、私は一時間以上を掛けて、ようやく加工をし終わった。 「俊二さん、出来ました!」 「ありがとう。急にごめんね」 「いえ。やりがいあるので嬉しいです」 「あれ? ねえ……保存した?」 私の仕事成果をチェックしていた俊二さんが、青い顔をして言う。 「もちろんしましたよ」 「……上書き保存だよね?」 「はい。何か……違いました?」 溜息をつく俊二さんに、私も青くなる。 「万里ちゃん、違うよ……海の写真が丸で、人物写真がこっちの四角でしょう?」 「え? ああ!」 初歩的なミスだった。プラン通りにはやっていたのだが、加工する写真が逆だったのだ。 「ど、どうしましょう!」 「やり直し、だけど……上書き保存でしょう? ヤバイな。サーバーの保管期間も過ぎてるし、元の写真、バックアップ取ってたっけ……」 それは俊二さんのミスでもあったが、私は申し訳なさに肩をすぼめる。 「ごめんなさい……」 「いや。元はと言えば僕の仕事だから……」 「でも私がちゃんと出来ていれば済む問題で……仕事増やしてしまったなんて!」 「いいってば。でも、参ったな……」 そう言う俊二さんも青くなり、がっかりした様子だ。 「やっぱりバックアップ取ってない。どうしよう……」 「ど、どうしましょう……」 「何を二人で青い顔してんの?」 その時、社長室から社長が出てきて、そう声をかけてきた。 「あ、社長……」 「なに、その顔は。重大なミスでもあった……?」 聞きたくないような何とかしないといけないような、複雑な顔をして、社長は俊二さんを見つめている。 「すみません! 鷹緒さんからの仕事の写真、加工してたんですけど間違えてしまって、元データも誤って消してしまいました!」 「すみません。私のせいなんです!」 俊二さんと私が同時に言った。 社長は頭を掻く。 「なんだ。加工に失敗したってことか。バックアップは? メールに残ってないの?」 「それがかなり前に送ってもらったものなんで、サーバー保管の期限もとっくに……」 「まったく抜けてんだから……でもまあ、それなら鷹緒にもう一度送ってもらえばいいだけじゃん。よかった、もっと重大なことかと思った」 十分に重大なミスだが、確かになんとか出来る問題でもある。 「さっさと電話しちゃえよ。それに初めから加工まで頼んでおけば、あいつならやるだろう」 「でも、こちらの仕事ですしね。向こうも忙しいでしょうし、急に加工まで頼まれたんで」 「しかし、地方ロケとかで遠くに行ってないといいけど……」 社長はぶつぶつとそう言いながら、棚にあるファイルを取り出し、俊二さんに差し出した。そこには、諸星さんの連絡先が書かれているようだ。 「今、夕方だから……あっちは真夜中だな。おまえかけろよ、俊二。僕はあいつの寝起きで超不機嫌な声なんて聞きたくないから」 「はい。でも、そんなの僕もかけたくないですよ……」 社長室に戻っていく社長を見つめながら、俊二さんは電話の受話器に手をかける。 その時、私は意を決して前に出た。 「俊二さん、私にかけさせてください。私が悪いんですもん。私がかけて謝ります」 「……でも万里ちゃん、鷹緒さんとしゃべったことないんじゃないの?」 「そうですけど、社員として、ちゃんと話せばわかってくれると思います」 「それはそうかもしれないけど……じゃあ、お願いしようかな」 俊二は困ったようにしながらも、私に任せてくれた。久々の電話でありながら、頼み事や失敗を報告しなければならないのは、諸星さんの弟子として嫌だったこともあるのだろう。 私は初めての国際電話を、マニュアルを見つめながら緊張してかけた。 数回の電子音の後、別の呼び出し音が鳴る。 『Hello……?』 少し遠めに、眠そうな男性の声が聞こえた。私は慌てて俊二さんを見つめる。 「俊二さん、英語です、英語!」 「当たり前でしょ。出たなら話して」 「あっ、そっか。えっと……」 『ん……誰? 日本から?』 こちらの声が聞こえたのか、電話口の声は日本語になっている。 「はいあの、こちらWIZM企画プロダクション企画課の、君島万里と申します。諸星鷹緒さん……で、いらっしゃいますか?」 『そうだけど……何? 今こっちが何時だかわかってる?』 「は、はい。夜分遅くにすみません。はじめまして」 『夜分じゃねえよ。もう朝、四時。ったく、さっき寝たばっかなのに……』 初めて話す諸星さんは、明らかに不機嫌だ。 誰だってこんな時間に起こされたらそうかもしれないが、社長や俊二さんが電話を掛けたくない気持もわかるくらい、その声はとっつきにくい。でも、ここで負けるわけにはいかない。 「本当に申し訳ありません。しかもこんな時間から恐縮ですが、大至急、お願いしたいことがありまして……」 『……何?』 相手も悪い予感がしているのか、身構えているようにも聞こえる。 私は怒られるのを承知で、思い切って口を開いた。 「すみません! 先日送っていただいた写真、誤って私が上書きしてしまいました!」 瞬間、沈黙が走った。 『……あっそう。で、じゃあもう一度送ればいいの?』 思いのほか、諸星さんの声は先程より穏やかになっていた。むしろ優しい印象を受ける。 「はい。あの、本当にすみません……」 『いいよ。なんだ、もっと重大な事でも起きたのかと思った』 先程の社長の言葉に、重なるような気がした。 「すみません……」 『もういいから。それより、そこに社長か俊二、いる?』 「はい、います。俊二さんが。社長も、呼べば社長室に……」 『じゃあ、とりあえず俊二でいいや。代わって』 「わかりました」 受話器を差し出す私に、俊二さんは少し緊張したように、電話を代わった。 「はい、代わりました。俊二です」 『俊二……おまえの仕事だろうが!』 いの一番、諸星さんの怒鳴り声が聞こえた。ざわついている社内で普段から大音量に設定されている電話ということもあり、それは私にもはっきりと聞こえ、電話口だというのに事務所内に響くような声だった。 「す、すみません。本当すみません!」 俊二さんは謝ることしか出来ないようだ。 私にとっては先輩である俊二さんが頭が上がらない様子を見て、諸星さんという人の偉大さのようなものを肌で感じる。 『ったく、新人に電話かけさせんなよ。そんなに俺が怖いのか?』 頭が起きてきたのか、諸星さんは落ち着いたように、だが淡々と話し出している。 「怖いですよ……ミスしたなんて知られたくなかったですし……でも、電話は万里ちゃんが自分から言い出したことで、無理やりじゃないっすよ」 『一緒だよ。先輩なら、おまえが責任をもって連絡しろ』 「はい、すみません……」 『この間のデータって、フォト雑誌のやつ? それとも……』 「そうです、それです。すみません。ずいぶん前に送っていただいたのに……急にレイアウト加工まで頼まれたんですが、忙しい時期なんでギリギリになってしまって……」 『それはいいけどさ、べつに加工は苦じゃないから、今度そういうのあったら先に言って。そこまでやってから送るよ』 俊二さんは、真似出来ないタフさに苦笑している。 「ありがとうございます。でもあんまり無理しないでくださいよ。最近、鷹緒さん目当てに、日本からも写真集撮影とかのオファーがいってるそうじゃないですか」 『ああ。この間も、新人グラビア衆がわざわざ来たよ。まあ最近、どこへ行っても変わり映えしないな』 「そうかもしれませんね」 『ああ、今送ったよ。確認して』 「え、もうですか? ありがとうございます」 俊二さんは慌ててメールを開いた。すると、すでに諸星さんからのメールが届いている。 私もその仕事の素早さと、どうにかなったという気持ちで、ほっとした。 『もうって、おまえが起こしたんだろ? ったく、このまま寝たら昼まで起きなくなっちゃうじゃん』 「すみません。明日はお休み……じゃないですよね?」 『んな訳ないだろ。朝から撮影……しょうがないからこのまま起きてる。早く起こしてくれて感謝するよ』 皮肉も交じっていたが、諸星さんの言葉は嫌味に聞こえない。 「本当にすみません。ファイルも無事に開けます。ありがとうございました」 『もういいよ。じゃあ……』 『Takao? Were there any troubles?』 その時、電話の向こうで女性の声が聞こえた。 『ああ……That’s nothing serious……じゃあな。しっかりやれよ。あ、電話かけて来た新人の子にも、大丈夫だからって言っておけよ』 諸星さんが電話を切ったことを確認し、俊二さんは真っ赤になって深呼吸した。 私は近くにいて、電話の声はすべて聞こえていたので、諸星さんの優しい言葉が沁みた。 でも俊二さんは、別のことで顔色を変えている。 「こりゃあ一大事……」 そう言った俊二さんと目が合った。俊二さんは、私を安心させるように微笑んでくれる。 「ありがとう、万里ちゃん。もう大丈夫。ちゃんと送られてきたから。あと聞こえてたと思うけど、鷹緒さんが大丈夫だからって、万里ちゃんに伝えてって」 「はい、聞こえました。でも本当に大丈夫でしょうか……すごく怒っていらしたみたいですけど」 俊二さんは苦笑する。 「大丈夫だよ。あの人が怒ったのは僕にだし、それも一発目だけ。いつもそうだからわかってたけど、やっぱり迫力あったな……久々に怒られちゃったよ」 「でも……」 「あのね、たとえ万里ちゃんがミスしたって、僕の仕事なんだよ。それを知ってる鷹緒さんは、万里ちゃんには絶対に怒らないよ。そういう人だから」 「そうですか……でもごめんなさい。私のせいで怒られちゃって」 「だからもういいって。誰から見たって、元ファイルを残しておかなかった僕が悪いんだよ。他の誰のミスでもないし、それは僕もわかってるから、もうやめよう」 そう言って、俊二さんは立ち上がる。 それを止めるように、私は口を開いた。 「わかりました。でも、もう一度私にやらせてください」 「いやいいよ、こっちの仕事も先が見えたし、もう定時だし……」 「定時過ぎに帰ることなんていつもです。最後までやらせてください。お願いします!」 責任を感じているのもあったが、与えられた仕事は最後までやり遂げたい気持ちがある。 私の熱意に押されたように、俊二さんは頷いた。 「わかった。じゃあお願いするよ」 「ありがとうございます!」 「今度はコピーをいくつか作っておいたから大丈夫だけど、一応別名で保存して。あと、ちゃんとプラン表を見て、今度は間違えないようにね」 「わかってます。頑張ります!」 私は笑顔に戻って、パソコンの前へ座り込んだ。また失敗するかもしれないということは怖かったが、きちんと最後までやりたい。 俊二さんはそのまま社長室へと向かっていくが、逆に社長室から社長が出てきた。 「社長、大事件です!」 そう言った俊二さんは、どこか楽しそうにも見えた。 その言葉に、私は気になって思わず振り向く。 社長は怪訝な顔をしながらも、俊二さんの言葉に微笑んでいる。 「なに? 鷹緒の電話、もう終わったの?」 「はい、それは……で、鷹緒さんの電話の向こうで、金髪美女の外人の声が!」 「ええー!」 定時を過ぎて、いつもより増してアットホームな雰囲気となった事務所内が、一気に諸星さんの話題で盛り上がる。 「なんで金髪美女ってわかるんだよ」 社長は驚きつつも、苦笑してそう言った。 「あ、ああ。外国人女性はみんな金髪美女かと思って……でも、なんか英語でペラペラしゃべってました!」 「ふうん。なんだって?」 「僕、英語さっぱりなんでわかんないっすよ。でも真夜中に女性といるなんて、こっちじゃそうそう聞かない話なんで、興奮しちゃって……」 「確かにね。まあでも、こっちで真夜中に鷹緒へ電話しても、一緒にいる女性は声なんか出さないと思うけど……そこは外国だからかなあ」 そう言っている社長は、冷静に物事を分析しているように見える。というより諸星さんとは昔からの知り合いらしいので、見えない信頼のようなものを感じた。 そのため、きっと諸星さんに女性がいようと、それはしっかりした付き合いだと信じているし、そこに女性がいても、仕事で女性と泊まらざるを得ない状況も少なからずあるだろう。大事にする問題でもないと思ったのだと、私は社長の心情を分析した。 その時、企画課の電話が鳴ったので、電話の目の前にいた私が出た。 「はい。WIZM企画プロダクション、企画課でございます」 『諸星ですけど。さっきの子かな?』 そこには、今話題の渦中にいる諸星さんの声がある。一気に私は緊張した。 「は、はい。君島です」 『うん。べつに怒ってないから、気にしなくていいからね。それから、社長いたら代わって欲しいんだけど』 「社長ですね。わかりました」 私は用件だけを聞いて、社長を見つめた。 「僕?」 「はい、諸星さんです」 「おお、向こうからとは珍しい。もしもし?」 受話器を取る代わりにハンズフリーのボタンを押して、社長は楽しそうに電話を受けた。そんな様子から、諸星さんという人がいかにこの事務所で大切な人なのか、改めてわかった気がする。 静まり返った定時過ぎの事務所には、ハンズフリーのスピーカーからでは、聞き耳を立てなくてもよく聞こえる。 『ヒロ? 久しぶりだな。そっち、大丈夫かよ』 「大丈夫。悪かったな、夜中に起こしたみたいで」 『本当だよ。おかげですっかり目が冴えた』 「ハハハ。今、おまえの噂してたとこ。金髪美女が隣にいるんだって? しがらみないからって、そっちでやりたい放題してくれてるんじゃないだろうな。今、ハンズフリーにしてるから、ちゃんとみんなに弁明しろよ」 電話の内容に興味津々の様子で、事務員たちは手を止めて電話を見つめている。 『金髪美女? ああ、俊二だな。そんなくだらないこと言ってんの……金髪じゃないけど、赤毛美女ならいるよ』 「ほう。それはキャサリン? エイミー?」 『なんでそんな英語の教科書みたいな名前なんだよ……エマっていうんだけど、三崎さんの友達っていうカメラマンのスタッフ。よく仕事でかちあってんだけど、ここ一週間も、うちで泊まり込みの編集作業に使われててさ』 三崎さんというのは諸星さんの師匠で、日本でも有名な写真家の一人であると聞いている。今はアメリカに拠点を置き、二年契約で諸星さんを呼び寄せた張本人でもある人のようだ。 「二人っきりで?」 社長もからかうのが面白くなっているらしく、顔が緩んでいる。 『いや、三人。なんで狭い俺の部屋でやんのってくらいに使われ放題だけど……頼むから俺のいない間に、日本で変な噂流さないでくれよ。俺は弁明出来ないんだから』 「ハハハ。やっぱりな。おまえのことだから、どうせ女っ気ないんだと思ってた」 『ふーん……そういうおまえも、ちょっとビビったんだろ』 今度は諸星さんが、社長をからかっているらしい。 私はその様子から、二人がどんなに長い付き合いなのか、窺い知れる気がした。 「なに言ってんだ。でも夜中なのに女性の声がするって、俊二が慌てた様子で言うからさ」 『なんでだよ。でも、なんだっけな……ああ、何かトラブルでもあったのかって聞かれたから、大したことじゃないって言った程度だったと思うけど。もう寝てるし』 「なんだ。つまらん」 『ったく、馬鹿なこと言ってんなよ。そんなことより電話したのはさ、この間もらったCFオファーのことなんだけど』 「ったく、おまえは仕事のことでしか電話してこないな」 『当たり前だろ。なんでおまえに私用で電話かけんだよ。気持ち悪い』 「ひどい言われようだな……まあいいや、それで?」 それから社長は受話器を取って、しばらく仕事の話を続けていた。 「鷹緒さん、やっぱり誤解でしたか?」 しばらくして、電話を終えた社長に、俊二さんが尋ねた。 「うん。他にも泊まり込んでるらしい。相変わらずの仕事人間だよ、あいつは……」 「やっぱりそうか……すみません、変な噂流すところでした」 「社内だけなら大丈夫だよ。それより仕事、終わりそう?」 「はい、先は見えましたから」 「じゃあ終わるまで頑張ろう。万里ちゃんも無理はしないでね。俊二の仕事なんだから」 突然言われて驚きながらも、私は社長の優しい言葉に微笑む。 「大丈夫です。私からやらせて欲しいと願い出たので、最後まで頑張ります」 「うん。じゃあよろしく」 社長はそう言うと、社長室へと戻っていった。
それからしばらくして、私は仕事を終えた。 俊二さんのチェックも通り、ほっと胸を撫で下ろす。 「万里ちゃん、よかったらもう少し残っててよ。手伝ってもらったし、今日は僕がおごるから」 「いえ、仕事ですから。そんなのいいんです」 「まあまあ、嫌じゃなかったらだけど、たまには飲もうよ。あんまり一緒に飲んだことないからさ。牧ちゃんとかも誘うし。ね?」 「じゃああの……お願いします」 「よかった。じゃあ、もう少し待ってて」 温かい言葉を掛けてもらい、私は出来る雑用をこなしながら、俊二さんを待った。
それから少しして、仕事の終えた俊二さんと牧さんの三人で、近くの居酒屋へと向かっていった。 「乾杯。ああ、もうこんな時間。俊二君のせいよね、遅くなったのは」 憎まれ口を叩きながらも、明るく笑うのは牧さんである。 「ごめんって。鷹緒さんじゃないんだから、あれだけの量をちゃちゃっとなんて出来ないもん」 困ったように、俊二さんが言う。 そんな二人を見て、私は思い切って口を開いた。 「あの。前から気になってたんですけど、お二人って恋人同士なんですか?」 私からの直球の質問に、俊二さんと牧さんは顔を見合わせ笑った。 「もう、万里ちゃんには敵わないなあ。いつから気付いてたの?」 そう言ったのは、牧さんだ。 やっぱりそうだったのかと思って、これで一つ疑問がなくなりすっきりする。 「ちょっと前からです。お二人、一緒に帰ることも多いですし」 「すごいね。これ気付いたの、鷹緒さんだけなんだよ。あの人も洞察力すごいから……でも内緒だよ。みんなにからかわれるの目に見えてるからね。まあ僕らも、人の恋バナには首突っ込むタイプだけど」 今度は俊二さんが苦笑して言った。 私は頷く。諸星さんと一緒ということが、なぜか嬉しかった。 「わかりました、黙ってます。でも諸星さんってすごい人なんですね。私、顔も作品も全然知らないけど、その名前を聞かなかった日ってあんまりないと思うんです。今だって、こんなに……おかげで知らない人なのに、結構知ってる気がします」 「まあね。やっぱりみんな、鷹緒さんにいろいろ頼ってたんだなあって思う。だからたくさん名前が出てくるのよね。事実、私もまだ、鷹緒さんがいた頃は……なんて言っちゃってるもん。もう二年も経つのにね」 「二年もですか」 牧さんは、少し遠い目をして頷く。 「そう。二年契約なのに、もう少し延長になりそうみたい。帰国は先が見えないから、みんなも寂しがってるのよ」 「へえ。売れっ子なんですね」 「そうね。それは日本にいた時からだけど」 「でも私、諸星さんのことを知らないからかもしれませんけど、社長もすごい人だと思うんですよ。みなさん、いない人のことばかり噂してますけど、社長はすごいです」 酒が入ったこともあるけれど、社長ファンとして熱弁する私に、俊二さんと牧さんは顔を見合せて笑う。 「わかってるよ、社長がすごいってことは。でも、どうしても鷹緒さんのほうが話題の人になっちゃうんだよね。僕の師匠でもあるし」 「それに社長がすごいのはみんな知ってるけど、いちいちすごいなんて言ってたら仕事にならないでしょ? うちの社長は言われなくてもやり手よ。厳しいけど優しいし、うちの会社が働きやすいのは、ムードメーカーの社長のおかげだもん」 俊二さんと牧さんが交互に言う。私もそれに賛同し、その夜は会社の話で盛り上がった。
それからまた半年が過ぎようとする頃、世間はすっかり冬になっており、もうじき訪れる春の気配さえ感じさせないほど寒い日が続いている。 私はもうすぐ入社から一年を迎え、だいぶ仕事にも慣れてきた。 「おはよう、万里ちゃん。今日も寒いね」 出社するなり声をかけたのは、変わらず明るい笑顔を向けてくれる、先輩の牧さんである。 同時の出勤となったようで、牧さんは今から会社のドアを開けるところのようだ。 「おはようございます。寒いですね。もう春だっていうのに」 「本当ね。さあ開いた。早速で悪いけど、窓開けお願い」 「わかりました」 朝の日課は、すべての窓を開けることから始まる。特に帰りはブラインドも閉め切ったままなので、日差しすら入っていない。それが終われば、社員全員で掃除から始まる。 すべての窓を開けて、私は社長室のドアに手を掛けた。 ガラス張りの社長室は、内側のブラインドさえ開ければ社内から丸見えということで、閉鎖的な空間ではないのだが、社長室ということで入る時はいつも緊張する。 誰もいないはずの社長室を開けた途端、私はいつもと違う雰囲気に驚いた。 入ってすぐのところに、応接用のソファがある。そこに一人の男性が寝そべり、寝息を立てている。社長の広樹さんではなく、面識はない。よく見るとかなりのハンサムで、無防備な顔を晒していた。 「キャ……キャー! 牧さん!」 私は思わずそう叫んで後ずさりをし、慌てて社長室から出て行った。 「ど、どうしたの?」 遠くから、バケツを持った牧さんが顔を覗かせる。 「牧さん! 社長室にイケメンが!」 「はあ?」 「し、知らない人が寝てるんです!」 切羽詰まった私とともに、牧さんも逃げ腰のまま社長室を覗く。 だが次の瞬間、牧さんの顔が変わった。 「……よお、牧」 私の声に起きたその人物は、眠そうに起き上がり、苦笑してそう言った。 「え、あ……た、鷹緒さん?!」 牧さんの言葉に、私はその人を見つめる。この人が諸星鷹緒……噂以上の格好良さだった。
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