「いい加減にしろよ、コトハ」 夕食時、そう言ったのは昭人である。コトハは俯く。 「ごめんなさい……」 「僕に謝るくらいなら、司佐に謝れ!」 昭人が怒っているのは、ここ数日、司佐とコトハの接触がほとんどないからだ。見ていてもどかしく思えて、昭人は思わず口を出す。 「距離を置くって、決めたから……」 そう言うコトハに、昭人は顔を顰める。 「司佐は結構、淡泊だから、ちゃんと掴まえてないと本当に飽きられるぞ? それでもいいのか?」 「私は使用人です。これ以上望めません」 「司佐はそう思ってないだろ。もっとわがまま言っていいんだ。そうでなけりゃ、司佐もしんどいだろ。嫌いならきっぱり振ってやれ」 「嫌いなんかじゃありません! でも……どうしたらいいのかわからないの。私のことは放っておいてください!」 そう言って、コトハは去っていった。 残された昭人は拳を握る。自らの気持ちを封じている昭人は、揺れ動いている司佐とコトハの関係を前に、自分の気持ちがもどかしい。 「いっそ奪ってやりたくなる……」 言葉にしたものの、思い直して感情を押し込める。 「どうしちまったんだ、司佐もコトハも……」 司佐とコトハが距離を置くようになって数日、昭人も辛い日々を送っていた。
いつものように司佐と昭人と桃子を送り出してから、コトハは一人、歩いて学校へ向かう。ここ数日は、足取りが重い。 「おはよう……」 教室に入るなりそう言ったが、今日もクラスメイトの目は冷たく、桃子の周りには人だかりが出来ている。 コトハは一人、席に着いた。 「ええ? 桃子ちゃん。その指輪、司佐様にいただいたの?」 そんな声が聞こえ、コトハは顔を上げた。すると、前の方の席に座る桃子と目が合う。 「そう。昨日、宝石店へ行って買ってもらったの。婚約指輪よ」 「でも、あの子も指輪してたよね? てっきり司佐様からもらったものだと思ってた」 一同の目が、コトハに向けられた。 コトハはとっさに、左手を隠す。 「あ、隠した。ちょっと見せなさいよ」 コトハの態度に、数人の女生徒がコトハを羽交い絞めにした。 教室にはかなりの生徒がいるのだが、それを止めようとする者は一人もいない。 「やめてください!」 叫ぶように、コトハが言った。 「誰からもらったの?」 「……司佐様です」 少し躊躇ったが、コトハは正直にそう言った。 左手の薬指には、距離を置こうと言っても、未だに司佐からの指輪が輝いている。 「嘘言わないで! 司佐様は浮気なんかしないわ。桃子に買ってくれたもん」 そう言ったのは桃子だ。桃子は怒りを露にし、コトハを睨みつける。 「わ、私も……司佐様のことが好きです。でも、桃子様の間に入るつもりはありません。どうかこの指輪だけは、許してください……」 泣きながら、コトハは頑なに左手を握ってそう言った。 今にも女生徒がその左手をこじ開けようとしていると、桃子は背を向ける。 「もうやめていいわよ。でもコトハさん。その指輪、二度と付けないで」 桃子は女生徒たちを止め、席に戻る。桃子がそう言ったので、女生徒たちも席へと戻っていった。 コトハは泣きながら指輪を外し、手の平に握る。 桃子がコトハの指輪を取らなかったのは、コトハと同じように、司佐への想いがわかったからかもしれない。
それからしばらくして、ホームルームが始まった。そこで一人の少年が入って来る。 「また転校生だ。仲良くしてやってくれ」 先生がそう言った。このクラスに転校生が集まったのは、家柄でクラス分けがされているためだろう。そうして見ると、転校生も由緒正しい家柄の人間だということがわかる。 もちろん、コトハがこのクラスなのは、山田家からの特別枠だからだ。 「楠龍太郎(くすのきりゅうたろう)です。よろしくお願いします」 そう言う転校生の少年に、コトハは釘付けになる。 そんな少年もまた、コトハを見て顔色を変えた。 「……トコ? トコなのか!」 「龍ちゃん!」 少年は、軽井沢で小学校時代を一緒に過ごした、コトハの幼馴染みであった。子供の頃から、トコの愛称でコトハを呼ぶのは、今も変わっていないようだ。 中学に入って転校していったが、こんなところで会うとは思ってもみなかったことである。 「なんだ、小桜の知り合いか。じゃあ楠君は、小桜の隣に座ってくれ」 先生の言葉を受け、龍太郎はコトハの隣に座る。 クラスメイトからのいじめに塞ぎ込んでいたコトハだったが、久々に嬉しい出来事である。
「まさかここでトコに会えるとはね」 休み時間、隣の席の龍太郎が声を掛けてきた。 「本当、夢みたい。龍ちゃんと会えるなんて」 そう言った時、女生徒たちが龍太郎の席を囲んだ。 「楠君って、楠貿易の息子でしょう?」 「この時期に転校って珍しいね」 興味本位で話しかけられ、龍太郎は仕方なく、女生徒たちと話を続ける。 コトハは諦め、次の授業の準備をした。
昼になり、龍太郎はコトハの腕を掴む。 「一緒に食事しよう」 「うん」 だが、女生徒たちはそれを許さない。 「楠君。一緒に食堂行こうよ」 「放課後、学校案内してあげる」 そう言う女生徒たちに、龍太郎は爽やかに微笑む。 「ごめんね。僕、トコと知り合いだから、ゆっくり話したいんだ。話だったらまた今度」 龍太郎はそう言って、強引にコトハを連れて教室を出て行った。
「龍ちゃん、待って。腕が痛いよ」 廊下を歩きながら、コトハはそう言って立ち止まる。 「やっと二人きりになれたね。女子は何処へ行ってもうるさいよ……」 そんな龍太郎に、コトハは苦笑する。 「私も女子だよ」 「知ってるよ。でも、トコは別。早く行こう」 「何処に行くの?」 「食堂に決まってるだろ」 「食堂は、あっち」 コトハはそう言って、龍太郎を食堂へと案内した。
食堂に入ると、コトハは司佐と目が合う。そんな司佐に、桃子が走り寄ったので、会釈だけして別の席に座った。 「あの人、山田司佐だよな?」 龍太郎がそう言った。 「う、うん」 「ご主人様と一緒じゃないんだ? っていうか、トコがこんなお嬢様学校にいるなんてびっくりだ」 小学校の時からの付き合いである龍太郎は、将来コトハが司佐に仕えることを夢見ていたのを知っている。 「うん。最近、司佐様にお仕え出来るようになったの。でも司佐様、私を高校に通わせてくださって……」 「そう。いいご主人様だね」 「うん、本当に。龍ちゃんは、どうしてここへ?」 食事をしながら、コトハが尋ねる。 「僕は実家に帰ってきただけだ。ほら、昔は体が弱かったから、静養を兼ねて軽井沢にいたわけだけど、中学は海外で過ごして、やっとこっちに戻ってきたってわけ」 「そうなんだ。もう本当に夢みたい!」 「それは僕も一緒」
「誰だ、あれ?」 遠くから龍太郎を見て、司佐がぼそっとそう言った。 「さあ。でもどっかで……」 昭人が記憶を手繰り寄せていると、桃子が口を開く。 「転校生よ。楠龍太郎」 名前を聞いて、昭人はコトハの初恋の人だと思い出し、司佐を見つめる。 だが司佐は顔色一つ変えず、食事をしていた。 「へえ。おまえといい、最近転校生が多いな」 「私の転校は、おじさまが呼び寄せたものなんだからね」 「わかってるよ。それよりおまえ、買ってやった指輪ちゃんとしてんのか?」 司佐がそう言って、桃子を見つめる。桃子の指に指輪はない。 「あるわよ、ちゃんと」 桃子はペンダントに通して首から下げていた指輪を見せる。 「さんざん泣きじゃくって人に買わせておいて、はめないのかよ」 「だって、学校ではペンとか持ちにくいんだもの。こうして大事に持ってるのよ」 「コトハは片時も外したことないけどな……」 司佐がそう言ったので、桃子は頬を膨らませる。 「あの人の話はしないで!」 「あいつは俺の使用人だ」 「使用人に指輪をあげるの?」 「知ってるくせに……おまえがおとなしくするって言うから、百歩譲って指輪買ってやったんだ。それ以上言うなら取り上げるぞ」 冷たいままで、司佐は言う。 桃子は黙ったものの、口を尖らせていた。
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