三月初め――。社内奥にあるカウンターテーブル前で、出勤したての鷹緒は立ってコーヒーを飲みながら雑誌を眺めていた。今日は少しばかり時間に余裕がある。 「鷹緒サン。ちょっとお話が……」 改まってそう言ったのは、副社長の理恵である。長身の上に今日はハイヒールまで履いており、その目線はすでに鷹緒と同じくらいだ。 同目線の理恵に、鷹緒は理恵の足元を見てから、その顔を見つめた。 「今日はいやにデカいな」 「可愛いハイヒールでしょ。思わず買っちゃった」 「そういうのはよくわからん」 「相変わらずねえ」 自慢げに靴を見せる理恵に眉を顰めると、鷹緒はカウンターテーブルに背を向けるように片肘をつく。 「で、なに? 改まって」 続けて言った鷹緒に、理恵は手を合わせた。 「お願いがあるんだけど……」 「だからなんだよ?」 「恵美の写真、撮ってくれない?」 予想外の言葉に、鷹緒は首を傾げる。 「いいけど……どういうこと?」 「正月に、久しぶりに実家に帰ったって言ったでしょう? それを機に、恵美はお父さんと電話で話すようになったんだけど、昨日お父さんから急に着物が送られてきて……」 「へえ?」 「正月に姪っ子たちが着物着てて、恵美が欲しがったのよ。で、もうすぐひなまつりだからって送ってきたの。それで恵美が着物着てる写真撮ってお父さんにあげたいんだけど……だったら絶対、鷹緒に撮ってもらわなきゃ嫌だって、恵美が……」 それを聞いて、鷹緒は軽く顔を掻いた。 「そんなことかよ。べつに改まって言うことじゃなくない?」 「それが……お父さんと一緒に撮ってほしいんだけど……」 そういうことかと、鷹緒は溜息をつく。 「はあ……なるほどね」 面倒事を頼まれたと思い、理恵に背を向けて、鷹緒はカウンターテーブルに頬杖をつきながら考える。 最初に理恵の父親と会ったのは遥か昔の十代のことであり、すでに理恵自身が勘当同然に扱われていたため、結婚の許しを得に出向いた時も、ほとんど門前払いだったという苦い記憶しかない。その後も表立っての交流はないが、縺れた夫婦の立場上気が乗らないのは確かである。 「やっぱり……気が乗らないよね? 大丈夫。恵美をもう一回説得してみる」 鷹緒は深く溜息をつくと、振り向いて理恵を見た。 「いいよ」 「え、本当に?」 「だいたい、そんな何度も会ったわけじゃなし、俺の顔なんて覚えてないんじゃねえの?」 「あ……それはないわ。去年、鷹緒が出たテレビもたまたま見てたみたいで、この間帰った時もその話が出たくらいだし……」 それを聞いて苦笑しながら、鷹緒は何度も頷いた。 「わかったわかった。どっちでもいいよ。仕事として考えればどうってことない」 「今度、美味しい店で何でも奢るわ」 「じゃあフルコースな」 「わかった……貯金しておく」 鷹緒は吹き出すように笑って、自分のスケジュール表を開く。 「で、いつだよ?」 「それが明日とかどうかな?」 「明日? 急だな」 「ちょうどひなまつりだし、日曜だし。着物を着る機会なんて今しかないとか言っちゃって……ただ孫に会いたいだけだと思うけど」 「よかったじゃん。少しはわだかまり取れたなら」 理恵は静かに笑って頷く。いろいろと考える部分はあるが、自分と境遇が似ているような鷹緒よりは、実の親と和解しているのは事実だと思った。 「うん……」 「夕方以降なら空いてるから、いつでもいいよ」 「じゃあ、地下スタジオも空く六時頃に……ちゃちゃっと撮ってくれればいいから」 「簡単に言うな、オイ……」 「ごめんね。じゃあ、お願いね」 去っていく理恵を尻目に、鷹緒は苦笑してコーヒーに口をつける。 理恵が自分に謝ることや願い事をするなど珍しいと思うと、鷹緒には少し嬉しい気持ちもあった。また理恵の父親に会わねばならないというのは少し気が重くも感じたが、それほど近しい間柄でもなかったため、あまり気にしていない自分もいる。
その夜。行きつけのイタリアンレストランで、鷹緒と沙織は食事をしていた。 「明日は仕事入ったから、会えないかも」 鷹緒の言葉に、沙織はそっと頷く。 「そう……遅くなるの?」 「どうかな……夕方ちょっと撮影入っただけだけど、早く終わるならやっておきたい仕事もあるし、どうなるかわからないから」 「そっか。じゃあ遅くなりそうなら、差し入れしに行ってもいい?」 「ああ。たぶん明日は一日、地下スタにいるんじゃないかな……とにかく空いたら連絡するよ」 二人はそんな会話をしながら、食事を楽しんでいた。
次の日の夕方。地下スタジオで撮影のためのセッティングしている鷹緒のもとに、理恵が恵美と父親を連れてやってきた。 「こんばんは。よろしくお願いします」 理恵の言葉に振り向いて、鷹緒はその父親にお辞儀をする。 「こんばんは。お久しぶりです」 営業スマイルでそう言った鷹緒に、理恵の父親も軽く微笑む。 「久しぶりです……今日はよろしく」 「こちらこそ」 「パパ」 すると、恵美が鷹緒に駆け寄った。家族だけという中で、恵美も気持ちが和らいでいる様子だ。 「おつかれ。バレンタインはチョコありがとう。初めて作ったんだって?」 「うん、頑張ったよ。美味しかった?」 「ああ、美味しかった。上手に出来たな」 「よかった。ホワイトデーには、パパが何か作ってね」 「手作りで?」 「うん!」 そう言われて、鷹緒は苦い顔をする。 「……じゃあ一緒に作ろうよ」 「ええー?」 「俺一人じゃ無理」 「じゃあママと三人で作る?」 「それはそれで問題だな……やっぱり手作りは諦めて、食事にしない?」 「駄目ー」 妥協しない恵美にがっくりと肩を落としながらも、鷹緒は頷いた。 「……わかった。じゃあ考えておく」 「絶対だよ。あと、沙織ちゃんが作っても駄目だからね」 「う……はい、わかりました」 恵美に無茶な約束をさせられつつ、鷹緒は理恵に振り向く。 「奥の部屋暖めておいたから、着替えるならそっちでどうぞ」 その言葉に頷き、理恵は恵美と父親を連れて、奥にある楽屋へと向かっていった。 一人になった鷹緒は、機材の準備を続ける。しばらくすると、理恵の父親だけが出てきたので、鷹緒は会釈した。 「何年ぶりかな……」 会話の糸口を探すように、理恵の父親がそう切り出す。鷹緒にとっては別れた妻の父親だが、面識はほとんどない。 「十年とは言いませんけど……七、八年ぶりくらいですかね。別れた直後でしたよね?」 「もうそんなに経つかね」 「ええ……でも、彼女は結婚の挨拶をしに行った一度きりだと思ってますから、そのままにしておいてください」 苦笑する鷹緒に、理恵の父親も苦笑する。 「同じ職場なんだって? やりにくいだろう」 「ええ、とても。でもまあ……もう慣れましたよ」 そう言いながら、鷹緒はお茶を入れて理恵の父親に差し出した。 どこか打ち解けている様子の二人は、理恵が実家を出て以降では、理恵よりも会っているからである。それは勘当したといっても理恵が心配だった父親が、鷹緒を通して何度か様子をうかがいに来たことにあった。しかしそれを理恵は知らない。 「そうかい。まあ、うまくやってるならいいんだが」 「仕事の面では心配いりませんよ。担ぎ上げられた副社長でもないんです。実力がないなら、それこそ同じ職場になんていられませんよ」 「ははは。それを聞いて安心したよ」 「でも、よかったですね。和解出来たようで……お義母さんのことは心配ですけど、いいきっかけになったようで」 「そうだね……でも家内のことは心配いらないよ。恥ずかしいから君には言わないでと言われたんだが、腰が悪いだけなんでね……今日も動けないというから、一人で出てきてしまったんだ」 「そうなんですか。大事でないならよかったです」 久しぶりのことで緊張しつつも、会話は続いた。鷹緒もお茶を飲みながら、かつての義父に耳を傾ける。 「君は家内とも、よく会ってたんだろう?」 「言うほどではないですけど……こちらに出て来られた時はご連絡頂いたんで、何度かお茶を飲んだりはしてましたよ」 同じような理由で理恵の母親とも会っていた鷹緒は、似た者夫婦の行動に微笑んだ。 その時、奥の扉が開いたので、鷹緒は気付いて顔を上げる。すると理恵と恵美が立っているが、恵美は着物を羽織ったまま、帯さえ締めていない。 「ごめん、鷹緒……着物の着せ方が微妙なんだけど……」 「しょうがねえな……」 理恵の言葉に立ち上がり、鷹緒は恵美の着物を直してやる。 「知ってる? モテる男は、女の子に着物着せられるんだって」 からかう理恵に、鷹緒は苦笑した。 「ハイハイ、どうせ俺はモテますよ……ったく、馬鹿言ってんな。恵美、苦しくない?」 「大丈夫。帯、リボンにしてね」 「OK」 嬉しそうな恵美に、鷹緒も自然と笑みが零れる。 やがて恵美に着物を着せ終わると、鷹緒はカメラのファインダーを覗いた。 「じゃあ、まずは恵美だけ撮るよ。真ん中に立って」 「はーい」 撮影慣れしている恵美は、ファッション雑誌の撮影の如くポーズを撮り始める。 「おお、すげえ。このまま表紙飾れるよ」 お世辞でなく本音でそう言いながら、鷹緒も嬉しそうにシャッターを切った。血が繋がらないとはいえ、自分の中で恵美はいつまでも本当の娘のような気がしている。 やがて理恵の父親も交えての二人の撮影が始まった。照れながらも孫と一緒で嬉しそうな父親に、理恵は不思議な気持ちで微笑む。十代の頃に家を飛び出して以来、ほとんど会わない父親だが、改めて会えば自然に接せられる自分にも、こうして孫に笑みを零すような前より柔らかくなった父親にも驚きを隠せない。 「理恵。おまえも入れよ」 思い出に浸っていた理恵は、鷹緒の言葉にはっとした。 「え?」 「せっかくだろ」 「うん、ママも入って」 恵美にもそう呼ばれ、理恵もカメラの前に立つ。 それを見て、何の気なしに撮影していた鷹緒は一瞬、胸のざわつきを感じた。理恵を写真に撮ることなど、もうないと思っていたからである。鷹緒はそっと微笑んで、ファインダーを覗いた。 「理恵。もうちょっとお父さんに寄って。恵美はもう半歩前」 鷹緒の指示で、親子三代の三角形が出来る。それはどこから見ても、微笑ましい家族写真に違いない。 やがて撮影を終え、着替えるために奥の部屋へ消えた理恵と恵美に、先程のように鷹緒と理恵の父親だけがスタジオに残った。 「お疲れ様です」 鷹緒はそう言って、かつての義父にコーヒーを差し出すと、機材を片付け始める。 「ありがとう。楽しかったよ」 義父の言葉に、鷹緒は微笑んだ。 「それはよかったです。またいつでも撮りますので、今度はお義母さんもご一緒に」 「ありがとう……今更だけど、初対面の時は悪かったね。まったく話を聞こうともしないで」 「いつの話ですか。それに俺も一応、人の親なので、お義父さんの気持ちがわかるんで……」 「……もうあいつと、よりを戻す気はないのかい?」 それを聞いて、鷹緒は苦笑する。 「ハハ……残念ながら、俺はもうすでにフラれてるんで」 「……聞いたよ。恵美の父親が帰って来たって……僕はどうせなら、君のほうがよかったな」 「きっと俺らがまだうまくいってたら、お義父さんはそんなこと言ってないと思いますよ。父親っていうのはそんなもんだと思ってます。俺、恵美が誰を連れてきても文句言いそうです」 「そうか。そうかもしれないね……」 「でもあいつ……恵美の父親もいいやつなんで、大丈夫ですよ。俺よりうまくいくと思います」 義父を安心させるつもりもあったが、そうあって欲しいという願いも込めて鷹緒が言った。そんな気持ちを悟って、理恵の父親も微笑みながら頷いた。
一方、沙織は自分の仕事を終えて、駅前の喫茶店に入った。仕事終わりのメールはしてみたが、鷹緒からの返事はまだなく、今日は会えないかと思う。それでももう少しもう少しと思ってしまい、連絡が来るまで待っていたかった。 「選択肢、その一……電話してみる。その二、事務所で待ってみる。その三、スタジオに押しかけてみる。その四、鷹緒さんちに勝手に上がって待つ。その五、今日は会えないと踏んで自分の家に帰る……」 携帯電話をいじりながら、沙織は小声でそう呟いた。選択肢はたくさんあるが、どれも沙織にとって勇気のいることばかり。連絡がないのはまだ仕事中だということがわかっているため、迂闊に動けない自分がいる。 「そうだ。ちょっとスタジオ覗いてみようかな……誰か居そうなら戻ればいいんだもんね」 そう決めて、沙織は喫茶店を出ていった。しかし突然行って人に会っては鷹緒の立場がないため、出来るだけ時間を潰してみようと、コンビニに入って差し入れを買ったりもする。しかしその間にも、鷹緒からの連絡はない。 「もう。本当に行っちゃうよ……?」 携帯電話をしまって、沙織は待ちきれない思いで地下スタジオへと向かっていった。
「ここへ来る時、気になる店があったんで行ってみたいんだ」 スタジオを出た一同に、理恵の父親が言った。家は都下で割と近いのだが、ここまで出てくることはあまりないので、まだ居たいようである。 鷹緒は夕飯の誘いを断ったものの、義父に断りきれずにご馳走になることにしていた。 「角の店ですよね? すぐ行きますんで、恵美と先に行ってください」 そう言った鷹緒に深くは聞かず、理恵の父親は恵美と先に歩き出す。そんな横で、理恵は鷹緒に首を傾げた。 「何か私に話があるの? あ、嫌なら帰っちゃっていいよ?」 「そうじゃなくて……」 すると突然、鷹緒は理恵の横にしゃがみ込んだ。 「肩つかまって。片足上げろよ」 「あ……バレちゃってた?」 「ったく、こんな高いヒール履くからそうなるんだよ」 「ごめん……おかしいなあ。昨日今日で履き慣れるはずだったんだけど……」 苦笑する理恵は、言われるままにしゃがみ込んだ鷹緒の肩に手を置き、片足を軽く上げる。鷹緒は理恵のハイヒールを脱がせると、理恵の足からは靴擦れで血が出ており、ストッキングに滲んでいるのがわかる。 「痛そ……」 顔を顰めながら、鷹緒は地下スタジオから持ってきた絆創膏を貼ってやった。 「ストッキングの上からで大丈夫か?」 「うん、ありがとう。さすがに痛くなってきてたんだ」 「靴貸そうか? サンダルとか地下スタにあるよ。階段でも派手に挫いてただろ」 「ごはん食べて家に帰るくらい大丈夫よ。タクシー使うし」 「ったく……そんなひょこひょこ歩かれたんじゃ、危なっかしくて見てられないっつの」 鷹緒は応急処置を終えて立ち上がると、まるで介護するように理恵の腕を掴む。 「恥ずかしいからやめてよ」 「じゃあおまえがつかまれよ」 言われるままに理恵は鷹緒と腕を組むが、口を曲げた。 「私が悪いんだしありがたいんだけど、こんなところ誰かに見られたら……」 「あ、そうだ。沙織に電話しなきゃ……」 そう呟いた瞬間、二人は同時に固まった。同じ歩道で、沙織が対面する形で立っていたのである。その表情は固く険しく、明らかに怒っている。 「ヤバイ……」 「ヤバイかもしれないけど、浮気してるわけじゃないんだから……ね」 鷹緒と理恵は妙に気が合うようにそう呟きながら、沙織を見つめた。 後ろは赤信号で戻れず、逃げ場を失った沙織は、意を決して二人がいる方向に歩き出した。 「お疲れ様です……」 何も言わずに通り過ぎるのは気が引けて、強張った表情のままそう言うと、沙織はそのまま二人の横をそのまま通り過ぎようとする。 そんな沙織の手を、すれ違いざまに鷹緒が掴んだ。 「沙織」 「誤解よ、沙織ちゃん。ほら見て。私、靴擦れしちゃって、それで鷹緒さんが……」 そう声を掛ける鷹緒と理恵に、沙織は顔を顰めて振り向いた。 「いい加減にしてください! わかってます。お二人が何もないこと……」 言いながら涙を溜める沙織を見て、鷹緒は沙織の肩を抱こうとする。だが、沙織はそれを頑なに拒んだ。 「沙織。話聞いて」 「もうやだ……」 沙織の口から小声でそんな言葉が漏れ、涙が溢れ出した。その間にも、鷹緒は指で沙織の涙を拭う。 「沙織?」 「もういいよ……」 力なくそう言って、沙織は歩き出す。そんな沙織に、鷹緒は理恵を放ってついていった。 「いいってなんだよ。話聞け」 「だから、もういいってば。放っといて!」 沙織はそう言い放つと、赤信号に変わりかけた信号を走って渡っていった。 もう追いつけずに、鷹緒は顔を顰めて理恵の元へと戻っていく。 「何してんのよ。追いかけなさいよ」 「いや……今、何言っても無駄」 「たとえそうでも追いかけなきゃ駄目でしょ。ああもう……私が追いかけようか?」 「お義父さん待たせてるんだから行こう。俺も頭冷やしたい……っていうか、解決策考えたい」 そんな鷹緒に、理恵は溜息をついた。 「今回の件は私も悪いけど、頭で考えるから駄目なのよ」 「おまえが言うのかよ」 「お父さんは鷹緒が忙しい人なの知ってるから、急用出来たって言えば大丈夫。ほら、追いかけて。私も後でいくらでも弁明するから、ちゃんと正直に話すのよ」 「……わかった。じゃあ、お義父さんによろしく言っておいて」 理恵に後押しされ、鷹緒は沙織が去っていった方向へと走っていく。沙織が行きそうな場所の見当はつかないが、方向的に沙織の家だと思った。
沙織のマンション近くで、鷹緒は沙織の姿を発見し、ひとまず安堵する。 「沙織」 鷹緒は沙織の手を掴み、真剣な顔で見つめた。沙織は無言で視線を落としながら、涙を零しているだけだ。 「ごめん……」 泣いている沙織にどうしていいかわからなくなり、鷹緒はそう言った。しかし沙織は何も言わない。 「……ちゃんと話したい」 「だから……わかってるって言ってるでしょ」 震える小さな声で、沙織がやっとそう言った。 「……沙織」 「鷹緒さんが言いたいこととか、誤解だとか、何もないとかわかってる……問題は私の気持ちだけなんだもん」 人通りの切れない歩道で立ち止まった二人は、それ以上何も言えないでいた。 鷹緒は人目を気にしつつも、目の前でただ泣くだけの沙織の肩をそっと抱く。さっき拒まれたことで少し勇気がいったのだが、今度は沙織も拒まない。 そのまま鷹緒は沙織とともに、沙織のマンションへと入っていった。
「……話聞いて?」 ソファに座らせた沙織の前で、鷹緒が膝立ちでそう言った。沙織は何も言わずに顔を伏せているので、鷹緒は言葉を続ける。 「まず……今日は恵美が理恵のお父さんに買ってもらった着物を着て、写真を撮りたいって言うから、撮影することになったんだ。理恵はもうずっと実家に帰ってなかったけど、お母さんが体調崩したっていうんで、正月久々に帰ったら、相容れなかったお父さんともやっと少しわだかまりが取れたって……俺も知らない仲じゃないし、撮影くらいなら引き受けようと思った。ぶっちゃけ、恵美には会いたかったしな」 正直に話し始める鷹緒だが、沙織は表情を暗くしたまま聞いている。目の前には鷹緒がいて、とても逃げられそうにない。 「撮影終えてから食事に行こうって言われて断ったんだけど、どうしてもって言うもんだから、今後そうあることじゃないし、受けようと思った」 沙織は口を結ぶと、やっと鷹緒を見つめた。 「私が怒ってるのは、そのことじゃないよ? あんな……理恵さんと、人目もはばからず足とか触っちゃって……」 それは誰の目から見ても、似合いの二人に見える光景だった。相手が理恵でなく他の人や自分だったらと思っても、あれだけ似合うカップルはいないように思ってしまう。 「……それはあいつが靴擦れしてる上に、足挫いたりもして辛そうだったから……」 「だから私の気持ちだけなんだってば。私だけに優しくしてなんて言えないし、あれが理恵さんじゃなくても、鷹緒さんはそう出来る人だってわかってる。でも……もっと方法はあったんじゃない? 外でやらなくてもよかったし、あんなとこ見せられたら、私でなければ誤解してる」 不満をぶちまける沙織に、鷹緒は真顔のまま頷いた。 「そうだな……ごめん」 「鷹緒さん、わかってないよ……私から見えるところで、他の人に優しくしないで……」 すぐに自分で後悔するほどの言葉に、悲しさや惨めさが襲って、沙織の目からは一気に涙が溢れ出す。 鷹緒は小さく溜息をつくと、沙織の横に座りその身体を抱きしめた。 「ごめん……もうしないから……」 後悔し反省する真剣な鷹緒の態度は、許してしまいたくなる。でもそれに甘えて許してしまうことが、沙織にとっては悔しくもあり、逆に仕方のないことにも思えて、心揺れたまま鷹緒の顔を見つめる。 「無理だよ……鷹緒さん、優しいもん。気付いてないなら尚更ひどい」 真っ直ぐに自分を見てそう言った沙織に、少し和らいだ雰囲気を察して、鷹緒は優しく微笑んだ。 「そうか。俺、優しいんだ?」 「うん……」 「俺がおまえのこと不安にさせるくらい他人に優しいなんて、今の今まで聞いたことないよ。でもそれが本当なんだとしたら俺も気を付けるし、おまえに我慢しろなんて言わない……俺は今、おまえに謝ることしか出来ないし、おまえが泣くとどうしていいのかわからなくなるよ……」 もう一度抱きしめながら鷹緒が言った。それでも沙織の涙はとどまることを知らない。 「……私が言ってるのは人格否定だよね。人に優しくしないでなんて……本気で言ってるわけじゃないんだけど……」 「いいよ……おまえは俺の彼女なんだから。しかし、そんなこと考えたこともないんだけど」 「鷹緒さんは優しいよ。そういうことさらっと出来るのは好き……」 「じゃあ俺の性格なのかな……思い起こせば、母親の教育っていうのもあるかもしれないけど……」 それを聞いて、沙織は鷹緒を見つめた。 「え?」 「昔、おまえも言われなかった? 人には優しくって」 「ああ……そういうこと?」 「うちの母親は、特に女の子には優しくって教えだったんだよな……さっきはおまえが言うように、人目につかないところで出来たんならベストだったと思うし、おまえがおまえだけに優しくしろって言うんなら努力する。だからお願いだから、もう泣かないで……?」 沙織の涙を指で拭いながら、鷹緒はもう他の術を知らずに、ただ謝るしかない。そんな鷹緒に、沙織は思わず微笑んだ。鷹緒が可愛く見えて、おかしく思えてきたのである。 「もう鷹緒さんたら……いつもいつもずるいなあ……」 やっと笑った沙織にほっとして、鷹緒は濡れた沙織の頬にキスをした。 「ずるいのはおまえだろ。泣かれたらこっちは何も出来ないよ……」 「泣かせるほうが悪いの。もう……今年は泣きたくないと思ったのに」 「ごめん……好きだよ……」 その言葉ですべてを許してしまいたくなり、沙織は目をつぶる。 そんな沙織の唇にキスをして、鷹緒はもう一度沙織を抱きしめた。実際問題、自分の行動すべてに反省など出来なかったが、別れを考えると怖くなる自分がいる。そう思えば、沙織の不満すべてを解決したくなった。それには自分が変わらねばと思うが、そう出来るかの不安はいつも付きまとっている。 浮かない顔の鷹緒に、沙織は抱きついた。 「私もごめんね……」 やっと仲直り出来たと思い、鷹緒は安堵して微笑む。 「俺は……またきっとおまえを泣かせるんだと思う。そうならないように努力はするけど、そんな時は構わず俺を殴っていいし、もっとわがまま言っていいよ。その時、俺が受け止められるかはわからないけど、全部ぶちまけてくれたほうが楽……」 疲れたように沙織を抱きながら、鷹緒がそう言った。努力はしても、理恵と同じ職場である限り、同じような問題は出てくるかもしれない。いちいち気にするべきことではないのだが、沙織はそれでもショックを受けるのだろう。 一方の沙織にも鷹緒の気持ちは痛いほどわかっており、それを受け止められない自分も嫌で仕方がない。それでもそう言ってくれる鷹緒に、今は甘えようと思った。 「じゃあ……今度一日だけでいいから、私のことだけ考えて?」 「いつも考えてるんだけどな……」 「悪いけど、実感出来てないよ?」 「わかったよ。他の電話も出ないし、おまえ以外に会わなきゃいいんだろ? 今度の休みはそうしよう」 少しわがままの度が過ぎたとも思ったが、沙織は鷹緒の胸に不安な顔を埋め、鷹緒もまた沙織の心を取り戻せて安堵する。 二人にしかわからない不安や恐怖は、二人だけが解決するのだろう。その日鷹緒は、そのまま沙織の部屋に泊まり、一晩中愛しい顔を見つめていた。
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