夜の山田家の庭で、司佐と昭人は固まっていた。やがて、司佐の体が震え出す。 「イ……イヤだと――――――?!」 「司佐!」 今にも殴りかかりそうなほど、怒りに似た震えを起こしている司佐を、慌てて昭人が止める。 「離せ、昭人! 殴りゃしない」 そう言った司佐に、昭人は静かに手を離した。 「よ、よし、コトハ。イヤな理由を聞かせてもらおうか。まだ龍ちゃんって男が忘れらないのか?」 すっかり意固地になっている司佐は、そう言ってコトハを見つめる。 「違います」 「じゃあ、なんだ」 「だって……急に結婚だなんて。私、司佐様のことは好きですし、お慕いしています。でも、結婚となると話は別です」 「どう別なんだ。おまえに俺は不釣り合いか?」 「……どちらかといえば」 コトハはたじろきもせず、正直に答えた。 「貴様……俺への恩を忘れたか!」 「でも、結婚は一生を決めることです。そういうことでは、私、司佐様のことを何も知らないですし、子供の頃から男性の理想像があるんです」 「理想像? なんだ、それは」 「働き者で、爽やかな人です」 それを聞いて、司佐と昭人は一瞬止まった。どちらも司佐とは程遠い。 「悪かったな、働いたことなくて、爽やか系でもなくて!」 「いえ、あの……」 「もう黙れ、コトハ! 帰るぞ」 その時、見かねて昭人がコトハの腕を掴んだ。 「待て、昭人。まだ話は終わっちゃいない」 「でも……」 「コトハ! 今から命ずる。おまえは俺と付き合え! これは決定。命令だ!」 絶対的な命令に、コトハは驚き、やっと恐怖さえ感じていた。 「命令……」 「そうだ、絶対命令だ」 「ひ、ひどすぎます! そんな命令……私は、司佐様にきちんとお仕えしたいんです!」 「そうだ、仕えろ。命令は絶対だ。わかったら、とっとと部屋へ帰れ!」 恐ろしい顔で命令した司佐に恐怖し、コトハは涙を堪え、小走りで屋敷へと入っていった。 「あいつ、俺に挨拶もなしに帰りやがって……メイド失格だな」 「司佐!」 その時、一部始終を見守っていた昭人が、真剣な表情で司佐を見つめる。 「あんまりだ、司佐! コトハをなんだと思ってるんだ。あの子は司佐の所有物なわけじゃない。あの子にだって人権はあるんだぞ。勘違いするな!」 いつになく強い口調の昭人に、司佐の冷たい目が貫く。 「おまえこそ勘違いするな。俺にそんな口を利いていいのか」 「……不愉快にさせたなら謝るよ。でも、あんまりだよ。僕はあの子と同じ立場だから……ショックだ」 「……俺のプライドが許さなかったんだ」 「わかるけど……」 気まずい空気になりながらも、二人は互いの気持ちがわかっていた。 その後、二人は静かに部屋へと戻っていった。
部屋に戻ると、司佐はバルコニーに顔を出す。夜風が冷静にさせてくれる気がした。 コトハには酷いことを言ったとも思うが、コトハもあんな言い方はないと、プライドを傷付けられた自分もいる。 司佐は隣の隣であるコトハの部屋を見て、ふと思い立ち、立ち上がった。
コトハは、部屋で泣いていた。 憧れていた司佐の恐ろしいまでに冷たい瞳に、恐怖を感じたのである。また、主人である司佐に逆らった自分を許せなくも思う。それでも、正直に答えたかった。 ドン、ドン……と、突然、窓が叩かれ、コトハは驚いて立ち上がる。 恐る恐る窓に近付くと、バルコニーには司佐がいた。 「司佐様!」 コトハは驚いて、泣いていたことも忘れ、バルコニーへ続くドアを開けた。 「さっきは、すまなかった――」 プライドを破り捨て、司佐が言う。 元気のない司佐に、コトハは首を振ると、そのまま司佐を部屋に招き入れる。 「入ってください。中に……」 「ああ。その……謝りに来ただけだから」 「いいえ。私も謝らなければ……本当に、申し訳ございませんでした!」 その場に土下座して言うコトハに、司佐は苦笑した。 「土下座はやめてくれ。俺たちの関係が、遠いものだと認識させられる」 司佐は椅子に座り、コトハに手を差し伸べる。 コトハはその手を取ると、申し訳なさそうに顔を伏せる。 「謝らせてください。私、司佐様付きのメイドとして、司佐様のご質問には包み隠さず答えるつもりでした。でも、結果的に怒らせてしまって……申し訳ありませんでした」 「もういいって。これからも、正直に話してくれ。俺が悪かったんだ。ちょっと急ぎ過ぎた」 「……本当は、嬉しかったんですよ?」 その時、コトハがそう言ったので、司佐は驚いて顔を上げた。 「え?」 「私、今は司佐様にお仕えすることしか考えられません。だから、恋愛とかそういうことではなく、きちんとお仕えしなければ、一人前ではないと思いました。それに、辻さんからも、くれぐれも女として司佐様に近付くなと、仰せつかっております」 「辻のやつ……余計なことを」 軽く舌打ちをし、司佐は苦笑した。 「でも、よかった。そういうことか。俺は嫌われてはないんだな?」 司佐の言葉に、コトハはいつものように大きく頷く。 「もちろんです!」 「他に好きな男もいないんだな?」 「いません」 「これからも、俺に仕える気持は変わらないな?」 「はい、変わりません」 そう言ったコトハを、司佐は優しく抱きしめた。 コトハは司佐の腕の中で固まり、赤くなる。 「つ、司佐様……?」 「合格だ。もう研修期間は終えて、正式に俺専属のメイドになれ」 「……はい!」 嬉しさに微笑み、コトハは涙を流す。 「なんだ、泣いてるのか?」 「いえ……嬉し涙です。私、小さい頃から司佐様にお仕えするのだと頑張ってきました。今こうしていることが、夢みたいで嬉しいんです。だからこれからも、司佐様にきちんとお仕えしたいんです」 「……コトハ。俺は恋愛が絡んだからって、メイドの業務が疎かになるとは思ってないよ。逆にもっと互いを知ることが出来るんじゃないのか?」 司佐の言葉に、コトハはゆっくりと頷く。 「そうかもしれません……」 「じゃあ、辻が言ったこととか、俺に仕えるとか、そういうことは今は忘れて、コトハの正直な気持ちを教えて?」 それを聞いて、コトハは真っ赤になり、未だ腰の辺りを抱きとめたままの司佐を、じっくりと見つめる。 「好きです。司佐様のこと……」 司佐は満足げに笑い、コトハをもう一度抱きしめる。 「じゃあ、俺たち付き合えるな?」 「……それは、命令ですか?」 「いいや。おまえの意思で決めろ。だけど、業務とかそういう裏事情はなしで」 至近距離にある司佐の顔を見つめ、コトハは微笑んだ。 「よろしくお願いします!」 「よし、決まりだ」 それは、司佐にとってもコトハにとっても、幸せが包んだ瞬間だった。
「じゃあ、帰るとするか」 それから程なくして、司佐はそう言って立ち上がる。そして、入ってきたバルコニーへと向かった。 「何処から来たんですか? 司佐様」 「ん? あそこ」 コトハの問いかけに、司佐は遥か向こうの自分の部屋を指差す。だが、隣の部屋のバルコニーは、三メートル以上空いている。 「子供の頃からやってる遊びだから心配するな」 そう言いながら、司佐は壁に少し出た縁に足をかける。 二階とはいえ天井が高いので、普通の二階より高く、落ちればひとたまりもない。 「キャ……」 主の危険に、思わずコトハは声に出す。だが司佐は顔色一つ変えず、隣のバルコニーへと向かった。 「司佐!」 その時、異常を察知した昭人が、隣の部屋から出てきた。 「おっと、危ね」 最後にバランスを崩した司佐が、間一髪で昭人の部屋のバルコニーへと降り立った。 「何やってるんだ、司佐!」 「ヘヘ。懐かしいよな。この遊び」 「もう子供の頃じゃないぞ」 呆れ顔の昭人に、司佐は不敵に笑う。 「子供に出来たことが、今出来ないわけがない。それに、ここから来たから仕方ない。ドアには鍵をかけちゃったから」 「司佐。万一のことがあった場合、怒られるのは僕なんだぞ?」 「大丈夫だって。昔より背が伸びた分、万が一バランスを崩したって、今みたいにギリギリ飛び移れるからな」 「まったく! 勘弁してくれよ」 そう言いながらも、昭人は部屋に戻り、四角いテーブルの天板を持って来ると、それを司佐の部屋のバルコニーへとかける。 「……折れないだろうな」 いまいち信用していないように、司佐は昭人を見つめる。 「こんな夜に、壁の縁を伝うよりはよっぽど安全だ。大丈夫だよ、分厚いんだから」 「そうか」 司佐は足場となった天板の強度を叩いて測り、そして足をかける。 「じゃあ、おやすみ。コトハ、昭人」 天板はしなりながらも司佐の重みを受け止め、司佐は無事に自分の部屋へと戻った。 「じゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい」 それぞれが興奮冷めやらぬ中、三人は自分の部屋へと入っていくのだった。
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