朝、出かける支度をしている鷹緒の前で、広樹が行動予定表のホワイトボードに記入を始めた。 「おまえも出かけんの?」 鷹緒の言葉に、広樹が振り返る。 「うん、打ち合わせとイベントの引率」 「俺も出るとこだけど」 「電車? 同じ方面なら一緒に行こうか」 「ああ」 そう返事をして、鷹緒もホワイトボードに記入すると、広樹とともに会社を出ていく。 「あ、ちょっと待ってください!」 その時、受付にいた牧が二人を呼び止めた。 「なに?」 同時にそう言って振り向く二人に、牧が折り畳んだ紙袋を差し出した。 「なにこれ?」 「今日が何の日かわかってないんですか?」 口を曲げる牧に、広樹は首を傾げる。 「バレンタインデー?」 「まさかチョコ用に持ち歩けって? んなこと出来るか」 広樹に続いて鷹緒が言った。しかし牧は、強引に二人に紙袋を持たせる。 「嫌味でもなんでも、毎年どれだけもらってるか学習能力ないんですか? 以前はもらった先で袋もらったり、もらったのに忘れて来たりと散々だったでしょ? そんな失態を後で聞かされる私の身にもなってください。恥ずかしいので持って行ってもらいます」 「いや、牧ちゃん……鷹緒はともかく、僕は毎年そんなにもらわないし、たとえ持ちきれなくなっても外で買うからいいよ。持って行って全然もらえなかったら、それはそれで恥ずかしいし……」 「俺だってしばらく海外にいたんだから、俺に義理チョコくれる習慣ついてる人からも、もうもらえないと思うけど……」 「いいから持って行ってください!」 「ハイ……」 牧の剣幕に押され、鷹緒と広樹は紙袋を持って会社を出ていった。
「ヒロ。やる」 会社の外に出るなり、鷹緒が紙袋を差し出した。 「ええ? あとで牧ちゃんにしばかれるぞ」 「牧が怖くてやってられるか。それに俺、本当に必要ないもん」 「もしかしてあれか? 本命以外は受け取らないとかそういうこと?」 「そう出来たらいいけど、取引先では断れないな」 「じゃあ必要だろ。牧ちゃんが言ってること、全部おまえの失態だろうが」 広樹の言葉に、鷹緒は苦笑する。 「確かにそうだけど……本当、今年はいつもくれる人たちからは、今日会わないからって結構前からもらってるし、今日の仕事はほとんど男ばっかりだから大丈夫だと思う。おまえは今日のバレンタインイベント行くんだろ? 女ばっかりの現場なんだから、多めに持って行って損はない」 「そんなこと言って邪魔だからだろ。おまえじゃないんだから、二袋なんて必要ないよ」 「残念。俺の全盛期は二袋どころじゃねえよ」 「それはモデル時代とかだろ。しかしおまえ今日、機嫌良いな」 昔話を持ち出して笑う鷹緒が珍しく思えて、広樹が不思議そうにそう言った。すると鷹緒は、歯を見せて得意げに笑う。 「わかる? 直接じゃないけど、恵美から手作りチョコもらったからさ」 なるほど鷹緒の態度がいつになく明るい理由がわかり、広樹は苦笑する。 「それ、僕ももらったけど」 「はあ? 嘘だろ。なんでおまえに……」 「僕だって、恵美ちゃんに好かれてるもんね」 「ああそう?」 一気にテンションが落ちるように、鷹緒は溜息をついた。 「まあいいじゃん。今年は本命からもらえるんだろ。じゃあまあ……資料入れとして頂こうかな」 広樹は持っていた書類ケースを紙袋に入れ、鷹緒の紙袋も一緒に入れた。 そして二人は電車へと乗り込む。 「しかしバレンタインか……この時期、憂鬱だよな。うちは女性タレントばっかりなのに、結構ファンの人から届くから、事務所宛のチョコの整理もしなくちゃいけないし、個人的なホワイトデーのお返しもばかにならないし……」 それを聞いて、鷹緒はふと思い出した。 「ああ、会議室のダンボール、あれ全部チョコか」 「そうだよ。おまえ宛のもあったぞ。去年まではアメリカ行ってたから落ち着いてたけど、またテレビ出たりして名前が売れたし、今年はきっと箱で渡すようだな」 「だったらおまえもテレビ出たから多いんだろ。俺のは捨てといてくれ」 「言うと思ったけど、チョコはともかく手紙は読めよ。これ、社長命令」 なんでも言い合える仲ではあっても、社長命令というのは鷹緒にとって絶対的な言葉であるため、苦笑しながらも頷いた。 「わかったよ。しかしチョコは好きなんだけどな……知らない人からのチョコなんて食えないし……」 「そうか?」 「おまえも食い意地張ってるんだから気を付けろよ。変なモノ注入されかねないから」 そう言う鷹緒は、バレンタインデーというものに対してあまりいい印象を持っていない。特にモデル時代は公私ともに人から憧れられる存在だったため、もらったチョコレートの数も桁違いだったのだが、中にはまじないと称して異物が混入されているチョコレートや、怨念とまで取れる手作りプレゼントをもらったこともある。 「ハハ。僕はそこまで嫌な思いしたことはないから……でも今年は沙織ちゃんもいるんだし、食べられるチョコがあってよかったじゃないか。彼女だったら手作りじゃない?」 「どうかな……あいつだって今日のバレンタインイベントに出るし、そんな暇ねえだろ。今日は会う約束もしてないし」 「そうなんだ?」 「おまえも義理だけじゃないんだろうから、そろそろ決めたら?」 突然の鷹緒の言葉に、広樹は顔を顰める。 「チョコもらった中から彼女選べって? どれが義理でどれが本命かなんてわかんないだろ。僕の場合、社長ってだけでもらうことも多いんだから」 「おまえ、散々人の恋路にとやかく言ってくるくせに、自分の恋愛に手を出さないってなんだよ?」 「それはおまえじゃないけど、そんな暇ないって。今日だって社長自ら引率だぞ? たまには悠々とイベントを遠くから見てるだけのポジションでいたいよ」 「だったら従業員増やすか、仕事減らすかしてくれ」 「はあ……なんか僕たち、進歩しない会話だよなあ」 深い溜息をつく広樹を横目に、鷹緒が笑った。 「まあ、俺たちがこんななのは三崎企画にいたからだろ。あそこで忙しかったのが沁みついてるから、百パーセント以上の仕事しなきゃ気が済まないって感じ」 「残念ながら、それはあるね」 「俺はただ目の前の仕事こなすだけだけどな……じゃあ俺、次の駅だから」 そう言いながら、鷹緒は切符となる電子マネーカードを取り出す。 「ああ、了解」 「せいぜいチョコレートに埋もれないようにな」 「ハハッ。一度くらいそうなりたいもんだよ」 互いに笑って、先に鷹緒が電車を降りていった。 残された広樹は、大きな紙袋を見つめながら苦笑した。広樹も学生時代から人より多くチョコレートをもらう人間だったが、鷹緒を見ていると麻痺する部分もある。それはすでに事務所宛に届いたタレント宛の段ボール箱を思い出しても同じで、甘い物に対して嫌悪感さえ覚えそうだった。しかし鷹緒の言葉を思い出すと、気になる存在から本命チョコというものがもらえるかもということは、一応気になった。
夕方。WIZM企画のドアが開くなり、牧は驚いて立ち上がった。 「おかえりなさい……だ、大丈夫ですか? 社長」 目の前の広樹は三袋の紙袋を抱え、尚且つイベントで使用した資料などを抱えている。 「大丈夫だけど、疲れたあ」 「それ全部チョコですか?」 「うん。鷹緒から袋もらったはいいけど、それでも足りなくてコンビニに走ったよ……」 「もう……鷹緒さんってば、せっかく用意したのに持って行かなかったんですね?」 「おかげで僕は助かったけどね……」 そう言いながら、広樹は奥の会議室へと入っていく。そこにはいくつものダンボール箱が置かれ、すでに始まっていた仕分け作業により、名前別で分けられている。 「やっぱりね……鷹緒の人気は健在か」 箱いっぱいの鷹緒宛のダンボールを見て苦笑する広樹は、持ち帰ってきた紙袋を置く。ほとんどは自分宛の義理チョコだが、鷹緒を含めた社員用に預かってきたものもある。 そこに、牧がコーヒーを入れてやってきた。 「昼間、作業班が頑張ってくれたんで、仕分け作業は概ね終了しました。社長宛のは社長室に運んでありますよ。やっぱりテレビ効果なんでしょうかね……例年以上でびっくりしました」 「本当に?」 会議室手前にある社長室を覗くと、確かに中には大きなダンボール箱が置かれている。 「ええ? これ全部、僕に?」 「そうですよ。今回は鷹緒さん以上かもしれませんね」 「なんでだろう……」 「ただーいまー」 そこに鷹緒が戻ってきた。手には大きめのレジ袋があるものの、広樹ほどの量ではない。 「おかえり……鷹緒、それだけ?」 「うん。ああこれ、おまえ宛に預かった」 そう言って、鷹緒は広樹にチョコレートの包みを渡す。 「私の読みが外れたんですか? 鷹緒さん、もっともらうはずなのに……」 不思議そうに首を傾げる牧に、鷹緒は苦笑した。 「言ったろ。俺の全盛期はとっくに過ぎてますから」 「鷹緒さん、なにかしたでしょ?」 そんな牧を尻目に、鷹緒は不敵に微笑む。 「べつに? チョコくれるくらいなら、仕事くれとは言ったけど……」 「うわあ……鷹緒さんにしか言えないセリフですね」 「まあ冗談だけど、仲良い女性陣には、もらっても食べないとも言っておいたし」 「それでも鷹緒さん宛のチョコは箱で来てますけどね……」 「それは一般人だろ? 手紙だけくれよ」 牧の話を聞きながら、鷹緒は会議室を覗いた。沙織宛のチョコレートも紙袋で来ているらしい。 「ヒロ。おまえ、イベントの引率だったんだろ? モデル陣は?」 社長室に顔を出して、鷹緒が尋ねる。 「僕は前半だけだから。あとで理恵ちゃんたち来たから、途中で抜けて帰って来たんだ。バレンタインイベントだから、あのままいたらもっとチョコ増えてただろうしね」 「おーおー、おモテになるようで」 「こんなにもらったの初めてだよ」 「もらった? 綾也香たちから」 「もらったよ。コテコテの義理チョコ」 「案外手作りかもよ?」 「ハハッ。じゃあ怨念詰まってるのかな」 「しかしトップモデルからチョコもらうってのは、いいもんなんじゃないの?」 「そりゃあまあね」 照れくさそうに笑う広樹を見届けて、鷹緒は給湯室へと入っていく。すると牧がコーヒーを入れていた。 「コーヒーでいいですか?」 「うん。ありがとう」 「あと、いっぱいもらってるでしょうけど、これは私から」 用意していたチョコレートを差し出した牧に、鷹緒は嬉しそうに微笑んだ。 「おお、やっとまともに食えるチョコだ。サンキュー」 「なんですか、それ」 「俺はおまえを信用してるってこと」 「鷹緒さん……その笑顔がずるいですよ」 「俺なんかの笑顔で良ければ、いつでもあげますよ」 今日は未だ調子がいいのか軽く冗談を言って、鷹緒は早速、牧からもらった包みを開けた。そこにあったのは、手作りのトリュフチョコレートである。 「手作りじゃん。よく時間あったな」 「溶かして丸めるだけなんで」 「俊二のついででも嬉しいよ」 早速チョコを頬張って、嬉しそうに微笑む鷹緒に、牧は苦笑した。長年勤める自分だから素の顔を見られる部分もあるだろうが、そうでなくとも鷹緒がチョコレートを数多くもらう理由がわかる気がする。 「鷹緒さん……やっぱりカッコイイですね」 そう言った牧に、鷹緒は驚いて噎せ返った。 「てめえ。急になんだよ」 「だって……普段一緒にいて忘れてましたけど、チョコレートの数がそれを物語ってるなあって」 「ああそう?」 苦手な話題でうんざりした鷹緒を見て、牧は責めるように笑顔で頷く。 「そうですよ。あーカッコイイ。超カッコイイ」 悪ノリする牧に、鷹緒もまた不敵に微笑むと、牧を壁際に追い詰め、いわゆる壁ドン状態で牧を見つめた。 「え、牧ちゃん。俺のどこがカッコイイって? 顔? 声? 仕草? 性格?」 「ちょっと、鷹緒さん!」 ある意味キレた状態で微笑む鷹緒に、さすがの牧も真っ赤になってそう叫ぶ。 そんな鷹緒の頭を、後ろから広樹が叩いた。 「イテ!」 「おまえな、いつか牧ちゃんに訴えられるぞ?」 一部始終を見ていた広樹は、苦笑してそう言った。 「助けて、ヒロさん!」 広樹の後ろに回り込む牧に、鷹緒も苦笑する。 「いや、そのシチュエーションが流行ってるらしいから」 「だからって、私に試さないでも」 「ドキドキした?」 「だから、なんで私にドキドキを求めるんですか!」 お互いに気を許し合っている二人の間で、広樹は苦笑するしかない。そんな中で、鷹緒と牧は楽しげな言い合いを続けている。 「だっておまえ、俺になびかないじゃん」 「そんなことないですよ? 人間、いつ何が起こるかわからないですし」 「へえ? そりゃあ誤算だったな」 長年共にしてきた社員だからこその会話だが、傍から見ている広樹には羨ましくもハラハラしつつもあった。 「まったく、恵美ちゃんから手作りチョコもらっただけで一日中機嫌がいいなら、これから毎日作ってもらおうかな」 「おまえにもあげてたって聞いて、半減したけどな」 広樹と鷹緒の会話に、牧はくすりと笑った。 「もう、鷹緒さんったら。彼女より娘さんからのチョコのが嬉しいなんて、沙織ちゃん妬きますよ?」 「こればっかりはしょうがねえだろ。それにバレンタインにチョコ作ったのは、生まれて初めてだっていうから。しかも俺のためだって。だからおまえにあげたのは、ついでの余りだからな」 「いいよ、ついででも余りでも……ったく、親馬鹿だな。しかし本当の父親じゃないのに、よく……」 そんな広樹の言葉に、場は一瞬にして凍りついた。冗談めいて言ったつもりだったが、凍りついた場に広樹は顔色を変える。 「悪い……」 鷹緒は口を曲げつつも、諦めるように苦笑した。 「そんな重くならないでくれる? いいよ、本当のことだから……でもまだ戸籍上では俺の娘だし。誰がなんと言おうと、俺はあいつが大事なんだよ」 恵美が自分の子供ではないということは、広樹にさえずっと嘘をついてきたことだ。それは使い分ける自信がなかったことにもあれば、恵美が生まれた当初は、理恵と復縁するかもしれないという当時の思いが少なからずある。 しかし豪が帰ってきた数日中に、鷹緒は広樹に打ち明けた。そして牧もまた、それを後に知らされている。知らされた方としては複雑な思いがありつつも、もう打ち明けられてから数年経っていることもあり、変わらず子供思いの鷹緒を見れば、それもまた薄れていた。 「わかってるよ。大事なのは僕だって同じだ……それで、おまえにチョコが減った理由って、結局なんなの?」 早く話題を変えようと、広樹はそう尋ねる。鷹緒は気に留めた様子もなく、早くも牧のチョコレートの二個目に手をつけていた。 「べつに大したことじゃないよ。もらったらべつのやつに横流ししただけ」 「おまえ、最低……」 「その場で開けて食べるフリはしたよ?」 「それでその場に置いてきたんだろ? それじゃあ差し入れと同じ扱いしただけじゃん」 「そういうノリにしたし、一応断っておいたから大丈夫だって。それに向こうだって、俺一人で全部食べ切れないのはわかってるだろ。ホワイトデーでお返しすれば済むことなんだからいいんだよ。とにかく今年は量も多いし彼女もいるし、他からしかも義理までもらうなんて面倒くさい」 先程の恵美からのチョコレートと比べれば、まるで鬼畜の言い分に聞こえたが、広樹と牧は互いの顔を見合わせて苦笑した。 「わからないでもないですけど、またあとで私が他の会社の女の子と飲みに行った時に、文句言われるのは嫌ですよ?」 牧は取引先の女子社員とよく飲みに行っているため、鷹緒や広樹の他での付き合いも知っている。そんな牧に、鷹緒は溜息をついた。 「もし言われたら言って。来年はまた考える」 「言われなくても考えてくださいよ。その扱いはちょっとひどいです」 「そうか? いい方法だと思ったんだけどな……」 「ただいまー!」 その時、モデル部の社員たちが戻ってきた。今日はバレンタインのためにイベントが多数あったのである。 「おかえりなさい。おつかれさま」 三人だけの事務所が、一気に賑やかになった。 モデル部が帰ってきたということで、沙織も仕事を終えたとみて、鷹緒は携帯電話を見つめる。しかしメールも着信もないので、今日は会えないかもしれないと思い、デスクへと向かった。 しばらくすると、隣の席に俊二が帰ってきた。 「おう。おかえり」 「ただいまです……」 浮かない顔の俊二に、鷹緒は首を傾げる。 「そんなに疲れたのか? 今日の現場」 「いえ、違うんです……」 「じゃあなに? カノジョと喧嘩でもした?」 冗談で言った鷹緒だが、それに反して俊二は顔を曇らせた。 「……はい」 「嘘。マジで?」 無意識に、鷹緒は俊二越しに牧を見た。先程の様子からもいつも通りに見えたが、もしかしたらいつもの鈍感さに牧の地雷を踏んでしまったかもしれないと、鷹緒も不安になる。 「喧嘩っていうほどではないんですけど……鷹緒さん、今日はデートですか? 違うんなら飲みに行きません?」 情けない顔の俊二を前に、鷹緒は小さく息を吐いた。 「べつにいいよ」 「本当ですか? じゃあすぐ仕事片付けますんで!」 隣のデスクでパソコンに向かい始めた俊二を横目に、鷹緒は沙織に電話をかけた。 『おつかれさまです』 まだモデル仲間と一緒にいるのか、のっけから他人行儀な沙織の声が聞こえる。 「おう……そっち終わった? 今日の予定は?」 『これから女子会』 「そう。じゃあ今日は会わなくていいな?」 『その言い方がなんかムカつくけど……うん、いい』 「わかった。こっちも飲みに行くから。じゃあな」 それだけを言って、鷹緒は電話を切った。会う約束をこぎつけたかったわけではないが、居所くらいは言っておかないといけないと思ったのである。 鷹緒も残った仕事を片付けると、俊二とともに会社を出ていった。
居酒屋へ向かった二人は、早速酒で乾杯をする。 「バレンタインに男二人って、すげー微妙だな……で、どうしたんだよ?」 苦笑しながらも、鷹緒はすぐに真剣な顔をして俊二を見つめた。 「先日……鷹緒さんからもらったディナークルーズで、牧ちゃんにプロポーズしたんです」 展開の早い俊二の行動に、鷹緒は目を丸くしながらも続きを聞こうと前のめりになった。 「早いな。それで?」 「……俊二君らしくないって、言われちゃって……」 それを聞いて、鷹緒は椅子に座り直すと、煙草に火を点けた。 「……何に対して?」 「全部でしょうね……豪華ディナークルーズも、僕にしちゃ背伸びしすぎだったと思いますし、プロポーズの仕方もハマってなかったのかなって……街の夜景を見ながら、ロマンティックにやったつもりだったんですけど……」 落ち込む俊二を前に、鷹緒は苦笑した。それを見て、俊二は口を尖らせる。 「ひどいですよ……鷹緒さんは百戦錬磨だから簡単に落とせるかもしれませんけど、僕はそれなりにたくさん頭の中でシミュレーションして、考えに考え抜いたプランで臨んだんです!」 鷹緒は煙草の煙を吐くと、その火を消して静かに笑った。 「俺が百戦錬磨のわけねえだろ? 俺もさ……実は一回、プロポーズ却下されてんだよね……」 苦笑しながら言う鷹緒に、俊二は目を見開く。 「却下って……副社長にですか?」 「そう。俺はおまえと逆で、何にも考えないで、ただ日常の中で言ったんだよ。もともとお互いにそういう話はしてたから、まさか断られるとは思ってなかったんだけどな……“こんななんでもない時に言うなんて酷い。もう一回ちゃんとムードのある時にやって”とか言われてさ……」 なぜこんな苦い昔話まで出して俊二を慰めなければならないのかと思いながらも、鷹緒は昔話を語るように、笑いながらそう言った。 「それはちょっとキツイっすね……それで、どうしたんですか?」 「やったよ。こっちもプライドがあるから数ヶ月は放っておいたけど、これでもかっていうくらいベタベタのサプライズしてやった」 「どんなふうにですか?」 真剣に悩んでいる様子の俊二だが、鷹緒はそこまで教える気はなく、溜息をついて日本酒に口をつける。 「そこまで言いたくないんだけど……」 「教えてくださいよ!」 「うーん……」 渋る鷹緒に、俊二は子犬のように潤んだ目で見つめるので、鷹緒は苦笑して重い口を開いた。 「……その日はイベントがあって……俺もあいつも同じ仕事だったから、終わった後に食事に行ったんだ。でももちろんその日にやるって前もって決めてたから、前振りとかもしておいて、ちょっと洒落た展望レストランで食事するのも違和感ないくらいにして、そのままヘリで周遊しながら花火見て、降りた先が遊園地でさ。予約してたからそのまま人通りパスして、観覧車の中で指輪出した。でもあいつは、感動なんて見せなかったけどね」 端折って簡単には言ったつもりだが、それでも苦い思い出として言葉に滲み出ている。 「ええ。そこまでしてですか……」 「そういうやつだよ。まあ喜んではくれたみたいで、プロポーズは受けてくれたけどな。あんなこっぱずかしいことはもう出来ないし、あの頃あれ以上求められてたら別れてたかも」 普段の鷹緒からは想像もつかないほどのサプライズに、俊二は興味津々の様子で頷いた。 「へえ……すごいですね」 「だから、一度くらい断られたって気にするなよ。牧はおまえに愛想つかしたわけじゃないと思うし、かといって遊びのわけでもないだろうし、焦らなくても時期が来れば解決するんじゃない? って、俺みたいな負け犬に相談してる時点でどうかと思うけどな」 「いや、やっぱ鷹緒さんはカッコイイです。普通にしててもそんななのに、そんなサプライズされたらイチコロですよね……」 「だから俺は成功者じゃないっての。でも……ちょうど十五年前の今日なんだよなあ」 頬杖をつきながら遠い目をする鷹緒に、俊二は目を見開いた。十五年前のバレンタインデー、鷹緒は理恵に一世一代の大勝負を仕掛けたというのだ。それを聞いて、十五年後の今が申し訳なく思えた。 「すみません。今年は彼女もいるっていうのに、僕なんかと場末の居酒屋で……」 「ハハ。べつに彼女がいたって、今日はどのみち一人だから」 「でも、うまくいってるんでしょう?」 「まあな。そういやおまえ、牧からチョコレートもらった?」 話を戻されて、俊二は俯く。 「いえ……」 「俺はもらったよ。おまえのがないわけないだろ。もらい忘れたんじゃねえの?」 「今日はしゃべってもいませんから……」 「うまくいってないなら、余計に距離なんかとらないほうがいいぞ」 「はい……」 その時、俊二の携帯電話が震えたので、俊二は隣に置いていたバッグを探る。見るとメールだったが、牧からではなく友達からである。 俊二は溜息をつくと、携帯電話をバッグに戻す。すると、バッグの中に見慣れぬ小箱が入っていることに気付いた。今日は出先でチョコレートをもらったものの、それには見覚えがない。 「これは……?」 取り出した俊二の手に握られた箱を見て、鷹緒は微笑んだ。 「牧からだよ。俺にくれたのと同じ包み」 「え、本当ですか? いつの間に……」 「開けてみれば?」 鷹緒に促され、俊二はラッピングされた箱を開けた。そこには鷹緒が食べたものと同じ手作りのトリュフチョコレートが入っている。 「たぶん……全部食ったら答えが出るんじゃない? 俺にくれたのは、牧のおまえに対する前振りか保険だったのかも」 そう言いながら、鷹緒は自分のバッグの中を探り、俊二が手にする箱と同じ箱を取り出して中を見せた。すでに鷹緒はあと一個を残して食べ尽くしているが、四個入りの箱の底には、牧からの“いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします”という手書きのメッセージが書かれていた。チョコレートをどけないと見えないメッセージである。 俊二はそれを見て、牧からのチョコレートを一気に口に入れた。 「一気かよ……」 苦笑する鷹緒だが、俊二は箱の底を見つめて目を潤ませている。 「なんか書いてあったか?」 心配そうに尋ねる鷹緒に、俊二は頷きながら箱を差し出した。鷹緒はそれを見つめると、俊二を見て微笑む。 箱の底にはやはりメッセージが書かれており“この間はごめんね。びっくりしちゃって余計なこと言っちゃったけど、すごく嬉しかったです。今すぐ結婚は考えられないけど、結婚を前提にお付き合いを続けていけたらと思っています。大好き”と書かれていた。 「よかったじゃん」 「はい! ありがとうございます」 「今日が終わらないうちに、会いに行ったら? まだ会社にいるかもよ」 鷹緒に言われて、俊二は思い立ったように立ち上がった。 「あ、でも……」 「ここはいいって。行けよ」 「じゃ、じゃあ……失礼します。今日はありがとうございました!」 足早に去っていく俊二を尻目に、鷹緒は苦笑して一人酒を呑む。 「ったく、俺ってば損な役回りじゃん……やっぱりバレンタインは駄目だな……」 惨めな身の上を案じて、鷹緒は笑うことしか出来ない。バレンタインデーに一生忘れられないほどの思い出を作ってしまい、この日が来るといつでも思い出してしまう。 鷹緒は早めに切り上げて会計を済ませると、居酒屋の外へ出た。すると、ちょうど向こうから理恵と牧が歩いてくるのが見えて、鷹緒は顔を顰めた。 「牧……おまえ、俊二は?」 思わず言った鷹緒に、牧は首を傾げる。 「え? 鷹緒さん、俊二君と呑んでたんじゃないんですか?」 「あいつ、おまえに会いに行ったぞ」 「嘘……まあでも、用があるなら電話くらいかけてきますよ」 女性というのは男性より淡泊な部分があるなと思いながら、鷹緒は頷いた。 「あんまりすれ違わないようにしろよ」 「じゃあ牧ちゃん、俊二君に電話してみたら?」 今度は理恵がそう言ったので、牧もまた苦笑して携帯電話を見つめた。すると気付かなかったのか、そこには俊二からの着信が入っている。 「あちゃー、気付かなかった。じゃあ私、ちょっと戻ってみますんで、ここで……」 「うん。おつかれさま」 去っていく牧を見送って、理恵は鷹緒を見つめる。 「俊二君にふられたみたいね」 「まあな……おまえは? 牧と飲み会ってわけじゃねえよな?」 「うん。たまたま帰るタイミングが一緒だったから、駅に向かってただけ。今日はバレンタインなのに、紙袋下げてないのね?」 「本命がもらえればいいんだよ」 「その本命と、これからデート?」 からかう理恵に、鷹緒はバツが悪そうに俯いた。今日は沙織に会ってもいないため、チョコレートすらもらっていない。しかし鷹緒は見栄を張るように口を開く。 「まあな……」 「そう。今日はイベントも盛り上がってたし、沙織ちゃんの気持ちも盛り上がってるんじゃない?」 「俺はおまえに会って盛り下がってるよ」 悪態をつきながら歩き出す鷹緒に、理恵は苦笑してついていく。 「ずいぶんな口利くのね」 「ついてくんな」 「しょうがないでしょ。駅こっちなんだから」 「今日はおまえのこと考えたくない日なんだよ」 本音を言う鷹緒に、理恵は立ち止まった。そんな気配を感じて、鷹緒は振り返る。 「行っていいよ」 苦笑する理恵が寂しそうに見えて、鷹緒は軽く溜息をついた。 「それじゃあ俺が、嫌なやつみたいじゃん」 「まあ、見る人が見たらそうじゃない? もうどっちなのよ。優しいのか冷たいのかはっきりしてくれなきゃ、私も困るよ」 「俺は……十五年前のバレンタインデーが、今思い出しても苦いだけ」 そんな鷹緒とは対照的に、理恵は明るく笑う。 「私も忘れられないよ。でも苦くなんかなくて、もう一生あんなサプライズしてもらえないんだろうなって、ちょっと宝物みたいに胸にしまってあるの」 「……俺は俊二に言っちゃったけど」 「ええ? せっかく二人だけの貴重な思い出なのに」 「どこが。それにおまえ、あの時全然喜んでなかったじゃん。むしろ引いてた」 「引いてはないけど、よく鷹緒がここまでしてくれたなあっていうほうが先に来ちゃってたのは確かかも。でも泣かなかっただけでちゃんと感動したし、だからプロポーズ受けたんじゃない」 「二度断られてたら結婚なんてしなかったよ」 「二度? 一回断ったっけ?」 「おまえなあ……」 そう言ったところで駅に着き、行き先が違う二人はその場で手を上げた。 「じゃあな」 「あ、鷹緒……」 去りかけた鷹緒に、理恵が声をかける。 「ん?」 「……鷹緒にとっては苦い思い出かもしれないけど、私は今でも思い出すと嬉しいし感謝してる。結果的に別れて、思い出したくもないかもしれないけど、だったらそれ以上の思い出作って。まあ、私が言うことじゃないけどね」 理恵の言葉を聞いて、鷹緒もまた苦笑した。 「やりたくてももう出来ないから、俺も胸にしまっておくよ。苦い思い出にはなったけど、思い出したくないわけじゃない。あの頃の俺を労ってやりたいよ」 「そうね……」 「じゃあな」 そう言って、鷹緒はタクシーで家へと戻っていった。 家に着くと同時に、鷹緒の携帯電話が鳴る。 「はい」 『沙織です。今、大丈夫?』 沙織からの電話に、鷹緒は無意識に微笑む。 「うん……ちょうど今、家に着いたとこ。どうした?」 『帰ったんだね。今から行ってもいい?』 「べつにいいけど、女子会は?」 『終わったよ。じゃあ、すぐ行くからね!』 軽い興奮状態とみられる沙織は、そのまま電話を切った。鷹緒は首を傾げながらも部屋に上がり、飲み足りないので冷蔵庫のビールに口をつける。 それからしばらくして沙織がやって来た。その姿を見ただけで癒されるように、鷹緒は優しく微笑む。 「いらっしゃい」 「急にごめんね」 そう言う沙織は、外でのイベント仕事と女子会後で高揚したテンションを引きずるように、明るく微笑んでいる。 「いや。でも飲み会にしては早かったじゃん?」 「飲み会じゃないの。イベント終わってから、家で麻衣子たちと一緒にチョコ作る約束しててね。もうみんなで大騒ぎ! はい、まだ完全に固まってないと思うけど、出来たてほやほやだよ」 沙織は鷹緒に小箱を差し出して言った。 今日はチョコレートをもらうどころか会えないと思っていた鷹緒は、そんな沙織からのプチサプライズというべき行為に、素直に感動する。 「すげえな……手作りチョコなんて作ってる暇ないと思ってたのに」 「生チョコなんだ。ちょっといびつだけど、心は込めたよ」 「ありがとう。うまい」 早速一口を食べて、鷹緒は微笑んだ。その笑顔につられるように沙織も微笑む。 「よかった。今日渡せて」 「俺も今日会えてよかった」 鷹緒は沙織の髪を撫でると、唇にそっとキスをした。 「チョコレートの味がする」 そう言った沙織に、鷹緒はもう一度キスをして抱きしめた。他愛もないこの瞬間は、あまりにも穏やかで温かく、十五年前の今日にはない輝きがあると素直に思える。 「沙織……これからもずっと一緒にいて」 思わず出た鷹緒の言葉に、沙織は頷いて鷹緒の背中に手をやった。 「うん。来年もその先もずっと、バレンタインにはチョコ作るからね」 「うん……」 そんな小さな約束が、二人を温かく包み込んでいた。
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