「泣いてても駄目だ、トコ。好きならちゃんと言わなきゃ、伝わらないことだってあるんだよ」 放課後の帰り道、龍太郎がそう言った。 「でも……」 「でもじゃないよ。コトハは人のことばかり考えていて、それが人を振り回すっていうことがわからないのか? どちらも譲り合っていたら、本当にすれ違っていってしまうんだよ。それでもいいの?」 龍太郎の言葉に、コトハは首を振る。 「でも怖いの。私には自信がない。良家に籍を入れてもらっても、私はずっとメイドになるために生きてきたから、今更、血筋がどうのなんていったって、本質的には変わらない。釣り合うはずないわ」 「トコ……」 「それなのに一緒にいたいなんて、最低なのはわかってる。でも、自分が自分でなくなってしまいそうで怖いの……司佐様のことを考えると、嫉妬とか不安とか、そういう真っ黒な部分でいっぱいになってしまいそうで……だから私は逃げたの。司佐様を傷つけて、自分が綺麗でいたいから逃げたのよ。そんな私に、司佐様のことで悲しむ権利なんかないのに……指輪も返さなきゃいけないのに……」 悲しみに暮れるコトハに、龍太郎は頷く。 「真っ黒な部分なんて、人はみんな持ってると思う……僕だって、トコが妹だってわかっても好きだし、誰にも渡したくないなんて思ったりもする。でも僕は、嫌なことや不安な気持ちもちゃんと言うよ。トコも望むことは口に出すべきだ。相手の都合も考えられないくらい、自分の我を通すことも大事なことだよ」 龍太郎の助言を受けながらも、コトハは悩んで家へと帰っていった。 それからすぐに、司佐へ手紙を書くことにした。封筒には指輪も添える。これで本当に縁がなくなるはずだが、最後の望みをかけて送ることにした。
コトハの手紙は、沢木家の使用人を通じて、その日のうちに司佐のもとへ届けられた。 「司佐。コトハからの手紙だって!」 昭人の言葉に、司佐は奪うようにしてその手紙を受け取った。 だが、開けた途端に指輪が転げ落ち、司佐は表情を変える。 「もう、これで本当に終わりなんだな……」 「司佐……」 その時、屋敷全体がざわつくような、異様な動きが二人にも伝わる。 「司佐様! お爺様が帰っていらっしゃるって!」 桃子の言葉に、司佐は昭人を見つめる。そして一同は、大急ぎで玄関へと走っていった。
玄関ホールでは、すでに司佐の両親までもが揃っていた。 巨大な財閥である山田家当主の司佐の祖父は、一年のほとんどを地方の別荘でのんびりと暮らしながら仕事をこなしているはずだが、帰って来た時は全員でお出迎えするのが恒例である。 「ただいま、諸君」 玄関のドアが開き、そう言って入って来たのは、足取り軽やかでサングラスなどファンキーな服装をした老人である。その見た目から、老人と言うには若すぎる出で立ちだ。 「おかえりなさい。お父さん」 司佐の父親がそう言った。 「ああ。おまえ、まだ日本にいたのか。珍しいな」 すかさず祖父が言い返す。 「ハハハ。僕もたまには日本でゆっくり……」 「何を言ってる。働き盛りだろうが。働かざるもの食うべからず。私の財力でなく、おまえの力でこの家を大きくしなければ」 「は、はい」 目つきの変わった祖父に、司佐の父親もたじたじだ。 そんな祖父の目が、司佐を貫く。 「なんだ、司佐。しばらく見ないうちに、シケた顔してるなあ」 いきなりそう言われ、司佐は苦笑する。 「たまたまそういう時期に帰ってくるからだよ。お爺様」 祖父の存在は司佐にとっても脅威ではあるが、こうして強気な態度でいったほうが、祖父の受けが良いということもわかっている。事実、司佐は後の第一後継者としてすでに決められている上に、孫たちの中で一番気に入られている存在である。 「ほう、そうか。タイミングを間違ったのは私のほうらしいな。とりあえず、司佐。部屋に連れて行ってくれ」 「はい」 祖父に指名され、司佐は祖父とともに祖父の部屋へと向かっていく。こうなれば、しばらくは二人きりでいなければならない。 司佐の父親は、祖父に指名されないでほっとした様子で見送った。
「それで? おまえのシケた顔の原因はなんだ」 祖父の部屋に入るなり、祖父は司佐にそう尋ねた。 「え……言わなきゃいけない?」 「当たり前だ。おまえは私の後継者だぞ。おまえがどれだけ成長しているかも聞きたい。近況を言ってみろ」 祖父の口調は司佐そのもので、司佐が後継者として決められたのは、もうずいぶん前のことだ。司佐の父親よりも素質を見込まれ、自分に似ている司佐を可愛がっている。 「……失恋したんだ」 「失恋?」 「たかが失恋でシケた顔してるのかって言うと思うけど、俺としては本気だったから……ちょっとショックなだけで、すぐに立ち直るから心配しないで」 それを聞いて、祖父は一瞬押し黙ると、大きく口を開いて笑った。 「ハッハッハッ! そうか、おまえも本当の恋をする年頃になったのか」 「お爺様……馬鹿にしてる?」 「いいや。恋はいいことだぞ、司佐。それに引きずられるような馬鹿な後継者とは思っていないからな。でも、おまえがフラれるとはな。相手はどこのお嬢さんだ?」 祖父の目は少年の目のように、キラキラと輝いている。 「どこって……うーん」 「なんだ、言えないような家柄の娘なのか」 「……少なくとも、お父さんたちは反対したよ。うちのメイドだったから」 「ほう。ますます面白い! 私も昔はよくメイドに手を出したが……いやいや、でも本気の恋愛はなかったかな」 「俺は本気だったんだよ!」 そう言って沈む司佐に、祖父は優しい眼差しを向けた。 「そうか、本気だったのか……まあべつに、私はメイドだからって反対しないけどな」 祖父の言葉に、司佐は顔を上げた。 「え、いいの? 父さんの時は反対したって……」 「息子と孫は違う。それに時代も変わったしな。べつに血統書なんかいらないよ。血筋ばかりを気にしていたら、似通った人間しか作られない。それに、人類みな兄弟! 先祖はみんな同じ猿だ」 豪快に笑ってそう言った祖父は、司佐にとって誇らしく頼もしく見える。 「ありがとう……でも、ようやく諦める決心がついたから。彼女には好きな人がいるんだ」 龍太郎のことを思い出し、司佐は苦笑する。 そんな司佐の頬を、祖父が叩いた。 「馬鹿だな、司佐は。おまえは肝心なところで引く癖が昔からある。どうせその子に直接聞いたわけでもないんだろう。どうせなら、きちんとフラれて来い。ちゃんとした失恋すら経験したことがないのなら、この家を継ぐなんて無理な話だ」 祖父の言葉に背中を押されたように、司佐の中の迷いが一気に晴れる。 「……お爺様。俺、ちょっと出てきていいかな?」 「ああ。頑張れよ」 格好の良い送り方で、祖父は司佐を見送った。 司佐はそのまま、玄関へと向かっていく。 「すぐに車の用意を……いや、いい。歩いて行く。少し出てくる」 「司佐ぼっちゃま、どちらへ……」 「沢木家だ。コトハに会いに行ってくる」 司佐はそう言い残すと、家を飛び出していった。
コトハは自宅で、沢木と一対一で話をしていた。 「本気で言っているのかい?」 沢木は、コトハの申し出に焦っているようだ。 だが、コトハは顔色を変えず、真っ直ぐに沢木を見つめる。 「はい。私、メイドの勉強がしたいんです。そしてもし……もしまた司佐様が雇ってくださるなら、もう二度と離れません」 コトハはもう一度山田家に戻り、メイドとして暮らす決意を固めたのである。 「しかし、君は僕の娘なんだよ。そりゃあ今更この世界に馴染むのは、君にとっては苦痛なことかもしれない。だが、君がそんな下働きとして生きなければならないのなら反対するね」 「でも、私の母はそうしてきました。お婆ちゃんも……そして、二人は私をメイドとして育てることも望んでいました。きっとお父様がもっと早くに私を引き取ろうとしてくださっても、同じようにメイドとして育てることを望んだと思うのです」 いつになく、コトハは自信に満ちている。 「それが……コトハが望むことなのか?」 「はい。私の長年の夢であり、使命であり、幸せです」 それを聞いて、沢木は苦笑した。 「まるで君のお母さんと話しているようだよ。君のお母さんは、そういうふうにいつも凛としていた……そこまで言われたんだ。娘の望みや幸せを叶えてあげたいというのが親心だよ。君とほとんど一緒にいられなかった分、孝行させてくれ」 「じゃあ……」 「ああ。山田家には話しておこう。コトハの気が済むようにすればいい。でも、週に一度は僕に顔を見せてくれ」 「わかりました。ありがとうございます、お父様!」 コトハの笑顔が本物だったので、沢木も優しく微笑んだ。 その時、使用人がやって来た。 「コトハ様。山田司佐様がお見えです」 それを聞いて、コトハは沢木を見つめる。沢木は優しく笑って頷くと、コトハは慌てて部屋を出て行った。
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