「コトハと一緒に住みたいと思っている」 沢木の言葉に、一同は驚いて声も出ない。 コトハに至っては、目の前にいる男性が自分の父親ということが、未だ信じられない思いでいた。 驚いている一同に、沢木は静かに笑う。 「コトハは僕のことを知らないんだね。最後まで、葉月もおばあさんも約束を守ってくれたのか」 母親の名前が出たので、コトハは沢木を見つめ、口を開く。 「あ、あなたが、本当に私のお父さんなのですか?」 「そうだよ。でも僕は、許されない罪を犯した。僕には当時妊娠中の妻もいたのに、君のお母さんを愛してしまったから……でも君が生まれ、山田家の別荘で過ごす時だけは、僕はしがらみも何もないただの男でいられた。君が生まれたことも、本当に喜んだんだよ」 沢木はそう言って、コトハの頭を撫でる。 「そうだよ、コトハ。彼の言っていることは本当だ。軽井沢の別荘にいる時だけが、沢木がコトハの父親でいられる時だった。ずっといるわけにもいかず、また小桜家の強い意向により、コトハは今まで通り、山田家のメイドとして生きるよう決めてきたんだ」 司佐の父親も答える。コトハは徐々に事態を理解し、頷いた。 「そうだったんですか……」 「でも、僕の家ではすでにバレていたのも事実だ。僕は妻と子供たちを残して、海外での仕事を命じられたんだ。何ヶ国か回り、仕事だけにのめり込んできた矢先、葉月の死を知らされた。もともと病弱な人だったから無念だったけど、親を失くしたコトハのことは気がかりでならず、帰国しようとしたんだ」 沢木は遠い目で過去を語る。その話は、司佐の父親ですらも初耳のことである。 「でも、妻に対してのバチが当たったのかな……ハイウェイで車の事故に遭い、そのまま深い谷底に落とされたんだ。捜索の手段もなかったらしい」 「そうだ、そこまでは私も知っている。だが、おまえが生きていたということは……」 司佐の父親が、間に入ってそう言った。沢木は静かに笑う。 「僕はね、事故の弾みで車から放り出されていたんだ。あまり怪我もなくてね」 「なんだって……」 「でも、夜中のハイウェイはあまり車も通らず、僕が発見されることはなかった。僕は何も考えられず、ただただハイウェイの側道を歩き続けた。事故のショックで、記憶を失くしたままね……」 「き、記憶喪失……?」 一同はまたも驚いた。沢木は話を続ける。 「ハハ……間抜けな話だろ? 僕は結局、街に辿りついたものの、所持品は車に積みっぱなしで何もない。財布すらなくて、自分を証明する物なんて一つもなかった。だけど、僕は生きているし動けるし、現地の言葉も話せれば、生活能力もあった」 「それで、今まで……?」 「そう。家のしがらみからも脱したかったんだと思う。僕はまったく家族のことも誰のことも思い出さず、十年が過ぎた」 「十年……そうだ。おまえが死んだと聞いてから、十年が経つ」 司佐の父親も興奮したように、沢木の話に食いついている。 「でもある日、公園で休んでいたら、目の前で遊んでいる母親と娘を見て、思い出したんだ。僕には娘がいたはずだってね。そして、一つの名前を思い出した。コ、ト、ハ……」 それを聞いて、コトハは顔を上げる。 「それからというもの、記憶は一気に蘇った。僕はコトハのもとに帰らなきゃいけないってね」 コトハは涙を流した。この人は、本当に自分の父親だと思った。 「それが一ヶ月程前の話だ。僕は国際電話で自宅に連絡した。反応は君たちと同じ。理解されるまで時間がかかった。でもあれだけ厳しかった親が泣いて喜んで、僕を迎えにまで来てくれた。僕は帰国を許され、家の整理もだいぶついたから、こうしてここに挨拶をしに来たんだ。コトハがここにいるとも聞いたからね」 「なんだよ。そういうことなら、もっと早くに連絡してくれればよかったのに!」 「そうも思ったけど、本当にバタバタしてたし、電話じゃうまく説明出来ないだろ? こうして話したかったんだ」 司佐の父親に、沢木はそう答える。 「いや、いいんだ。無事で帰って来てくれただけで嬉しい。本当によかった……」 父親もまた、感無量といった様子だ。 沢木は寂しそうに微笑む。 「だけど、本当に浦島太郎だよ。僕は戸籍上でも死んだものとされていたし、妻はもう再婚していた。家は跡継ぎが帰ってきたから喜んでいたけどね。おかでげ大手を振って、コトハを引き取れるというわけだ。妻との間にいる子供たちは、妻と再婚相手が育てているし……」 それを聞いて、コトハは目を泳がせた。 「突然、死んだはずの父親が生きていて、それが僕っていうことが受け入れ難いのはわかってるよ。でも、僕らは事実、実の親子なんだ。一緒に住みたいというのが当たり前のことだろ? 葉月の分も、これから一緒に生きていきたいんだ」 優しく語りかける沢木に、コトハは俯いた。 「私も……お父さんが生きていてくれたことは、本当に嬉しいです。私を引き取りたいと言ってくださったことも……でも、私は山田様に仕えるようにと生きてきました。この家に仕えることは、私の生きがいなんです」 コトハの答えに、一同は驚く。 「でもコトハ。急で無理もないが、沢木の家柄は間違いなく良家だ。君は本当は、良家のお嬢様なんだぞ。今までは、沢木の家庭の事情があって受け入れられることはなかったが、すでに奥さんも再婚されているというし、気兼ねなく沢木と一緒に暮らせる。もうメイドなんかしなくていいんだよ」 司佐の父親もそう言った。 「でも、私は今日までメイドになるために生きてきました。私のお母さんもお婆ちゃんも、それを望んできたはずです。今になってそんなことを言われたら、私の生きがいがなくなってしまいます」 コトハの言いたいこともわかり、一同は顔を見合わせる。 「まあ急に言われて出る答えもないだろう。沢木、今日はうちに泊まれるか?」 「ああ、でも明日の早朝には帰らねばならない。まだ家がゴタゴタしていてね」 「じゃあ、とりあえずコトハには一晩考えてもらって、昔話でもしようじゃないか」 「そうしよう」 司佐の父親と沢木は、もうすっかり元通りになったようで、笑い合っている。 そんな中で、コトハと司佐は客間を出て行った。 「……願ってもない話じゃないか」 出たところで、司佐がそう言った。 「え?」 「断る理由は一つもない。父親と一緒に暮らしたくないのか?」 「それは……もっとたくさんのことを知りたいとは思います。あの方がお父さんだとまだ実感はありませんが、私のことを考えてくれていることで、お父さんなのだと思っています」 「だったら考えるまでもない。今すぐ返事をして来いよ」 司佐はそう言ったところで、コトハが涙をいっぱい溜めているのに気付いた。 「コトハ……?」 「司佐様は……私がいなくなっても、全然大丈夫なんですね。それとも本当に、私がお邪魔ですか?」 必死に微笑みながら、コトハは涙を溢れさせる。 「そういうわけじゃない。でも……ここにいる理由はないだろ」 司佐の言葉に、コトハは涙を拭う。 「わかりました。今までありがとうございました……」 そう言って、コトハは走り去っていった。 「なんだよ。自分から距離を置きたいって言ったくせに……それに、本当にここにいる理由なんかなくなった。ここでメイドとして生きるより、肉親と暮らしたほうがいいに決まってる」 司佐は肩を落として、自分の部屋へと戻っていった。
客間では、早朝まで酒を飲み交わしていた司佐の父親と沢木が、未だ起きている。 コトハはそっと客間を訪ねると、深々と頭を下げた。 「私は、今も山田様にお仕えする夢を諦めていません。ですが、私もお父さんという人のことが知りたいです。どうか、よろしくお願いします……!」 沢木はコトハを抱きしめると、静かに立ち上がる。 「司佐君たちへの挨拶は、今度でいいか?」 「はい……きっと会ったら、何も言えなくなってしまいます」 「そうか。じゃあ、今日のところは退散させてもらおう。また今度ゆっくり話そう、山田。大事なコトハを今日まで預かってくれて、本当にありがとう」 沢木は父親の表情をして司佐の父親にそう言うと、コトハを連れて山田邸を後にした。
コトハが去ったことを司佐が知ったのは、その日の昼頃のことだ。遅く起きた司佐だが、昭人の報告に驚きもしない。 「そうか……」 「いいのか? 司佐」 「いいも悪いも、コトハが決めることだ。俺がコトハでも、そうするよ」 司佐の言葉に、昭人は顔を顰める。 「司佐……このままちゃんと話し合わずに離れたら、本当に別れることになるぞ?」 「もういいんだ。もう疲れた。コトハとは……」 「なに言ってるんだよ」 「あいつにはあいつなりの考えもプライドもあるし、ちゃんと自分っていうものを持ってる。だから距離を置きたいって言ったんだろ。このまま自然消滅……というより、俺たちはまだ始まってもいなかったのかもしれない」 「司佐……」 「桃子を好きになるほうが、何百倍も楽なことだよ」 すっかりコトハのことを諦めようとしている司佐に、昭人はもう何も言えなくなっていた。
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