ひなまつり翌日の朝。鷹緒が出勤すると、すかさず理恵が駆け寄り、誰もいない喫煙室へと鷹緒を連れていった。その顔は真剣だが、舐めるように鷹緒の服装を見つめる。 「なんだよ?」 「おはよう……昨日と同じ服装ってことは、大丈夫そう?」 理恵の言葉に、鷹緒は苦笑した。 昨日、鷹緒と理恵が一緒にいるところを沙織に見られ、怒らせてしまったことで気にしていた理恵だが、鷹緒が昨日と同じ服装ということに、無事に和解出来たと悟る。事実、鷹緒は昨日、沙織の部屋に泊まってそのままここに来ていた。 「女って翌日の服装で悟んのか。こえーな」 そう言いながら、鷹緒は喫煙室ということを幸いに、煙草に火を点ける。 「で、どうなの? 私からもちゃんと言おうか?」 「大丈夫だから気にすんなよ……って、最大の原因はおまえなんだからな? ちょっとは自重しろよ」 「あ、すぐ人のせいにする。鷹緒が私に優しくするからでしょ」 「ああ、もうおまえが目の前でコケたって、手なんか差し伸べねえよ。ったく、元はと言えば、おまえが俺に無防備すぎるからだろ」 「なによそれ。それはしょうがないでしょ。同じ職場なのにギクシャクするの嫌だから、こっちだって気を使ってそういう態度してんのに……」 「あーあ……もう結婚してたこと、全部みんなにぶちまけちゃおうかな……」 溜息を漏らしながらそう呟いた鷹緒に、理恵は目を丸くする。 「もしかして……相当追い込まれてる?」 結婚前から離婚後にかけて、一度だって言わなかった台詞に、理恵も苦笑した。 「いや、それは冗談だけど……おまえは過去も全部清算してなかったことに出来てるかもしれないけど……俺はそんなの無理だし」 「そんなこと、私だって無理だけど……」 急にしんみりした空気に、鷹緒は早々に煙草の火を消して灰皿に落とした。 「おまえさ……本当にあいつとうまくやってんの?」 「え?」 「あいつが帰ってきて結構経つじゃん。帰って早々に同棲するって聞いてたのに、まだそんな雰囲気もないみたいだし……俺、アメリカに二年半もいたんだぞ? それなのに進展してないってなんだよ」 珍しく一歩踏み込んだ質問に、理恵は口をつぐむ。 「進展してないわけじゃないわ。その間にも、いろいろあったのよ……」 「わかるよ。恵美もいるんだし、一人じゃ決められないことも。でも今の恵美の悩みは、おまえが豪と家族ぐるみの付き合いしてないからじゃねえの? いつまでも恋人気分だけでいられねえだろ」 「うるっさいなー。鷹緒に関係ないでしょ」 「そう言うんなら、フラフラ見えるようなことすんなよ」 「してないもん。鷹緒は私が身を固めれば、沙織ちゃんに余計な不安抱かせないからいいとか思って言ってるだけでしょ」 「それだけで言ってるわけねえだろ」 喫煙室に二人の声が響く。出勤時間のため、エレベーターホールから会社へ向かう社員の姿が見えて、二人は溜息をついた。声までは聞こえないだろうが、喫煙室に二人きりという珍しい組み合わせを見れば、事情を知らない社員たちには不思議に映ることだろう。 大きく息を吐いて、鷹緒は口を開いた。 「まあとにかく……これからはおまえと二人きりにならないようにするよ。豪だって良く思わないだろうし」 「……そうね。じゃあこれ、私からお詫び」 理恵は一枚のメモを鷹緒に差し出した。そこにはレストランと思しき店の名前と連絡先が書かれている。 「なにこれ?」 「昨日の撮影の報酬は、フランス料理フルコースでしょ? 沙織ちゃんと一緒に行ってきなさいよ。鷹緒が休みだっていう日に一応予約しておいたけど、駄目ならいつでも日程調整するから」 そう言われて、鷹緒はメモを差し返した。 「いいよ」 「でも私もお詫びしたいし、昨日の撮影のお礼だって……」 「だからってまたおまえの名前出したら、あいつだって嫌だろう。俺は俺で連れて行くから、その店は豪とでも行けよ」 「鷹緒……」 「じゃあまあ、そういうことで……今回のことは気にすんな。おまえが出てくると、またややこしくなる」 鷹緒はそのまま喫煙室を出ていった。 残された理恵は、鷹緒の心が完全に別に向いたことが、少し寂しくも微笑ましくも思えて、苦笑した。
「おはようございます、鷹緒さん」 出勤した鷹緒に、俊二が言う。俊二は鷹緒の隣の席で、パソコンに向かって写真の修正をかけているようだ。 「おはよう……」 「だいぶお疲れのようですね?」 「ああ。いろんな意味で、プライベートが充実しすぎて」 「ハハハハ。ノロケですか?」 「それだけならいいんだけどな」 そう言いながら、鷹緒も目の前のパソコンを見つめる。撮影もあれば、デスクワークもある。今日は撮影がないので一日オフィスにいることになりそうだ。
しかし午後になる頃には、鷹緒は自分が抱えるすべての業務をこなしていた。 「ヒロー。なんか仕事ない?」 社長室に顔を出した鷹緒に、広樹は目を丸くする。 「なに。まさかおまえ、暇なの?」 「なんだよ、その顔。なけりゃ牧とかに聞いてみるけど」 広樹の態度に口を曲げて、鷹緒はそう言った。 「仕事ならあるけどさ……珍しいな」 「月末に詰めてたおかげ」 「じゃあ、通った企画書まとめてスケジュール組んでくれよ。担当人事はこれ」 「了解。じゃあ喫煙室で仕事するわ」 ノートパソコンを持って、鷹緒は喫煙室へと向かっていく。企画部もモデル部もほとんどが出払っており、受付の牧が広樹と同じように目を丸くした。 「鷹緒さん、もしかして暇なんですか?」 「ヒロと同じ反応すんなよ……外の仕事失ったら、俺はここではやっていけねえな……」 同じような態度にうんざりして、鷹緒は喫煙室へと入っていく。パソコン仕事はここでやることが多いが、昼間の喫煙室は時間によっては別階にある別会社の人間も来るため、あまり自由はきかない。 「あれ、諸星さん。昼間にいるなんて珍しいですね」 別会社の顔見知りの言葉にも、鷹緒は苦笑した。 「まったく、みんなにそう言われるんですが、そうですかね?」 「そうですよ。しかし相変わらず、一服中もお仕事ですか」 「まあこればっかりは、吸わない人間以上に働かないと、後ろ指刺されますからね」 「あはは。それは痛いなあ。それを言われちゃ、こっちも早く戻らないと」 「気にしないでください。俺は単なる病気なんで」 そのまま仕事を続ける鷹緒は、入れ代わり立ち代わる喫煙者と会話をしつつ、やがて一人きりになってふと外を見た。外はすでに薄暗くなっており、いつの間に仕事に没頭していたのだと、ラストスパートでその手のスピードを早める。 しばらくして鷹緒は携帯電話を見つめると、沙織にメールを打った。いつも連絡は自分からばかりだと、以前に沙織が拗ねていたのを思い出し、早めに送ろうと思ったのだ。
沙織はちょうど撮影の休憩中で、携帯電話を開いた瞬間だった。 “おつかれさま。今日は定時で帰れそうだけど、そっちは何時頃終わりそう? 終わったら連絡ください” 相変わらず用件だけのメールだが、沙織は嬉しそうに笑う。 夕方、撮影を終えた沙織は、鷹緒に電話をかけた。 『はい』 「鷹緒さん? 沙織ですけど……今、大丈夫?」 『ああ、そっち終わった?』 「うん。今、駅に向かって歩いてる最中……あっ……」 その時、沙織は横断歩道を渡り切ったところで、思いがけない段差に転んでしまった。 『どうした?』 「いったーい……ああ!」 電話そっちのけで、沙織は一人恥ずかしさに身を起こす。転んだ拍子にミュールのヒールが取れてしまい、不恰好な姿を晒してしまっている。 『沙織。大丈夫か?』 「大丈夫じゃない……転んじゃった……」 恥ずかしさに顔を赤らめ、沙織は俯いて歩道の脇に立ち止まった。 『どうした? 怪我したのか?』 鷹緒は状況を把握しようと尋ねながら、パソコンの電源を切り、すぐに会社を出る準備を始める。 「ちょっと血が出てるけど大丈夫……でも、ヒール取れちゃって恥ずかしいよ……」 大した怪我ではないようだと少し安堵し、鷹緒は軽く息を吐く。 『恥ずかしさはともかく、大丈夫なんだな?』 「大丈夫だけど、どっかで靴買わないと歩けないや……」 『わかった。今どこ?』 「事務所から遠いよ?」 『車で迎えに行くから、なんとか歩いてどっか入って待ってろ』 頼もしい鷹緒の一言に、沙織は泣きそうになるのを堪えて頷いた。 「うん……」
それから数十分後。とある駅前公園のベンチで、沙織は鷹緒を待っていた。 「遅いな……」 とはいえ会社からでは車でもすぐに来られる距離ではない。どこかの店に入ろうとも思ったのだが、ミュールの片方が完全に壊れてしまい、撮影の疲れもあって、もう歩ける状態ではなかった。 「ずっといるの見てたけど、待ち合わせ?」 その時、沙織に声を掛ける二人組の男がやってきて、沙織は帽子を目深に被って身を縮めた。 「……はい」 「めっちゃ可愛いじゃん。なんで隠すのさ」 「あの……もう少しで来るので……」 そう言う沙織の目に、鷹緒が映る。 「遅くなってごめん」 鷹緒の言葉に、男たちは去っていった。鷹緒は沙織の顔を覗き込み、その頭を撫でる。 「ベタに絡まれてたな。大丈夫か?」 「遅いよ……」 「ごめん。これでも急いで来たんだけど……とりあえず、これ履いて」 鷹緒が差し出したのは、女性物のサンダルである。屋内履きのようで、あまり外では見かけないデザインだ。 「どうしたの? これ」 「ああ……牧のオフィス用サンダル借りてきた。恥ずかしいだろうけど、車すぐそこだから我慢しろよ」 「うん……」 やっと鷹緒に会えた安堵で、沙織は微笑んだ。鷹緒は壊れたミュールを持って、逆の手で沙織の手を取る。 「ああもう、こんな冷えちゃって……」 少し苛立つようにしながら、鷹緒は冷えた沙織の手を自分のコートのポケットに入れた。それがなんとも嬉しくて、沙織は鷹緒にくっついて歩き始める。 鷹緒は大通りに停車した車の助手席のドアを、沙織のために開けた。初めてといっていいくらい紳士的な行為を受け、沙織は照れながら車に乗り込む。当の鷹緒は特に気に留めた様子もなく、そのまましゃがみ込んだ。 「まったく。俺は今年、女物の靴に祟られてんのかな……」 ぶつぶつと呟きながら、鷹緒は沙織の足に触れる。昨日も同じようなことを理恵にしたと思うと、よくあることではない出来事に、そう思わずにはいられなかった。 「やだ、恥ずかしいよ……」 「じゃあ自分で貼る?」 事務所から箱ごと持ってきたと思われる絆創膏を見せて、鷹緒が言う。理恵は貼ってもらったことを思い出し、沙織は意地を張るのはやめようと思い直して首を振った。 「お願いします……」 「ハハ。足って貼りづらいよな」 靴擦れはしてなかったものの、転んだ拍子に擦りむいた膝や足の指に触れて、鷹緒は絆創膏を貼ってやる。 「痛い?」 「うん……」 「帰ってちゃんと手当しよう」 そう言うと、鷹緒は運転席へと乗り込み、沙織を連れて自分のマンションへと帰っていった。
鷹緒のマンションで、沙織は何もするなという感じで過保護なまでにソファに座らされると、救急箱を持ってきた鷹緒に足を触られる。二人きりでも恥ずかしかった。 「ふ、太いから、あんまりさわらないで」 そう言った沙織に、鷹緒は苦笑する。 「気にするほどのもんじゃねえだろ……やっぱ挫いてるな。ここ腫れてる」 足首に湿布を貼り、擦り傷に新たな絆創膏で処置をしてやると、鷹緒は沙織に微笑んだ。 「とりあえずこれで大丈夫?」 いつになく優しく見える鷹緒を見て、沙織は顔を赤らめる。 「なんか鷹緒さん……手慣れてる感じ」 「はあ?」 「そりゃあそうだよね。モテる上に結婚までしてたんだし、女性の扱いには慣れてるよね」 悪気もなくしみじみと言った沙織の頭を、鷹緒は軽くチョップした。 「あのなあ。それはおまえの誤解。こっちだって必死なんだよ。血まで流してんだから心配するだろ、そりゃあ」 「でも、理恵さんにだって同じことしたじゃない」 「それはあいつが……はあ、もういいや」 突然怒った様子の鷹緒に怯え、沙織は俯く。 「ごめんなさい。手当てしてくれてありがとう……」 「この……」 鷹緒は軽いヘッドロックの形で沙織の首に手を絡めると、そのまま沙織を後ろから抱きしめた。 「超心配したんだからな。おまえに何かあったんだと思って……ナンパまでされてるし、危なっかしくてしょうがない」 後ろから抱きしめられながら、沙織は横目で鷹緒の顔を見上げる。 「心配かけてごめんね」 「無事だったからいいよ」 鷹緒の自然な言葉も、沙織にとっては甘く囁かれているように聞こえて、沙織は嬉しそうに顔を綻ばせた。 「おまえ、明日は休みだったよな? 予定は?」 「うん。特にないけど、部屋の片付けでもしようかと思ってる」 「俺、明日休み取れたんだけど……」 「嘘!」 思いがけない鷹緒の言葉に、沙織は思わず鷹緒から離れて振り向いた。 「本当。とりあえず急ぎの仕事はやっておいたし、今日は別の仕事までやって点数稼いでおいたし、駄目元で言ってみたら通った」 「嬉しい! じゃあ、一日一緒にいられるね?」 「うん。明日はおまえだけの日な?」 「最高の仲直りのプレゼントだよ」 思わずそう言った沙織に、鷹緒も顔を綻ばせる。簡単なことで沙織の笑顔を取り戻せるということに気付きもし、そんな純粋な沙織を改めて愛しいとも思った。 今度は正面から沙織を抱きしめて、鷹緒はその顔を見つめる。 「ックシュン!」 すると突然、沙織が俯いてクシャミをした。鷹緒はすかさず沙織の額に触れる。そこは微妙に熱っぽい。 「……風邪だな」 「違うよ!」 「長いこと外で待ってるからだよ。もう寝ろ。なんか食い物買ってくるから」 「そんな……せっかく一緒にいられると思ったのに……」 残念そうに俯く沙織の頭を、鷹緒は優しく撫でた。 「風邪でも一緒にいられるし、治るならどっか出掛ければいいだろ」 「でも……鷹緒さんに風邪移すのやだ」 「大丈夫だよ」 優しい鷹緒が心地よくて、沙織はその胸に身体を預けていた。
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