第三話「未知数のカノジョ」より次の日――。 その日、沙織は早朝からの仕事でクタクタになりながらも、夕方前に仕事を終えるや否や、鷹緒に電話を掛けた。今日の鷹緒は珍しく何もない休日だと聞いているが、そんな時に限って自分に仕事が入っていることがもどかしい。 『はい』 受話器の向こうから、低い鷹緒の声が聞こえる。 「あ、鷹緒さん? 沙織です」 『ああ。終わった?』 「うん。今から出るところ」 『じゃあ事務所近くの本屋にいるから来られる?』 「ああ、あの大きな本屋さんね? わかった」 沙織は電車に飛び乗ると、鷹緒が待つ本屋へと向かっていった。電車に揺られている間、逸る気持ちを抑えきれずにいる自分に照れてしまう。 しばらくして、鷹緒が待つという本屋に入ってみたものの、大きな本屋のため、その姿は簡単には見つからない。だが鷹緒がいそうなところを探していると、フォト雑誌コーナーに一際背の高い人物に釘付けになった。 「鷹緒さん……」 そう言って駆け寄ろうとした時、鷹緒はやってきた二人組の女子高生に声を掛けられていた。 「諸星さんですよね?」 言われた鷹緒も、驚いて女子高生を見つめる。面識はないようだ。 「……そうですけど」 「やっぱり! BBの番組に出てましたよね?」 「ああ……」 思い当たる節があり、鷹緒は苦笑しながら目を逸らす。最近、人気歌手グループBBの冠番組に出たおかげで、こうして知らない人に声を掛けられることもよくあった。 「やっぱり。超カッコイイ! 握手してください!」 「俺、素人なんだけど……」 「全然いいです!」 大声の女子高生たちを気にして、鷹緒は早く終わらせようと、手を差し出した。 そのまますぐに女子高生たちは去っていったが、鷹緒は視線を感じて振り返る。するとそこに沙織がいたので、鷹緒は苦笑した。 「おつかれ」 「おつかれさま……やっぱりモテてる」 口を尖らせる沙織に、鷹緒は笑いながら溜息をつく。 「あれがモテてるとか言うんだ? やっぱBB効果はすごいな……」 そう言いながら目の前のフォト雑誌をカゴに入れ、今度はカメラ関係の書籍コーナーへ向かう。鷹緒の持つカゴにはすでにたくさんの本が入っている。沙織はそのまま黙ってついていった。 「……怒ってる?」 沈黙の鷹緒に、沙織が静かにそう尋ねる。 「怒ってるのはそっちだろ?」 そう言われて、沙織は俯いた。仕事を終えてやっと会えたというのに、自分の一言で雰囲気を悪くしてしまったことが、たまらなく悲しい。 その時、沙織の目に「監修・諸星鷹緒」の文字が映った。 「鷹緒さん!」 突然大声を出した沙織に、隣にいた鷹緒は驚いて沙織を見つめる。 「なんだよ……静かにしろよ」 「ごめんなさい。だって、これ……」 声をひそめながらも、沙織はその字が書かれた本を指差した。写真撮影の基礎が書かれているハウツー本のようだ。 「ああ……どうしてもって言われてやったことあるけど、結構前だよ? それに本なんて書けないから、技術面での監修だけっていう仕事だけど。ほら、著者は違う人だろ?」 週刊や月刊のフォト雑誌でもそういう類の仕事はよくあるため、鷹緒にとっては珍しくもない。 「でもすごい……」 「そう? おまえのすごいは聞き飽きた」 まるでハードルが低いかのように、沙織は鷹緒をおだててくる。そんな沙織に、鷹緒はただ笑ってやり過ごすと、更にいくつかの本を手に取って会計を済ませた。 「何食べる?」 本屋を出るなり、鷹緒がそう尋ねた。 「なんでもいいよ」 「うーん。俺、和食な気分なんだけど」 「いいね。私もそういうの食べたい」 さっきまでの気まずさはどこへやら、二人は笑いながら鷹緒行きつけの日本料理屋へと向かう。事務所近くのため手などは繋げなかったが、二人きりで食事出来るだけで沙織も満足だ。 「髪切ったんだね」 少し雰囲気の変わった鷹緒に、沙織が言った。 「ああ。さすがに伸びきってたから」 「荷物多いけど、久々のお休みだったのに、ちゃんと休めたの?」 「うーん。午前中はたまってた洗濯物片付けて、午後は事務所寄ってちょっとだけ仕事して、あとは美容院と買い物かな。新しいカメラレンズとか欲しかったから……おまえは?」 「私は普通の撮影だから、特に変わったことはないかなあ。あ、でも今日は綾也香ちゃんと一緒の撮影だったんだ。やっぱりカリスマモデルって違うね。麻衣子もそうだけど、立ち居振る舞いっていうのかな……ポーズとか、何をしても可愛くて勉強になる」 「ふうん?」 沙織の話に耳を傾けながら、鷹緒は軽く笑みを零して食事を続ける。目の前で嬉しそうに話す沙織が可愛いとも思う。 「そういえば、鷹緒さんも歩き方とか姿勢とかカッコイイよね。なにかレッスンとか受けたの?」 純粋にモデルとしてのあり方を聞いている沙織を前に、鷹緒も真面目な顔をした。 「レッスンってほどじゃないけど、特訓はさせられたよ。三崎さんからね」 またも出てきた鷹緒の師匠である三崎さんという人は、沙織自身はまだ一度も会ったこともなく、遠い存在である。 「三崎さんってすごい人なんだね。鷹緒さんにモデルになってもらいたかったのかなあ」 「うーん……というより、俺が悩んでたの知ってたから、いろいろやらせてたって感じはあると思うけど……おかげで今となっては本当に勉強になったと思ってるけどね。当時は大変だったよ」 苦笑する鷹緒だが、どこか嬉しそうにも見え、沙織も微笑んだ。 二人は食事を済ませると、レジへと向かう。 「払ってるから、先出てろよ」 前の客でレジが詰まっていたので、鷹緒は沙織にそう言った。沙織は頷くと、一人外へと出る。明日は沙織のほうが休みなので、今日はこのままお泊りコースでいいのだろうか……と思うと、不覚にも顔が綻ぶ。 「小澤沙織だ!」 その時、そんな声とともに、通行人の男性四人組が声を掛けた。沙織もモデルの端くれとしてよくあることだったので、とっさに頭を下げる。 「どうも……」 「うわー。生の沙織ちゃん、めっちゃ可愛い! 握手してもらってもいいっすか?」 「あ、はい……」 鷹緒のことが気になったが断るわけにもいかず、沙織はその男性たちと握手をする。 「一人じゃないよね?」 突然そう聞かれたので、沙織は頷いた。 「はい、あの……事務所の人と一緒で」 聞かれてもいなかったが、言い訳でもするように沙織が答える。 「写真も一緒に撮ってもらってもいい?」 「写真ですか……」 沙織は考えた。その場によって答えることは違うのだが、今は撮ってほしくないと思う。 そこに、鷹緒がやってきた。 「お待たせ……」 鷹緒の登場に、男性たちは沙織を見つめる。 「この人が会社の人? 彼氏なんじゃないのー?」 からかうように言う男性たちに、沙織は目を泳がせる。だがそんな沙織の前に、鷹緒の手が遮る。見ると鷹緒は、男性たちに名刺を差し出していた。 「どうも。WIZM企画プロダクション企画部の諸星です。うちのタレントが何か?」 笑顔でも強気な態度の鷹緒に、もはや男性たちも突っ込む隙すらない。 「ああ、本当に会社の人だったんスか……いや、ごめんね。俺らファンだから、これからも応援してるよ」 「ありがとうございます」 沙織がお辞儀をすると、男性たちは去っていった。 「なんだ、ファンだったのか。からまれてるのかと思った」 「半分そうだけど……」 「おまえの言葉で言うと、モテるんだな」 「今のは違うよ……」 と言いかけて、さっき自分が鷹緒に言ったことを後悔した。 「ごめんなさい……」 続けて言った沙織に、鷹緒は苦笑する。 「今日は帰る? うち来る?」 そう言われて、沙織が選ぶのはまだ恥ずかしい。 と、言い出す前に悟ったのか、鷹緒は軽く沙織の肩を抱いて方向転換した。 「じゃあ、うちに来るんでいい?」 「……うん」 いちいち赤くなる沙織が可愛くて、鷹緒は沙織の頭を撫で、先に歩き始める。沙織のファンもいるので、繁華街で大っぴらに手を繋いだりはほとんどしない。 「今日は早く終わったから、まだ早いね」 沙織が言った。今日は鷹緒が休みということもあり、二人には信じられないくらい早い時間だ。 「確かに。いつもこの時間、食事すら出来てないもんな」 「鷹緒さんの明日の予定は?」 「明日は撮影入ってるけど、比較的早く終わると思うよ。おまえは休みなんだっけ?」 「うん。昼間は学校あるけどね」 「久々に学校なんて聞いたな……真面目に通ってんの?」 「失礼だなあ。でもうちは単位さえ取れれば出席日数とかあんまり関係ないんだよね」 そう言う沙織は短期大学に通っているが、芸能系なのであまり縛りはない。 「ふうん。そうか、おまえのが学歴上になったんだなあ」 ふと気付いて呟いた鷹緒に、沙織もその事実を初めて認識した。 「そうだね……でも知ってる通り、うちの短大はあんまり将来とか意味ないよ? お母さんが、とりあえず行っといたほうがいって言うから行ってるだけで……」 「うんまあ、俺は今となっては早めにプロになれたからよかったと思ってるよ。そうでなくとも高校すら行く気なかったから、大学なんてな……」 「もったいないなあ。頭良い学校通ってたのに……大学付属でしょう?」 またも古い話に、鷹緒は苦笑する。 「何年前の話だよ……」 「だって……私は今、学生なんだもん」 「まあね。でもこの間ノート見せてもらったけど、俺でもわかるレベルってひどくねえ?」 「もう。この間見せたのは英語でしょ。英語が得意な鷹緒さんからしてみたら、そりゃあ低レベルかもしれないけど……しょうがないじゃない。それとも馬鹿って言ってる?」 「馬鹿に馬鹿なんて言わないよ」 「もう!」 「あはは。冗談だよ」 車で鷹緒の家へ向かうと、二人はエレベーターの中でやっと手を繋いだ。 「もっと高層マンションだったらなあ」 今よりも高層ならば、もっと長く手を繋いでいられる。沙織のそんな言葉に、鷹緒はそっと微笑む。 「そう? 早く着けば、手繋ぐ以上のこと出来るよ」 「エッチ」 「誰が」 じゃれ合うようにエレベーターを降り、鷹緒は鍵を取り出しながら先を歩き始める。すると突然鷹緒が立ち止まったので、沙織は勢いで鷹緒にぶつかってしまった。 「もう。急に止まらないで……」 沙織がそう言うものの、鷹緒は微動だにせず、やがて口を開いた。 「恵美……」 その言葉に、沙織は鷹緒によって塞がれた向こう側を覗き込む。すると鷹緒の部屋の前では、小さくうずくまる恵美の姿があった。 「パパ!」 立ち上がった恵美は涙に濡れていた。鷹緒は恵美に駆け寄ると、腰を落としてその顔を見つめる。 「どうした? 一人で来たのか?」 恵美は何も言わず、立ち止まったままの沙織を見て、そっと口を開いた。 「……パパ、沙織ちゃんと付き合ってるの?」 それを聞いて、鷹緒は静かに頷く。 「うん、そうだよ……とにかく中に入ろう」 「ううん……いい」 「俺に話があるんじゃないのか?」 「……ちょっと顔見たかっただけなの」 子供心に気を使っているのが痛いほどわかり、鷹緒は恵美の頭を撫でた。 「いいからおいで。いつから待ってたんだ? 冷たくなってるじゃん」 そう言いながら、鷹緒は部屋のドアを開ける。そのまま入っていく恵美の後ろで、沙織は戸惑いながらもそれに続いた。 先日も理恵から恵美がナーバスになっていると聞いていたため、鷹緒も沙織も気が重くなる。だが鷹緒は少し慣れた様子で、恵美の頭をもう一度撫でた。 「腹は減ってる?」 鷹緒の質問に、恵美はそっと頷く。 「減ってる……」 「あ、じゃあ私、なにかごはん作るよ」 すかさず沙織が言ったので、鷹緒は沙織を見つめる。 「いいの?」 「うん。パスタでいいかな、恵美ちゃん。この間買ったから、そんなものしか作れないけど……」 沙織の言葉に、恵美は無言のまま頷いた。 「じゃあすぐ作るからね」 「俺、ちょっと着替えてくる……」 鷹緒はそう言いながら、沙織を横切ると同時に、恵美にわからないように電話する仕草を見せたので、沙織も頷いた。 リビングから鷹緒が出て行ったので、沙織はキッチンの冷蔵庫を覗く。料理をしない鷹緒だけあって食材はないに等しいのだが、先日カレーを作った際に残っていた玉ねぎが残ってるほか、非常食用にパスタのルーも買っておいたので、それを取り出してガスレンジにセットする。 するとそこに恵美が顔を出した。 「恵美ちゃん。すぐ出来るから待っててね」 「……」 口をつぐんで俯く恵美に、沙織は手を止めて、その顔を覗き込んだ。 「どうかした?」 「……沙織ちゃん、本当にパパと付き合ってるの?」 その言葉に、沙織は目を泳がせる。鷹緒は否定しなかったが、目の前にいる恵美は明らかに不安気な表情をしている。 「恵美ちゃん……」 「お願い。パパをとらないで」 恵美自身も無茶なことを言っていると思っているのか、身を縮めてそう言った。 衝撃を受けながらも、沙織は恵美を見つめた。だが恵美は涙をためて沙織を見つめる。 「こんなこと言ってごめんなさい……でも恵美、パパのことが好きだから……」 それを聞いて、沙織は恵美の頭を撫でた。ショックもあるが、可愛らしいとも思う。 「大丈夫だよ……何か鷹緒さんに話があって来たんだよね? ごはん作ったら私は帰るから、鷹緒さんとゆっくりお話してね」 それを聞いて静かに頷くと、恵美はリビングのソファへと戻っていった。 恵美の言う好きがどれほどのものなのかはわからないが、恵美が自分と別れることを望んだら、鷹緒はそれを叶えてしまうような気がして、沙織の心は沈む。だが今、鷹緒と付き合っている自信もあり、恵美がナーバスな時期だと知ってもいたので、今出来ることをしようと沙織は料理を続けた。
鷹緒は寝室で、理恵に電話をかけていた。 『もしもし』 まだ事態を察していないのか、いつも通りのトーンで理恵の声がする。 「諸星ですけど」 『うん、どうしたの?』 「おまえ、まだ会社?」 『ううん、お店。これから接待に付き合わなくちゃいけなくて……』 副社長である理恵は、思うよりも忙しいらしい。 「今、恵美がうちに来てる」 『えっ!』 突然、理恵の大きな声が響いた。 『ど、どうして……?』 「帰ったら部屋の前にいたんだ。まだ何も話してないけど、様子を見て連絡する」 『もうどうして……ごめんね、鷹緒。やっぱりあの子、この間から変だわ……今日も私が遅くなるって知ってて出たのね……』 「とにかくこっちで話しするから、接待続けて家に帰れよ。あとで連絡するから」 『うん……迎えに行くから、すぐ呼んでね』 「いや、俺が送るよ。とにかく心配するな」 そう言って鷹緒は電話を切り、軽く溜息をつくと、リビングへと戻っていった。
鷹緒がリビングに戻ると、ソファに恵美が座り、沙織はキッチンで料理を続けていた。鷹緒は沙織を尻目に、恵美の隣に座る。 「ここに来るの久しぶりだな」 普通の会話から入った鷹緒に、恵美は一気に打ち解けるように明るい笑顔で頷いた。 「うん」 そこに沙織が料理を運んでくる。 「はい、出来ました。簡単なものだから口に合うかわからないけど……」 「ありがとう、沙織ちゃん……」 少しはにかみながらも素直に恵美がそう言ったので、沙織は首を振る。 「ううん。じゃあ私、帰るね……」 沙織の言葉に、鷹緒は沙織を見上げる。だが恵美のことを思えば、今日は帰ってもらったほうがいいと思い、静かに立ち上がった。 食事中の恵美を残して、鷹緒は沙織とともに玄関へと向かっていく。 「悪い……」 そう言った鷹緒に、沙織は優しく微笑んで首を振った。 「いいの。それより早く戻ってあげて? それでちゃんと話聞いてあげてね」 鷹緒は頷くと、沙織にキスをした。 「タクシーで帰れよ」 ズボンのポケットから財布を取り出す鷹緒の手を、沙織が止める。 「ううん、大丈夫。まだ早いし、電車もあるし」 「……じゃあ気を付けて。家に着いたらメールして」 「わかった。じゃあまたね」 「ああ。おやすみ……」 沙織を見送って、鷹緒はリビングへと戻っていく。恵美は黙々と、沙織が作ったスパゲティを食べていた。 「うまい?」 そう尋ねると、恵美は横を向く。 「ちょっとしょっぱい」 わざとそう言う恵美に、鷹緒は苦笑した。そのスパゲティは前に鷹緒も食べている沙織の自信作の一つなので、味は保証済みだ。 鷹緒は恵美の頭を撫でると、小さな音量でテレビをつける。静かな部屋では話しづらいと思ったのである。 「ごちそうさまでした」 やがて恵美はそう言って、自らキッチンへ行き、食器を洗う。母子家庭のためということもあり、躾としてそれが当たり前に出来るのは、仮の父親としても嬉しく感じた。 戻ってきた恵美は、本題に入るのに気が重いのか、ソファに座らずに立ち尽くす。 そんな恵美に、鷹緒は優しく微笑んだ。 「風呂入る? ゲームでもやる?」 「……聞かないの?」 俯く恵美を、鷹緒は微笑んだまま見つめる。 「言いたくなった?」 「……」 「昔からおまえは、ちゃんと話したいことがあったら自分から話してくれるから……さっきは沙織がいたからかもしれないけど、何も言わなかっただろう? 言う気になったんならちゃんと聞くから話して」 そう言われ、恵美は途端に暗い表情を見せて、鷹緒の隣へと座る。 「何から話せばいいのかわかんない……」 恵美の言葉に、鷹緒は頷いた。 「……この間、理恵から電話が来たよ。おまえ、現場から一人で帰ったんだって?」 「……だってママ、恵美のことどうでもよくなっちゃったんだもん……」 そう言いながら、恵美の瞳から涙が溢れる。鷹緒は小さく溜息をつくと、恵美の頭を撫でて抱きしめた。 「なんでそんなこと……」 「だってママ、今日も遅くて……仕事って言ってるけど、きっと豪さんのところに行ってるんだよ……」 恵美を抱きしめながら、鷹緒は目を見開いた。実の父親である豪より鷹緒といた時間のほうが長いのだが、時として自分をパパと呼び、実の父親である豪をさん付けで呼ぶ恵美にも、少なからず戸惑いを感じる。 鷹緒は恵美から離れて、その顔を見つめた。 「どうしてそう思うんだ?」 「……だっていつも、恵美が寝てから会いに行ったりするから……ママは恵美が寝てるって思ってるかもしれないけど、起きてママがいないと不安になる。恵美、捨てられちゃうのかな……」 絶望的な表情を見せる恵美に、鷹緒は何度もその頭を撫でた。 「馬鹿だな……あいつが恵美にそんなことするわけないだろ。おまえがいなくなっただけで、血相変えて俺に電話してくるんだぞ? おまえが本当にいなくなったら、あいつは生きていけないよ」 「……パパは?」 「俺だって心配だよ」 「嘘……パパだって、恵美より沙織ちゃんが大事でしょう?」 まるで小さな彼女でも出来たようで、鷹緒は苦笑する。 「そんなことない……って言いたいけど、比べられないよ。それに誰かと付き合うからって、おまえのことをないがしろにしたりしない。それがわかってるから、沙織だってわざわざここに来たのに帰ったんだろ。おまえはみんなに大事にされてるのがわからない?」 鷹緒が恵美に対して、丁寧ながらも大人に話すように接するのは昔からのことで、恵美はそれをすんなりと受け入れて頷く。 「わかる……」 その言葉に、鷹緒は微笑んだ。 「前にも言ったろ? 俺も恵美が大事だし大切。それは離れてても変わらないよ。だから、何かあったらいつでもおいで。それからこんなふうに、ちゃんと正直に話せよ。理恵に言えないなら、俺が聞くから」 念を押すように、鷹緒はそう言い聞かせる。 「うん……」 「それから、もっと理恵を信じてあげて。今日も仕事っていうのは事実だから。それに夜出るのが嫌だっていうなら、こんなふうに直接話してやれよ。あいつは今、おまえがどう思って何に悩んでるのかわかってないんだから。困らせたいっていうのもわかるけど、馬鹿な親に合わせるくらいのこと、おまえには出来るだろ? こうして俺なんかのところに来てくれるくらいなんだから」 「パパ……大好き」 「俺も大好き」 恵美が抱きついてくるので、鷹緒は恵美の髪を撫でながらぎゅっと抱きしめた。 「恵美、パパと一緒に暮らしたかったな……そしたらママ、豪さんと結婚出来るでしょ。あ、でもパパも沙織ちゃんと……」 急に沈んだ様子の恵美を見て、鷹緒は微笑む。 「恵美が本当にそうしたいって言うなら、俺はいつでも恵美と暮らしてもいいと思ってるし、理恵もそれを知ってるよ。だからおまえが遠慮することは何もない。それにおまえの本当のパパは豪なんだから、おまえがいても結婚出来るよ」 「……」 「理恵をとられるのが嫌?」 率直な鷹緒の言葉に、恵美は静かに頷く。そんな素直に恵美に、鷹緒は笑った。 「そうか……そうだよな」 いつか自分も経験した同じような気持ちで、恵美とは繋がれている気がした。親の再婚というものは、子供にとっては少なからず衝撃であり、理恵と恵美のように仲の良い親子なら尚更だろう。 「ねえ、パパはもうママと結婚出来ないの?」 それを聞いて、鷹緒は苦笑した。 「うーん。それは無理だなあ」 「どうして? 恵美が豪さんの子供だから?」 「いや、恵美がどうこういう話じゃないけど……俺は今、好きな人いるしね」 「沙織ちゃん……?」 「うん。でも何度も言うように、おまえのことも沙織と同じくらい大事。おまえはまだ子供なんだし、今まで通り呼べばいつでも駆けつけるよ」 恵美は口を尖らせて、鷹緒を見上げる。 「なに。なんか不満?」 「だって子供扱いした……」 いつかの沙織と重なるような恵美の言葉に、鷹緒は笑った。 「おまえはまだ子供でしょ?」 「恵美、大きくなったらパパと結婚するんだからね?」 小さい頃からそう言ってくれるのは嬉しいが、そろそろ父親離れすると思っていたので、鷹緒は微笑む。考えてみれば、あと数年で結婚出来る年になるんだなと思うと、それはそれで切ない気もした。 もう一度、鷹緒は恵美を抱きしめる。 「恵美……大丈夫だよ。俺はどこへも行かないから」 記憶にないにしても、恵美は豪に捨てられたという概念を持っている。そのため鷹緒に執着するのだと、鷹緒自身はそう思っていた。事実、離婚する時も、恵美は鷹緒から離れようとはしなかった。 恵美は安心するように、やっと緊張を解いて落ち着いた呼吸を見せる。 「……そろそろ帰ろうか」 落ち着いた様子の恵美を見てそう言った鷹緒に、恵美は大きく首を振った。 「ここに泊まる」 「それはいいけど、じゃあ理恵に電話してちゃんと伝えろよ」 「……」 「それが出来ないなら駄目。死ぬほど心配してるぞ」 それを聞いて、恵美は俯いた。 「一緒についてってやるから。帰ろう?」 続けて鷹緒がそう言うと、恵美は静かに頷いた。鷹緒は恵美の頭を撫でて立ち上がる。 「パパ……最後にもう一回、だっこして?」 恵美が生まれて約十年。もう大きくなっているのだが、忙しい理恵と二人暮らしで、小さい頃から寂しい思いをしてきたのは事実である。それを自分が埋められなかったことも悔いて、鷹緒は恵美を抱き上げた。 「お、結構重くなってるじゃん」 「女の子に向かってひどいよ」 「ハハ。なんで? 大きくなってるのは嬉しいよ」 「チューして?」 恵美に催促され、鷹緒は恵美の額にキスをする。 「恵美。理恵のこと好き?」 「うん」 「じゃあ豪のことも好き?」 「……うん」 その言葉に、鷹緒は優しく微笑む。 「やっと戻ってきたあいつを父親として見るなんて大変かもしれないけど、あいつだってちゃんと考えて帰って来たんだ。あいつのことを恵美がどう思おうが、あいつの努力次第だけど、俺だってフォローしてやれるし、無理しなくていいから、ちゃんと距離を縮めていけよ。本当の父親なんだから」 「パパは……恵美が豪さんの子供だっていうこと、悲しかった?」 直球なまでの質問に、鷹緒は一瞬押し黙るものの、恵美を見ていると笑顔しか出て来ない。 「いや、嬉しかったよ……おまえが生まれた時のこと、よく覚えてる。血の繋がりなんて関係ないほど、愛しくて大事。それは今も変わってないよ」 「よかった。大好きだよ」 「ありがと。じゃあ行こう」 「うん……」 鷹緒は恵美と手を繋いで、車で理恵のマンションへと向かっていった。
「恵美! もう、心配かけて……」 そう言って顔を顰めながらも、理恵は恵美を抱きしめる。 「ごめんなさい、ママ……」 恵美は謝りながら涙を流していた。きっと理恵の顔を見て気が緩んだのだろう。 「ありがとう、鷹緒……」 「いいよ。恵美、もう大丈夫だな?」 理恵の言葉を遮って、鷹緒は恵美の頭を撫でながらそう尋ねる。 「うん。ありがとう……」 いつもの恵美に戻った様子に、鷹緒は微笑みながら首を振った。 「ああ。じゃあまたな。ちゃんと思ったこと言えよ」 「うん」 互いに頷き合い、鷹緒は理恵のマンションを後にした。
沙織は一人部屋に戻ると、シャワーを浴びてラブソファに身を投げ出した。 「パパをとらないで」と言った恵美の言葉が思い出され、沙織の心は沈む。恵美を大事にしている鷹緒ならば、恵美のことを一番に考えるだろう。それが自分と別れることかもしれないと、不安に苛まれる。 その時、携帯電話が鳴った。 「鷹緒さん!」 液晶画面の文字を見ると同時に、沙織は電話に出てそう言った。 『ああ、さっきはごめん。寝てた?』 「ううん、シャワー浴びて出たところ。そっちはどう?」 『うん。今、恵美送ったところ』 「そう。泊まるのかと思ったけど、ちゃんと帰ったんだね」 『ああ。それで今、おまえのマンションの近くまで来てるんだけど……行っていい?』 「う、うん!」 胸が高鳴り、沙織は叫ぶようにそう答える。 『じゃあ事務所の駐車場停めて行くから』 「わかった。待ってるね……」 高まった胸の鼓動を抑えようと、沙織は深呼吸した。鷹緒が家へ来てくれるのは嬉しい反面、何か良くないことを言われるのかと勘ぐってしまう。それでも沙織は、笑顔で迎えようと思った。 それからしばらくして、鷹緒がやってきた。車を置いてきたのはゆっくり出来るからだろうと、沙織は鷹緒用に買っておいたビールをテーブルに置く。 「いらっしゃい。どうぞ座って」 「ああ……」 いろいろあった後で互いに少し緊張しているものの、鷹緒はソファに座って沙織を見つめる。 「さっきはごめん。あと、ありがとう」 優しく微笑む鷹緒に、沙織も少し安心したように微笑んだ。 「ううん。来てくれて嬉しい」 鷹緒は頷き、沙織を抱きしめる。 「……大丈夫?」 沙織を見つめながら鷹緒が言った。そんな鷹緒に、沙織は大きく頷く。鷹緒が自分の不安や不満を察してくれている。そう思うだけで、今まで感じていた不安はどこかへ消えてしまっていた。 「うん、大丈夫」 笑顔でそう言った沙織は、鷹緒にとって大げさでなく輝いて見えた。 鷹緒にもう一度抱きしめられ、沙織はその胸に身体を預ける。 「鷹緒さんは大丈夫?」 「ああ。恵美の家出は初めてじゃないし……」 「そうなの?」 「まあでも、気を付けてやらないとな。ナーバスになってるのは確かだし」 浮かない表情の鷹緒を見て、沙織も顔を曇らせた。 「鷹緒さん……もし恵美ちゃんが望んだら、私と別れる……?」 それを聞いて、鷹緒は沙織を見つめた。 「……恵美に何か言われた?」 「そうじゃないけど……」 「別れないよ。恵美にも言ったけど、比べようがない。どっちも大事。まああいつのが子供の分、何かあった時はおまえのほうに我慢させちゃうことになるかもしれないけど……恵美がどうこう言ったからって、別れたりしないよ。おまえが望むなら考えちゃうけど……」 それを聞いて、沙織は思い切り首を振った。 「違う。そういうことじゃないの……」 沙織の不安を知り、鷹緒は沙織を抱きしめてキスをする。 「これも独占欲かな……」 ぼそっと呟く鷹緒に、沙織は首を傾げた。 「え?」 「いや……誰だって、親しい人が離れたら寂しいものだと思ってさ……」 「……恵美ちゃんのこと?」 「それもそうだし、俺が昔、再婚する親父に感じたことも、今おまえを離したくないっていうのも、そうなのかと思って……」 沙織は考え込むように俯くと、やがて口を開いた。 「独占欲って悪いことだけじゃないと思うし、ある意味仕方のないことじゃないのかな。特に子供の頃はそうだよ。でも私のことは独占欲じゃなくて、ただ愛情って言ってほしいな」 照れながら笑う沙織に、鷹緒も微笑む。 「そうだな。それだけじゃ収まらないくらいだよ」 「鷹緒さん……別れたりこじれたりするのは嫌だけど、恵美ちゃんのこと、これからも大切にしてね」 内心、沙織にも独占欲というものがあって、恵美にも誰にも鷹緒をとられたくないという気持ちはあるのだが、先程の必死な形相の恵美を思い出せば、可哀想だとも思い、大人を装うように沙織はそう言った。 鷹緒は静かに頷くと、沙織に顔を近付ける。沙織もそれを受けるようにして、二人はキスをした。 「あ、そうだ。これも渡しそびれてたんだけどさ」 おもむろに鷹緒はそう言って、投げ出していたバッグの中から、小さめのカメラケースを差し出す。それは一見、カメラケースにも見えないほどのジュエリーが散りばめられた女性用のケースである。 「わあ。可愛い!」 「誕生日にやったカメラ、壊しそうで持ち歩くの怖いとか言ってただろ?」 「じゃあ、私をほったらかした罪滅ぼしじゃないの?」 「なんだよそれ。たった今買ったものじゃなくて、ちゃんと昼間に買ったんだよ」 沙織は嬉しそうにケースを開けて、家宝のようにしまっていた鷹緒からの誕生日プレゼントであるカメラを入れた。 「ぴったり」 「ああ」 「それにしても、こんな可愛いの選んじゃうセンスがあるんだ。なんか意外」 「残念だけど、店員一押しのものだよ。若い女性用って言ったら、勧められたんだ」 「なーんだ。でも嬉しい」 はしゃぐように一気に明るい笑顔になった沙織は、そっと鷹緒にキスをした。それがあまりにも唐突で、鷹緒は驚いて頬を赤く染める。 「おまえ、急になんだよ……」 「だって……お礼?」 「まったく、いつも唐突なやつだな……」 鷹緒は照れ笑いを隠すように、沙織の肩を抱く。 「ありがとう。大切にするね」 「そんな高いもんじゃないんだけどな」 「でも嬉しいから」 そっと頷きながら、鷹緒は真剣な顔で沙織を見つめ、そのままソファに押し倒した。 頬を赤く染めながら、沙織は鷹緒から目を逸らすことが出来ずに身を預ける。プレゼントは嬉しかったが、それがなくても鷹緒にこうして触れられるだけで嬉しいと思える。 幸せを噛みしめるように微笑む沙織に、鷹緒は癒されていた。
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