放課後、龍太郎は帰ろうとして立ち上がると同時に、隣の席を見つめた。 女生徒たちの話で、コトハは体調不良から保健室にいると聞いたが、机にはコトハの鞄が掛けられ、未だ帰ってくる気配がない。 「楠君。一緒に帰ろう」 そう言ったのは、数人の女子たちだ。 「あ、ごめん。ちょっと用があるから……」 女子たちに掴まっては逃げられない。龍太郎は、急いで教室を出て行った。 「大丈夫かな、トコのやつ……鞄持ってきてやりたかったけど、ああも女子たちに囲まれちゃ無理だよな……」 そう言って、龍太郎は保健室のドアを開ける。 「どうしたの?」 保険医の先生が、龍太郎にそう言った。 「いえ。ここで休んでる子の様子見に来たんですけど」 「え? 今は誰もいないけど……」 「そうなんですか? 一年の小桜って子が来ませんでした?」 「ううん。来てないわよ」 龍太郎は首を傾げてベッドを覗く。だが、本当に誰もいないようだ。 「じゃあ、なんか勘違いしてたみたいです。すみませんでした」 そう言って、龍太郎は保健室を出て行った。 「入れ違いかな……」 そう呟きながらも、今日は用事があったため、コトハのことは気になりつつ、そのまま帰ることにした。
コトハは、体育館の隣にあるトイレで一人、掃除をしていた。体は全身ずぶ濡れで、目からは涙が溢れ出す。 朝、コトハは女子たちに、この場所へ連れて来られた。叩かれるような暴力はなかったが、代わりに大量の水を浴びせられ、トイレ掃除の名目で、放課後までここから出るなと約束させられたのだ。 このトイレはほとんど使われておらず、コトハの存在に気付く者はいなかった。 「コートハちゃん」 放課後。そんな声に、コトハはビクッと立ち上がった。 「ちゃんといたんだ。エライ、エライ」 もう反論する気も起らず、コトハは俯く。 「今日一日、反省した? これからは、司佐様や楠君に近付かないこと。じゃなきゃ、本気出して二度と学校に来られないようにしてやるから」 女生徒の言葉に、コトハは静かに口を開く。 「どうしてこんなことを……? 何かあるなら、口で言えばわかることなのに……」 コトハはそう言った。だが女生徒の一人が顔色を変え、コトハの髪を掴む。 「口で言ってもわかんないからやってんでしょ。頭悪いんじゃないの?」 「で、でも、司佐様とは話もしていません」 「楠君は? 有森兄弟とも仲がいいし。本当、何様のつもりよ」 その時、やっと乾いた体に、またも水が浴びせられた。何度も何度も、バケツやホースの水が襲いかかる。 「あーあ。また水浸し。もう一度ちゃんと掃除しておきなさいよ。それから、もう二度と司佐様たちに近付かないこと。あんたが司佐様と話してないって言ったって、桃子ちゃんはあんたの存在すら不快に思ってるんだから。うちらもそう。イケメンみんな取られて、いい気してるのあんただけでしょ」 女生徒たちはそう言って、その場を出て行った。 コトハはしばらくその場にいた。ただ、なぜこんな仕打ちを受けるのかわからず、放心状態でいたことも確かである。
「コトハはまだ帰らないんですか?」 夜、昭人が辻にそう尋ねる。 昭人たちが帰ってから一時間も経つが、未だコトハは帰っていないようだ。 「どうした? 昭人」 そこに、二階から降りてきた司佐が尋ねた。 昭人は言いにくそうに、溜息をつく。 「いや。なんでも……」 「コトハがどうだと聞こえたけど?」 言い逃れ出来ない状況に、昭人は頷く。 「また帰りが遅いみたいなんだ」 「……放っておけよ。また初恋の君とでもいちゃついてるんだろうよ」 司佐はすっかりそう信じ込んで、そう言い放つ。 その時、玄関のドアが開き、コトハが入ってきた。 さすがにずぶ濡れでは帰れず、服が乾くまで外にいたのだが、髪の毛は濡れたまま乾き、とても良家に仕えるメイドとは思えない。 「コトハ! そんな格好で……裏口から入りなさい」 すかさず辻がそう言ったので、コトハはすぐにお辞儀をすると、玄関の扉に手をかける。 「待て」 そんなコトハを、司佐が止めた。 司佐に仕えることを禁じられ、ここ数日は口さえ聞いていない司佐に、コトハは肩をすぼめる。 「……今日は水泳でもしてきたのか?」 皮肉に笑った司佐に、コトハは悲しく微笑む。学校にまで通わせてくれている主人に、いじめに遭っているなどと言えるはずがない。 「はい……」 コトハはそう頷いた。 それを聞いて、司佐は歯を食いしばる。今やすれ違っているコトハの心情はわからない。コトハが初恋を引きずっていると思っている司佐には、今日も龍太郎とプールにでも行ったのかと考えるだけで、嫉妬に押し潰されそうになる。 「おまえみたいなメイドはいらない……早急に、この家から出て行ってくれ」 声を押し殺すように言った司佐に、コトハは目を見開いた。 「お、お許しください! 私は、司佐様にお仕えするのが夢だったんです。もう遅くなったりしませんから!」 「数日前、昭人にそう言ったのは誰だ? 二度目はないはずだ」 「それは……」 コトハはもう、何も言い返せなかった。 「距離を置こうと言われて、冷静になってみてよくわかった。べつに俺は、おまえがいなくても生きていける」 「司佐様……」 「出て行け」 最終宣告のような言葉を受けると、コトハは頷き、玄関の扉を開く。 「おっと」 その時、扉の向こうにいた男性が、そう言った。 「も、申し訳ありません!」 客人だと思い、コトハは亥の一番に頭を下げる。 「コトハ……? もしかして、コトハなのか!」 客人は、コトハの顔を覗き込んでそう言った。 コトハは顔を上げ、客人の顔を見つめる。だが記憶にはない顔である。 「え……?」 「ああ、君にとっては初めましてだね。僕の名前は、沢木悟(さわきさとる)。君の実の父親だよ」 コトハは驚いて、これ以上ないというくら目を見開いた。 目の前にいる男性が、自分の父親だというのか。思えば父親の写真は一枚もなく、同じ使用人であったが事故で亡くなったと聞いただけで、それ以上の情報は何一つない。 驚いたのは、コトハだけではない。司佐と昭人もまた、互いの顔を見合わせた。だがその男性は、確かに以前見た写真の男によく似ている。 「……このようなところで立ち話もなんです。どうぞお入りください。辻、客間の用意を。昭人は父さんを呼んできてくれ」 「はい」 司佐の命令に、辻と昭人が瞬時に動く。 それを見て、沢木と名乗った男性は優しく微笑んだ。 「君は司佐君だね。立派になられた」 「ありがとうございます。とにかく中へ……コトハも一緒に」 「は、はい……」 コトハは何が何だかわからず、沢木とともに客間へと案内された。
「沢木?!」 司佐の父親の驚きぶりも、半端ではなかった。なにしろ死んだと思っていた友人が生きていたのだから、無理もない。だが同時に飛び上るほど喜んでいるので、仲の良い友人だったことがうかがえる。 「いや……生き延びちまったよ。まるで浦島太郎だ」 少し照れながら苦笑し、沢木はそう答える。 「いったい何がどうしたっていうんだ? 奇跡なのか、それとも我々を欺いてたというのか」 「さて、何から話せばいいのかわからないけど……」 そう言って、沢木はコトハを見つめる。 「この子の笑顔が、僕をここまで連れて来てくれたんだ。僕は死んだと思われていた分だけ、失ったものも多いが、徐々に落ち着きつつあるのも事実だ。僕は、コトハを引き取りたいと思っている」 その言葉に、コトハと司佐は驚いた。
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