次の日の朝、初めてコトハは、司佐の部屋に入ることを許された。それは昨日、司佐がメイドの研修期間を終え、正式な司佐付きのメイドになるよう命じたことにある。 コトハの傍らには、昭人がいる。厨房から運び込まれたドリンク類をワゴンに積み、司佐の寝室の隣にある応接間へと向かった。 「ここは応接間。そっちが居間で、奥の部屋が寝室になる。起こす時以外、寝室に入ることはないだろう。ベッドメイクは他の者がやるし……いつも司佐は、起きてからすぐに飲み物を召し上がる。飲みたい物はその日の気分だから、こうして何種類も用意してある」 ワゴンに積まれた飲み物を指して、昭人が説明する。 コトハにとっては初めての司佐への仕事なので、緊張とともにわくわく感もあった。 「はい」 「まずは起こして、飲みたい物を聞く。その後、このワゴンから飲み物を作って渡す。起きて飲む時もあれば、ベッドの上で飲む時もある。飲み物は、まず水、その後コーヒーが最近の主流だけど、時々紅茶とかジュースとか言うから気を付けて。紅茶の場合は、茶葉まで聞くこと。銘柄はここに書いてある。淹れ方は覚えてるな?」 「はい。特訓しましたから」 「じゃあ、よし。とりあえず、これ持って起こしておいで」 「はい!」 覚えることがたくさんあり緊張するが、コトハは寝室の扉を叩く。だが、返事はない。 モーニングコールは返事がなくても入って良いことになっているので、コトハはそっと扉を開けた。 寝室だけでコトハの部屋くらいあろうかという広さの中に、大きなベッドがある。 コトハは昭人に見守られ、ワゴンを引いて中に入ると、ベッドに向かった。 しかし、そこに司佐の姿はない。 「昭人? 司佐様がいらっしゃいません!」 その時、更に奥の部屋から、制服を着た司佐が出てきた。 「ああ、おはよう」 「司佐様! 起きてらしたんですか?」 「うん。今、顔洗ったところ」 「ひどい。初仕事だったのに……」 残念がっているコトハに苦笑し、司佐はベッドに寝そべった。 「じゃあ、起こして」 「起きているではありませんか……」 「いいから起こせよ」 コトハは昭人を見ると、昭人は頷いて促す。コトハも頷き、司佐のベッドに向かった。 「お、おはようございます。司佐様……」 「そんな小さい声じゃ起きない」 まるでからかっているかのように悪戯な目で見つめる司佐に、コトハは顔を赤らめる。未熟ながらも恋人となったはずの司佐を、直視出来ない自分がいた。 「お、おはようございます! 司佐様!」 「それじゃあうるさい」 コトハはいじめられているかのような感覚に陥り、昭人に助けを求めた。 「はあ……いい加減、からかうのはやめろよ、司佐。だいたい、シャツにしわがつくぞ」 見かねて口を出した昭人に、司佐は笑う。 「じゃあ最後のチャンス。コトハ、俺を起こす時は、ここにキスして」 自分の頬を指差す司佐に、職権乱用だと昭人は溜息をついた。 恥ずかしさで困り果てているコトハに痺れを切らし、司佐は笑ってコトハを軽く抱きしめる。 「もういいよ。ゆっくり、な」 「ごめんなさい……」 「コトハ。ここはもういいから、先に食堂で準備しておいてくれ。すぐに行く」 「わかりました。お飲み物は……」 「昭人にやらせる」 「はい……失礼致しました」 うまく起こせなかった自分にしょんぼりし、コトハは司佐の部屋を出ていった。 司佐が起きる上がると、眉を顰めた昭人がいる。 「なんだよ。何か言いたげな顔だな」 笑ってそう言う司佐に、昭人は口を尖らす。 「懲りてないのか? 昨日のこと。職権乱用だ」 「ああ……まだ言ってなかったな。俺たち、晴れて恋人同士」 「え? あ、昨日、コトハの部屋に行った時?」 「そういうこと。辻に止められたりしてたみたいだけど、コトハの本当の気持ちは聞いたよ。だから俺が言わせたわけじゃない。本当だ」 「そう。それならよかったけど……」 ワゴンから水を取り、飲みながら司佐は静かに笑う。 「もっと喜んでくれよ、昭人」 「ああ、喜んでるよ。でも……本当に大丈夫なのか? 許される恋だとは思わないけど……」 昭人の言葉に、司佐は天井を見上げる。 「じゃあまあ、しばらく隠して様子を見るか」 「うん……」 「行くぞ。腹減った」 二人はそのまま、食堂へと向かっていく。 昭人は司佐とコトハの関係を喜んだが、波乱もあるだろうと予想し、一人冷静を保とうと思った。
「コトハ。俺たちの関係は、まだ誰にも秘密な」 車の中で、司佐がコトハに言い聞かせた。 「どうしてですか?」 「うーん。いろいろ面倒だから」 「面倒、なんですか……」 「いや。べつにおまえの存在が面倒なわけじゃないぞ。ただちょっと、まだいろいろ準備が整っていない。とにかく俺がいいって言うまで、誰にも話すな。知っているのは昭人と、今必然的に知ってしまった、運転手のセバスチャンくらいだ」 運転手の坂木はすっかりセバスチャンのあだ名が付き、苦笑する。 「わかりました。誰にも何も言いません」 「ああ。そのうち……公表出来るようにする。あんまり隠し事は好きじゃないんだ」 「はい……」 なんだか司佐が自分を守ってくれているようで、コトハは幸せを感じていた。
「コトハ。今日は部活があるから、おまえは部活見学でもして、どれに入るか決めておけ」 学校に着くと、司佐がそう言った。 「部活、入ってもいいんですか?」 「ああ。というより、うちは部活必修で入らなきゃいけないんだよ。何処か決めてるのか?」 「いいえ……司佐様は、何部なんですか?」 「俺は弓道。昭人は柔道。ほとんどサボってるけど、月にニ、三回は顔を出さないといけないから。おまえも家の業務があるとはいえ、部活動は認めるぞ」 「ありがとうございます。考えておきます」 「うん。じゃあ、昼に食堂でな」 一年生の昇降口にコトハを置いて、司佐と昭人は去って行った。 「部活動か……」 コトハは教室に向かいながら、部活のことを考える。中学の時もメイド業務があったため、帰宅部で過ごした。司佐はああ言ってくれたが、少しでも山田家に恩返ししなければと思っていた。
その日の放課後、コトハは一人で部活見学をした。校舎内には様々な文化部が活動しており、外へ出れば運動部が汗を流している。 ふと柔道場に差し掛かり、コトハは見なれた顔を発見した。昭人である。 昭人は普段掛けている眼鏡を外し、真剣な眼差しで正座している。やがて始まった試合では、あっという間に勝利を得ていた。 そこに、一戦を終えたばかりの昭人が、窓から顔を出しているコトハに気付き、近付いた。 「コトハ? こんなところまで部活見学か?」 「はい。昭人、カッコ良かったです」 正直な感想を述べたコトハに、昭人は苦笑する。 「そんな言葉、司佐が妬くぞ」 「そ、そういうものですか?」 「たぶんね。ここまで来たなら、司佐の姿も見て行けよ。隣が弓道場だから」 「はい、ぜひ……昭人は、弓道やらないんですか?」 「弓道で司佐の身が守れるならいいけどね。どうせやるならこっちの方がいいと思ったんだ。司佐に何かあっても、すぐに駆けつけられる」 昭人の忠誠心に、コトハは感心した。 「私も……柔道やろうかな」 その言葉を聞いて、昭人は笑ってコトハの頭を撫でる。 「護身術は俺に任せて、おまえは好きな部活に入れ。こんな汗臭いところ、司佐に嫌われるぞ。それに、柔道は僕の好きな部活だ」 頼もしいまでの昭人に、コトハは頷く。 「はい。じゃあ、司佐様のところへ行ってきます」 「うん」 昭人に見送られ、コトハは隣の建物を覗く。 広いその建物には、袴姿の司佐がいる。いつもと違って真剣な眼差しで的を射抜く姿が、昭人と同じく格好が良かった。 「あれ、コトハちゃんじゃん?」 そこに現れたのは、司佐の従兄弟だという、貴一であった。 「貴一様」 「覚えててくれたの? 嬉しいなあ。でも、様付けはよしてくれる? 司佐じゃないんだから」 「じゃあ、貴一さん?」 「ハイハイ、なんですか? コトハちゃん」 「貴一さんも、弓道部なんですか?」 「いや、僕はバレー部だから。でも珍しく司佐が部活に来てるっていうからさ、殴り込みっつーか、果たし合いっつーか?」 軽い様子の貴一に腕を掴まれ、コトハは弓道場の中へと連れて行かれた。 「たのもう!」 突然響いた貴一の声に、弓道場内の全員がこちらを向く。 「貴一?」 司佐は怪訝な顔で貴一を見つめ、その手に掴まれているコトハを見る。 「司佐。勝負だ」 「またか……それより、うちのメイドに触るなと言ってるだろう」 「こりゃ、失礼」 貴一は掴んでいたコトハの手を離すと、司佐の前に立った。 「おまえ、一度俺を負かしたからって、いい気になるなよ」 司佐が言う。 「いい気になんかなってないよ。だって実力だし?」 「貴様……」 「ま、いくら幽霊部員のおまえでも? 部員でもない僕に負けちゃうとか? そりゃプライドが許さないと思うけどぉ?」 うざいまでに語り続ける貴一。 そのきっかけは、以前一度、遊びで弓道場を訪れた貴一が、司佐よりも好成績を残したことにある。 「前のはビギナーズラックだ。一度勝ったくらいで、いい気にならないでもらおうか」 そう言いながらも、受けて立って司佐は貴一に弓を差し出す。 「なに言ってんの。僕だって一応、良家のぼっちゃん。弓道は子供の頃からやってるんだよね」 「そんなことは知ってる。さっさとやれ」 「司佐。これは真剣勝負だ」 「わかってるよ」 「じゃあ僕が勝ったら、このコトハを僕にくれ!」 「はあぁぁぁ?!」 驚いたのは司佐だけではない。コトハもまた、目を大きくして口を塞いだ。
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