次の日の朝、司佐を起こしに行こうとするコトハを、昭人が止める。 「……また会っては行けないの?」 悲しそうなコトハに苦しみながら、昭人は頷く。 「今は誰も近付くなと言われている。司佐は神経質だけど、そのうちケロッと元通りになるさ」 昭人が言ったのは、嘘ではない。司佐は暴君とも言われるが、繊細な部分も持っており、時に神経質で、自分の殻に閉じこもることすらある。そんな時は、昭人ですら近付けようとしない。 その日、コトハと別々に学校へ行くことを望んだ司佐は、ただ表情を失くしていた。
「司佐。ランチはどうする?」 「……食べたくない」 昼、昭人の言葉に、司佐が答える。 「でも、食べないわけにはいかないよ。まだ午後は三限も残ってる。コトハに会いたくないなら、コトハに別の食堂へ行ってもらえばいいだけだろう」 「……コトハは何にも知らないんだぞ? これ以上、混乱させたり悲しませたくない」 「司佐……」 「じゃあ、軽い食べ物を何か持ってきてくれ。俺は生徒会室にいる。あと、コトハに現金を渡しておいてくれ。いつまでも貴一たちに奢らせるわけにはいかないからな」 そう言って、司佐は力なく教室を出ていった。
昭人が食堂へ行くと、コトハは残念そうな顔をした。 「司佐様、やっぱり来ないの……?」 「ああ……ちょっとピリピリしてる。車は呼んでおくから、帰りも一人で帰ってくれ」 「わかりました……」 だいぶ聞き分けがよくなったようにしているが、コトハは寂しそうに目を伏せる。 「それからこれ、司佐から。これでしばらく、食事は一人ででも出来るだろう」 昭人が差し出したのは、札束となっている現金だ。 「こんなに頂けません」 「司佐の命令だ。持っているに越したことはない」 「……ありがとうございます」 その日、昭人はコトハの食事代を一緒に払うと、軽食を持って司佐の元へと向かった。
生徒会室で一人、司佐は長椅子に寝そべる。もう何も考えられない。 その時、昭人がやって来た。 「持ってきたよ。少しでいいから食べてくれ」 昭人はそう言って、テーブルの上にサンドウィッチなどの軽食を並べる。 「……コトハは?」 「悲しそうだったよ。でも、少しは聞き分けるようになった。帰りも別の車に乗って帰れと言っておいた」 「……昭人。おまえは、どう思ってる? コトハと、このまま一緒にいられると思うか?」 司佐の問いかけに、昭人は静かに微笑む。 「僕は山田家の人間じゃないから……でも、公表出来ないとはいえ、コトハは山田家のお嬢様というわけだろう? 僕の気持ちも少しは変わるよ。同じ使用人でいていいのかなって。司佐のことを考えたら、一緒にいるべきではないと思うし……」 使用人の立場から、昭人はそう言った。 「コトハには……軽井沢へ帰ってもらうことにする。高校へ行きたいのなら、向こうの学校にでも編入させる。父さんには……父さんが帰るまで、山田家は俺が仕切る。だから了承してもらう」 やがて下した司佐の決断に、昭人は静かに頷く。 「わかった。司佐が決めたなら、それでいいと思う……」 短い間だったが、楽しい日々を与えてくれたコトハに、司佐と昭人は思いを馳せた。
その日、別々に帰ることになったコトハは、突然、避けられていた司佐に呼びつけられ、不安と嬉しさを胸に、司佐の部屋へと向かった。 「失礼します……」 頬を染めるコトハ。だが目の前にいる司佐の顔は、なんとも険しい。コトハは自分に下されるであろう悪い予感に身構える。 「コトハ……突然で悪いんだが、おまえには明日から、軽井沢の別荘に戻ってもらう」 それは、予想だにしない言葉だった。 「ど、どうして……」 「理由は聞くな。だが、おまえを高校に入れたのは俺だ。今後も行きたければ、別荘近くの高校に通わせる。すぐに荷物をまとめてくれ」 言っている司佐も辛かったが、コトハは訳がわからずに泣いている。 「い、意味がわかりません……やはり私は、司佐様に何かしたのではないですか? それとも、私のことがお嫌いになったのですか?」 その言葉に、司佐は目を閉じ、静かに深呼吸をする。 「……そう思われても構わない。おまえが……ここに来たのは間違いだった」 司佐の言葉は、コトハにとどめを与えた。 コトハは涙を拭うと、司佐が買い与えた指輪を取り、側にあったテーブルに置く。 「あ、ありがとうございました。私……別宅に戻ったら、高校へは行きません。これ以上、山田家のご負担になるようなことはしたくないですし、これで一人前のメイドになるために働けます。一時の夢でも、私なんかに素敵な夢を見させてくださってありがとうございました。私は……司佐様にお仕え出来て、幸せでした……」 そう言うと、コトハは耐え切れず、司佐の部屋を飛び出していった。 「コトハ!」 思わず司佐は立ち上がったが、その気持ちをぶつける場所も見つからず、ゆっくりと座り直す。 「司佐……本当にいいのか?」 そばにいた昭人は、静かにそう尋ねる。 「いいんだ……このままコトハをここに置いておいたら、俺は何をするかわからない。あいつは今まで通り、別荘で暮らしていたほうが幸せだと思う……山田家のしがらみもない」 それを聞いて、昭人はそっと司佐の肩を抱いた。
コトハはすぐに荷物をまとめ、その日のうちに山田邸を出ていった。 辻やメイドたちには朝まで待つよう止められ、理由を聞かれたが、司佐の命令ということには変わりない。 「夜行バスがあるはずですから、大丈夫です……」 そう言って、コトハは辻たちに頭を下げた。 「では、せめて夜行バスのターミナルまでは、タクシーで行きなさい。使用人とはいえ、こんな夜に女性一人、何かあったら山田家にも迷惑がかかる」 「わかりました。お金は学校の食堂で使う用にお預かりしたものがあるので、そちらを使わせて頂きます。残りは後でお返ししますので……」 力なく微笑み、コトハは山田邸を出ていった。 コトハの心を映すように、外は大雨が降っている。それでもコトハは、すぐにでもこの家を出たかった。
「もう出て行ったのか?」 昭人が去り、一人となった司佐は、辻の報告を受けて驚いた。 「はい。急いでいた様子で……夜行バスで帰ると申しておりました」 「そう……あ、金は大丈夫なのか?」 「はい。学校の食堂で使うお金を預かっていたので、それを使うと……後でお返ししますとも申しておりました」 「ハハ。律儀だね……わかった。下がってくれ」 そう言ったものの、辻は下がろうとしない。 「辻?」 「失礼ながら、司佐ぼっちゃま……コトハが何か粗相を致しましたか? それでなくとも、コトハは旦那様の命でこちらに配属されました者です」 「勝手に別宅に帰したらまずいか? 問題があるなら、父には僕から言うよ。コトハが粗相をしたわけではないが……いろいろある。わかってくれ」 「かしこまりました。失礼いたしました……」 辻を下がらせ、司佐はテーブルに置いたままのコトハの指輪を取った。 自分の指には、小指でも先っぽまでしかはまらない。使い道のなくなった指輪を、司佐はもう一度テーブルの上に戻す。 「他にどうすればよかったというんだ……」 司佐は深いため息をつく。 しばらくその場で物思いに耽っていると、またもドアがノックされた。 「どうぞ」 そう言うと、昭人が入ってきた。 「なんだ、昭人か。まだ寝てなかったのか?」 「うん。それより、緊急の用事だ。旦那様が帰られた」 「なんだって?」 昭人の言葉に、司佐は驚いて立ち上がる。 「書斎でお待ちだそうだから、すぐに向かってくれ」 「わかった」 司佐は軽くガウンを羽織ると、鍵の掛かった棚の中から、クシャクシャに折り目のついたコトハとのDNA鑑定書を取り出す。一度捨てかかり、あれ以来見てもいないが、父親と直接対決になるかもしれない。 司佐は急いで書斎へと向かっていった。
「失礼します」 そう言って書斎に入ると、そこには数か月ぶりに見る父親の姿がある。 「おお、司佐。しばらくぶりだな」 父親は満面の笑みで、司佐の姿を見つめた。 「急だね、父さん」 「ああ。おまえを驚かせたくてね。久々に一ヶ月くらい、こちらでゆっくり出来そうだよ」 それを聞いて、司佐は驚いた。 思えば両親と最後に会ったのは、今年の正月だったと記憶している。それ以前も、一週間以上ここにいることはなかった。 「本当? それは本当に久しぶりだね。母さんは?」 「母さんは、ロンドンに寄ってから帰るそうだ」 「また買い物?」 「そう言うな。すぐに帰って来るさ」 司佐は苦笑した。それというのも、司佐の母親は、海外で大量の買い物をするのが趣味だ。前に何度も、そのせいで父親と帰国の時間がずれたりしているので、今回もそうだと思った。 「ところで、軽井沢から来たコトハはうまくやっているか?」 突然、父親から発せられたコトハという名前に、司佐は凍りついた。 「なんだ。うまくいってないのか?」 「……一介のメイドを、父さんが目をかけることがあるの? どうして本宅勤務なんかに……」 静かにそう言った司佐に、父親は微笑む。 「あの子はあの年で、唯一肉親である祖母を亡くしたばかりだったからな。忠誠心もあるし、代々うちに仕えてきた家柄の娘として評価してあげたかったんだ。おまえとも年が近いし、それに可愛いしな」 父親の言葉に、司佐は口を曲げる。 未だプレイボーイとして名高い父親は、浮気というものは聞かないものの、若くて美しい女性に今でも目がない。 「あのなあ! てめえの隠し子、堂々と連れてくるんじゃねえよ!」 突然、キレたように司佐が怒鳴った。 「司佐……?」 「そういうつもりなら、俺に一言話してくれてもいいだろ。今更、父さんに何があったって、受け止められるくらい大人にはなってるよ!」 険しい顔の司佐を前に、父親は眉を顰める。 「待て、司佐。私はおまえが何を言っているのか……」 「言い逃れするつもり?」 司佐は勢い良く、机の上に一枚の写真を置く。それは、この書斎で隠すように置いてあった、父親とコトハの母親の写真であった。
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