東京都内の一等地。芸能人や政治家たちが住む高級住宅街に、一際大きな屋敷がある。 表札には「山田」の文字。元は華族の家柄で、財閥として名高い。不動産王、山林王、医者に政治家、実業家。親戚中が資産家だらけのこの家は、もちろん近所で知らない者はいない。
「司佐(つかさ)ぼっちゃま。そろそろ学校へ行くお時間です」 広い食堂に一人で食事中、執事に言われ、少年は立ち上がる。それと同時に、少年に上着が着せられた。 少年の名は、山田司佐(やまだつかさ)。十六歳。外交官の父と女優の母を持ち、不動産王であり政治家でもある山田家当主の孫息子である。 栗色かかった地毛の髪は長めに整えられ、女優の息子だけあって整った顔立ちをしている。一人っ子のために甘やかされて育ったものの、それを許す環境があった。 「うん、行ってくる。昭人(あきと)は?」 「すでに車に」 「わかった。じゃあ行って来るよ」 「行ってらっしゃいませ。司佐おぼっちゃま」 大勢の使用人に見送られ、司佐は家を出ていった。今の時代、傍から見れば異様な光景ともいえるが、この家ではこれが常識だ。
「おはようございます。司佐様」 家を出るなり、外には高級車が停まっている。その前に、司佐と同じ制服を着た、短髪で眼鏡をかけた少年が立っていた。 「おはよう、昭人」 司佐はそう返事をして、車へと乗り込む。昭人と呼ばれた少年もまた、司佐の隣に乗り込んだ。 「失礼します」 「ハイハイ、どうぞ」 車が動き出すと、急に姿勢を崩して、司佐が言った。 「司佐。まだ家の中。見られるよ」 昭人もまた敬語をやめて、司佐を静止する。 「平気だよ。車にはスモーク張ってあるんだから」 「そういう問題じゃないと思うけど……」 眼鏡を正しながら外を見つめる昭人は、小島昭人(こじまあきと)という。司佐と同じ年のその少年は、両親はおらず、六歳の時に司佐の友達相手として、施設からこの家に連れて来られた。 司佐にとって昭人は、唯一心を許せる親友であり、そして用心棒でもある。そのため、家の外や二人きりの時には、タメ口を利くよう命じていた。 「それより昭人、おまえ柔道の試合があるんだろ? 朝練さぼってまで車磨きなんかしなくていい」 司佐がそう言ったのは、昭人の家で与えられた仕事のことだ。司佐と一緒に勉強することはもちろん、司佐の身の回りの世話以外にも、毎朝の車の掃除や司佐の靴磨きなど、さまざまな仕事を与えられている。 「いや、僕が柔道部に入っているのは、司佐を守る護身術を身につけるためだけだ。学校は部活必修だから入っているだけのことで、試合なんか出ないよ」 「もったいない。そりゃあ、小さいころから俺を守るためにいろいろ仕込まれてるんだ。柔道だけじゃなくていろいろ有段者のおまえが、活躍しないなんてもったいない。俺がいいって言ってるんだぞ?」 そんな司佐に、昭人は苦笑した。 「本当、僕はそういうのには興味がない。強くなりたいっていう向上心があるとすれば、司佐を守らなきゃならないっていう自覚があるからだ」 「わかった、もういい。そう言ってくれるのは嬉しいけど……おまえの将来でもあるんだから」 「うん。ありがとう」 そんな会話を交わしながら、車は都内の私立学校である蘭梗学園(らんきょうがくえん)へと入っていった。
幼稚部からあるその学校は、ほとんどの者が大学までここに通う。 司佐と昭人もまた、ずっとこの学校だ。 「おら道開けろ、ブスどもが。司佐様がお越しだろうが!」 司佐が玄関口を入るなり、ズボンをずり下げた雰囲気の悪い生徒が、そう言って周りの女生徒たちを遠ざける。 「おはようございます、司佐様」 明らかに不良と見られる目の前の少年は、司佐を見るなり両膝をついてお辞儀をする。 司佐は見下すように少年を見つめると、何も言わず片足を差し出した。 すると不良の少年は、用意していた司佐の上履きを、その手で履き替えさせる。 「ありがとう。でもそのずり下がったズボンは美しくないな」 司佐の言葉に、見た目不良の少年は慌てて立ち上がり、下がったズボンを上げた。 「申し訳ございません、司佐様」 その時、司佐は未だ長い不良少年のズボンの裾を踏んだ。 「長いズボンだね。足短いんじゃないの?」 「は、はは……すみません……」 「あれ? 今ちょっと、イラッとしただろ」 「いえ、してません!」 「そう? 反論ならしていいんだよ。いくら学長の孫だからって、俺を引きずり下ろすなんて簡単だろ。まあでも、そうなったら君の家も厳しくなるだろうけどね」 「滅相もございません!」 もはやイジメとしか言えないような司佐の言動に、思わず昭人が腕を掴んで静止する。 司佐は冷たい目で顔を背けると、そのまま不良少年を置いて教室へと向かっていった。
教室に入ると、一同は空気を張り詰める。ここでの司佐は、教師より高い地位にいる。いわば王様だ。 それは、この学園の学長が祖父であることが大きく関係しているが、先程の不良少年のように、破産寸前の家族を救ってもらったり、家ぐるみで山田家に世話になっている者も少なくない。それによって、司佐の地位は画一されていた。 また、昭人という用心棒が常に側にいることも大きい。子供の頃から司佐を守るための英才教育を受けてきた昭人には、無謀な不良よけの役割は十分担っている。
「司佐君。クッキー焼いたの、食べない?」 「ジュース買ってきたんだけど」 休み時間になると、取り巻きのように女生徒が司佐に群がる。 「今いらない」 「残念。ねえ、今度の休みどっか行かない?」 「ああ、いいよ」 司佐の恐ろしさは知っていても、味方にしてしまえばこれほど強い人材はいない。女子たちは司佐をモノにしようと毎日が闘いで、司佐はそれを知っていても女遊びには積極的だ。 また男子にとっても、司佐を怒らせさえしなければ、気さくに付き合える人間でもある。 「いい加減にしろ。予鈴鳴ってるぞ」 うるさいまでの女子に、昭人がそう促したので、女子たちは渋々去っていった。 「妬いてんの?」 悪戯な瞳で見つめる司佐に、昭人は眉をしかめる。 「よくあんなやつらの相手出来るな」 「べつに遊びで付き合う程度なら、あんな軽い連中いないだろ。おまえも息抜き程度ならセッティングしてやるよ」 「興味ないよ」 「またまた。俺たちは健全な高校男児だろ」 軽薄なまでの司佐、時に暴力的な司佐、子供の頃からずっと傍で司佐を見てきた昭人にとって、その心理は理解出来ていた。 司佐の両親は海外を飛び回り、ずっと外国暮らしである。山田家当主の祖父は健在だが、別々に暮らしているため、司佐はいつも一人だ。 そんな中で、司佐に近付いて来る者はみんな裏があるので、それを何度も裏切られてきた今の司佐の人格形成は、ある意味当然の結果だと思った。 それと同時に、自分がしっかりして司佐を支えなければと、昭人はいつも心している。
学校が終わると、すでに校門の前には山田家の車が停まっている。 司佐はそれに乗り込むが、昭人を助手席に座らせ、付いてきた二人の女子を一緒に乗り込ませた。 「ぼっちゃま、どちらへ?」 運転手の坂木が尋ねた。彼もまた、運転手としてずっと司佐の送り迎えをしている。 「人前でぼっちゃんって言うなって言ってんだろ。銀座まで」 「大変失礼致しました。かしこまりました」 後ろの座席では、司佐を挟むようにして女子が座っている。 「キャー。セバスチャンもカッコイイ。さすが山田家の運転手さん」 「セバスチャンって誰だよ」 うるさいまでの女子に、司佐が怪訝な顔をして尋ねた。 「運転手さんだよ。運転手さんはセバスチャンって感じでしょ?」 「そうか?」 「アニメの話? それを言うならスチュアートじゃない? セバスチャンは執事だろ」 真面目な昭人が、真顔で口を挟む。 「ええ? セバスチャンでしょ。そっちのほうが、ぽい」 女子はくだらない論戦を始めるので、司佐は苦笑して口を開いた。 「ハハハ。んじゃ、今日から坂木はセバスチャンな」 「ええ? 勘弁してくださいよ」 「うるさいぞ、セバスチャン」 車の中は、和やかな雰囲気に包まれた。 「ねえ司佐君、手見せて。私、手相にハマってるんだ」 「当たんのかよ?」 「勉強中」 そんな会話を交わしながら、女子は両側で司佐の手を握る。司佐は愛もなく近付いてくる女子たちを遠ざけようとはしない。 そんな司佐は、ふと車の外を見て目を開いた。 「止めろ!」 司佐の声に、車は路肩に止められる。 女子たちを押し退けて車から降り、司佐は辺りを見回した。 「司佐?」 慌てて追ってきた昭人が、怪訝な顔をして尋ねる。 司佐は目を伏せ、車に戻ると、女子たちを車から降ろした。 「降りて」 「え? でも、司佐君……」 「今日のデートはなし。勝手に帰って。バイバーイ」 女子たちを街の中に放り出し、司佐は昭人とともに後部座席に乗り込むと、家へと帰っていった。
「どうしたんだよ、司佐。あの子たち、可哀想に」 そう言う昭人の横で、司佐は外を眺めている。 「じゃあ、おまえが慰めてやれ」 「司佐?」 「……鳩子(はとこ)さん。覚えてる?」 おもむろにそう言った司佐に、昭人は頷く。 「ああ……司佐の初恋の?」 昭人はそう言ったものの、ずいぶん昔の記憶を辿る。司佐と同じく一度だけ会っているのだが、その顔までは思い出せない。 まだ二人が小学部に上がって間もない頃、地方に家族ぐるみで出席したパーティーに来ていた女性に、司佐は恋焦がれていた。 すでに当時も大人の女性だったが、儚げな容姿、優しい笑顔が、今も司佐の中で理想の女性像として君臨しており、今まで何度も話題に上ってきた話でもあるが、ここ数年では久しぶりに出た話題である。 「そう。なんか似てる人がいた気がして……」 「もう十年も前だよね? 相当な年になってると思うんだけど」 「うるさいな、昭人! 俺だってわかってる。でもさ、やっぱり忘れられないよ。初恋だもんな」 珍しく頬を染める司佐に少し呆れながらも、昭人は静かに微笑んだ。
しばらくして、一同は家に着いた。気晴らしといって買い物をしていたため、いつもより時間が遅い。 ふと見ると、山田家の正門前で、立ち往生している少女が目についた。 司佐はさっきから初恋の人を思い浮かべていて、見るものすべてがその女性に見える。 「鳩子さん? いや……似ても似つかねえ」 一瞬目を疑ったが、残念そうに司佐は舌打ちをする。 「でも、何やってるんだろう。屋敷の前で」 二人が首を傾げていると、運転手の坂木が車を降りた。 「君、何をしているんだい?」 その問いかけに、少女は笑顔でお辞儀をした。 「こんにちは。本日付で本宅勤務として配属されました、メイドの小桜琴葉(こざくらことは)と申します!」 ズルッ、と、司佐は肘をついていた窓枠から滑り落ちた。
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