「待ってください! 私は何処でも構いませんから、桃子様がこの部屋をお使いになりたいとおっしゃるなら、どうぞお使いください」 「コトハ!」 思わずそう言ったのは、司佐ではなく昭人である。ここでコトハがそんな要求を呑む必要はないと思ったのだが、もう遅い。 「あら。なんだ、司佐様より話が早いじゃない。そうと決まれば、すぐに明け渡してくれる?」 「はい。すぐに……」 そう言うと、コトハは自分の部屋へと入っていった。 コトハの発言に信じられない思いでいた司佐は、決定事項に息を吐く。 それからも、桃子は司佐の傍を離れようとはしなかった。
「どうしてあんなことを言ったんだ。桃子様の言葉なんて、聞き流しておけばよかったんだ」 夕食時、昭人がコトハにそう言った。 司佐の両親が帰って来て以来、司佐と一緒に食事をする必要もなくなったため、以前と同じように、使用人用のキッチンで食事をしている。 「でも、司佐様の言い方もひどいと思います。桃子様、本当に司佐様のことが好きなんですよ」 「それはおまえのためだろう? おまえは桃子様のために、司佐を諦めるっていうのか? 中途半端に優しくしたら、桃子様だって後が辛いだろう」 昭人に言われ、コトハは目を伏せる。 「すみません。そこまで考えていませんでした。でも、もともとあの部屋は、私には豪華でしたし、そんなに重要なことではないと思って……」 「……司佐はそうじゃなかったんじゃない?」 「え?」 「きっと司佐は、おまえに傍にいてほしかったと思うよ」 「……ごめんなさい」 「僕に謝られても……」 コトハは少し後悔しながらも、自分と同じように司佐に恋する桃子の気持ちを痛いほどわかり、邪険には出来ないと思っていた。
夕食時、司佐は両親と桃子とともに、食事をしていた。 「桃子もしばらく見ないうちに、大きくなって綺麗になったな」 「嫌ですわ、おじさまったら。でも桃子、司佐様のために綺麗になる努力を惜しまないわ」 父親の言葉に、桃子が得意げに言う。 「努力なんかしなくても、桃子は本当に可愛いよ。なあ、母さん」 「ええ。うちにも娘がいたらって、桃子ちゃんを見るたびに思うわ」 母親もそう言って微笑んでいる食卓に、司佐だけは浮かない顔をしている。 「司佐。食事はもっと美味しそうに食べなさい。こっちまで不味くなる」 父親が言った。 司佐は反発するように、そんな父親を見つめる。 「これが父さんのやり方? わざわざ桃子を呼びつけてどうするつもりだよ。言っておくけど、俺は桃子と結婚する気なんて、これっぽっちもないからね」 堂々と、司佐はそう言った。 「司佐。桃子の気持も考えろ。桃子は真剣におまえを慕ってくれているんだぞ」 「そんな子なら、桃子じゃなくてもたくさんいるよ。父さんがこんなやり方するなら、俺だって考えがある」 「どんな考えか聞いてみたいものだが、べつに大したことじゃないだろう。桃子はおまえの婚約者という肩書がなくたって、従兄弟同士なんだ。十分、転校の動機にはなるだろうがね」 司佐の脅しにも、父親はまったく動じない。 「司佐様。桃子がこっちにいるのは、今年一杯よ。来年になったら家に戻るの。それが条件」 桃子の言葉に、司佐は少しほっとした。 「そうなのか? てっきり、高校生の間はずっとこっちにいるんだと……」 「桃子はそれでもいいんだけど、パパが寂しがってるから」 「そう。今年一杯ね……」 司佐は押し黙り、食事を続ける。 高校の間じゅうと思っていたが、今年一杯だけという桃子に、少しは余裕を見出す。それでも、夏休み前の今、桃子が帰るまで大変そうだ。
一日の仕事を終え、コトハは自分の部屋へと戻っていく。 コトハの新しい部屋は、同じ山田邸の敷地内にある、従業員用の建物の二階だ。今までの部屋と比べて、部屋の広さは十分の一ほど。トイレも風呂も共同だが、自分の部屋を与えられただけで満足である。 コンコン、と窓が鳴り、コトハは立ち上がった。前にも似たようなことがあったので、少し期待に胸が弾む。 カーテンを開けると、そこには司佐がいた。 「司佐様!」 「しっ。入るぞ」 声を潜めてそう言うと、司佐はコトハの部屋に入り込む。 「ど、どうやってここまで……ここは二階ですよ?」 「木登りは得意だ」 そうやって笑う司佐に、コトハは申し訳なく思った。 「でも危険です。司佐様にもしものことがあったら、私……」 「喜んでくれないのか? こうしてここまで来たこと」 司佐は、少し残念そうに言った。 「嬉しいですが、危険な目に遭わせるのは嫌です」 「そう。でも俺も怒ってるんだぞ? 勝手に桃子に部屋を譲ったりして」 「すみません……」 一向に主従関係が崩れないコトハに、司佐は溜息を漏らす。 「もういいよ。桃子は今年一杯いるそうだ。あっちの親も桃子を溺愛してるし、早まるかもしれない。今年限りの辛抱だ」 司佐の言葉に、コトハは押し黙る。 「コトハ?」 首を傾げている司佐に、コトハは司佐を見つめる。 「あの……私、桃子様の気持ちがよくわかるんです。だから邪険になんか出来ません。司佐様のこと、取られたくなんかないけれど、でも桃子様の気持もわかるんです。なんだか……気持ちがぐちゃぐちゃしていて、今はなんと言ったらいいのかわかりません……」 正直に、コトハはそう言った。だが司佐にはそれが伝わらない。 「……よくわからない。コトハとはこのままで、桃子にも優しくしろってこと?」 簡潔に述べる司佐に、コトハは頷く。 「桃子様に、冷たくしないでください……」 それを聞いて、司佐は溜息をついた。 「おまえは桃子のことがわかってないから、そういうことを言うんだ。あいつはわがままだし、意地汚いところもある。おまえだって隙を見せてたら、潰しにかかられる危険もあるんだぞ」 「それだけ司佐様のことが好きだということではないのですか?」 コトハの言葉に、司佐は顔を顰める。 「おまえと話していても埒が明かないな。俺は好きでもない相手に気を持たせるようなことはしたくない。おまえがそれを望むなら、俺は桃子を愛する努力をしなきゃならないんだ。そうなったら、おまえを捨てることだってあるかもしれないんだぞ?」 司佐は怒ってそう言った。だが、コトハはゆっくりと頷く。 「その時は、仕方がないと思います……」 コトハがそう言ったのは、とても自分には敵わない女性だと思ったからである。同じ年にも関わらず、桃子は上品で美しい。比べられたらひとたまりもない。 そんなコトハの真意がわからず、司佐は口を結んだ。 「それがお前の望むことか?」 「少し……時間をください。司佐様の言う通り、私は滅茶苦茶なことを言っているんだと思います。でも、自分で自分の気持ちがわからないんです。しばらく距離を置かせてください……」 震えながら、コトハはそう言った。 それを聞いて、司佐は立ち上がる。 「……わかった。しばらくおまえと距離を置こう。だがあいにく、俺は気が長くない。おまえが言うような器用な真似も出来ない。学校もおまえだけ一人で行け。学校での食事も一緒に取らない」 「はい……わかりました」 「じゃあな……」 「おやすみなさいませ」 司佐は顔を顰めたまま、コトハの部屋のドアを開け、堂々と帰っていった。 寂しさを感じながらも、コトハは司佐としばらく距離を置くことにしたのだった。
次の日から、コトハは司佐の身の回りの世話以外、司佐に寄りつかなくなった。学校の行き帰りも別々で、一緒に食べていた昼食も別々だ。 一方で、桃子はその勢力を広げていった。桃子はコトハと同じクラスになったのだが、もともとあまり友達のいないコトハと反対に、桃子はあっという間にクラスのアイドルとなっていたのである。その人気は、ほぼ金持ちの家柄である故のものであるが、その地位はすぐに画一された。
ある日、コトハが学校に行くと、そこにコトハの席はなかった。 「あれ? 私の席……」 教室を見回すと、教室の隅に片付けられており、その上には掃除用具が置かれている。 意味がわからず、コトハは振り向いた。 「あんたの席なんかないよ」 何処からか、そんな声が聞こえる。 「もともと気に食わなかったのよね。司佐様や有森兄弟まで手なずけちゃって」 「使用人でしょ? 身分わきまえなさいよ」 「そうよ。桃子さんが司佐様の婚約者なのに、邪魔してるんでしょ」 コトハは歯を食いしばり、片付けられた机を元通りにする。 「やっぱり卑しいよね。神経図太すぎ」 耳を塞ぎ、コトハは授業が始まるのを待つ。 ここで逃げ出したら、せっかく高校に通わせてくれている山田家に申し訳がない。コトハはそう言い聞かせて、その日を過ごした。
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