私の名前は、鈴木美波(すずきみなみ)。高校一年生。 「恋愛って楽しいよ」――誰かが言った言葉だけど、小中学校と陸上で汗を流してきた私にとって、出会いなんてなかったし、実際に恋愛なんか出来る環境じゃなかった。 そんな私が今日、十五歳にして初めて恋をした──。
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「かっとばせ──田村!」 広い野球場内の声援が、たった一人に注がれる。手の平に握る汗が蒸発するくらい、熱い夏――。 ボールがバットの芯を捉え、気持ちが良いくらいの音が響き渡った。その瞬間、野球場内にいたすべての人間が一瞬、完全に呼吸を止める。 誰もが祈る試合の中で、一人の選手が満塁サヨナラホームランを叩き出した。 「すごい……」 応援席にいた美波が、ぼそっと呟く。 汗が滴り落ちる中で、美波の腕は鳥肌を見せていた。あまりの好プレーに、恐怖さえ感じているのだ。 「キャー! 智樹!」 その時、美波の隣からそんな声が聞こえた。 この大観衆の中で一人、たった今ヒーローとなった選手の下の名を呼ぶ少女。 彼女の名前は、倉田千笑(くらたちえみ)。美波とは小学校からの同級生であり、親友だ。そして今注目を浴びている高校球児・田村智樹(たむらともき)の恋人でもある。 「やったよ、美波! 熱い中で応援してた甲斐があったね。今日はついて来てくれてありがとう!」 興奮したままの千笑が言う。 美波は冷や汗に似た汗を手で拭いながら、千笑に笑いかけた。 「ううん、こっちこそ……すごい試合だったね。私、息が止まるかと思った」 「やだなあ、美波ったら。でも、私も惚れ直したわあ」 千笑の言葉に、美波は静かに微笑んだ。 「……うん」 「さて、じゃあ帰ろっか」 着々と帰ってゆく観客の中で、千笑が言った。 「え? 田村と一緒に帰るんでしょ?」 驚いて美波が尋ねたが、千笑は笑って首を振る。 「ううん。部活の人と一緒に帰るから、私は会えないよ。今日は取材とかもあるだろうし」 「へえ……大変だね」 「まあね。一応、将来を嘱望されてる選手の一人だからね」 自慢するようにそう言う千笑だが、その顔は少し寂しそうに見えた。
美波は家へ帰ると、机の前に座り、ふと目の前の写真立てに目をやった。中学の卒業式で撮った、千笑とのツーショット写真である。 二人は小学五年生の時に同じクラスになって以来、クラスが別々になっても変わらず友達でいた。それは家も近いこともあるが、誰よりウマが合うからだろう。 そんな親友の千笑に彼氏が出来たのは、高校に入ってすぐのことだった。二人は同じクラスで、千笑の彼氏である田村もまた同じクラスである。 田村は子供の頃から野球少年で、高校に入った今も変わらず野球に専念している。誰が見ても爽やかなスポーツマンに見えた。そんな田村に、千笑から告白をしたのだった。 中学時代から、千笑の興味は異性に対して強かったが、千笑は美波同様、取り立てて可愛いというわけでも、成績が良いわけでもない。美波は陸上部にかかりきりだった分、まだそれほど異性に興味があるわけではなかったが、少なくとも千笑はお洒落に目覚めていたし、高校に入ってからは茶髪にし、一重瞼を簡易コスメで二重にし、今時の女子高生を気取っていた。 「彼氏、か……」 美波はぼそっとそう言った。気が付けば、高校生になってからは、周りに恋人が増えた気がする。部活一本の美波にも、そろそろ焦りもある。 そんな美波の脳裏で、今日大スターになった田村智樹の姿が蘇った。 「わ、駄目ダメ。なに考えてんの、私! 田村は、千笑の彼氏なんだから……」 脳裏の田村をかき消した美波は、途端に空しくなった。親友が離れていく寂しさ、彼氏がいない焦り、いろいろな不安が入り混じって、美波を襲う。思えば田村は、千笑と付き合う前から仲の良い男子の一人だったが、今では遠い存在になった気がする。 美波の脳裏に、すぐに田村の姿が蘇った。 「……仕方ないか。今日の田村、誰が見てもカッコ良かったもんね……」 美波は苦笑しながらも、心の中で何かが動き出そうとしているのを、無意識に止めようとしていた。
次の日の早朝。美波はランニングをしながら、学校へと向かっていった。朝練がある日の日課であり、軽く汗を流す。今日はいつもより早くに目が覚めたので、美波はそのまま家を出て行ったのだった。 途中、千笑の家に差しかかる。中学時代から部活もしていない千笑は、寝坊もしょっちゅうで、未だに遅刻魔だ。今も夢の中であろう千笑のことを思いながら、美波は学校へと走っていった。 カキーン──と、学校のグラウンドから、野球のノック音がした。その先には、千笑の彼氏である田村の姿がある。 「おお、鈴木じゃん。おはよう。早いな」 グラウンドの横を通った美波は、そんな田村に声をかけられた。田村は千笑の彼氏としてはもちろん、同じクラスのため、話すことも多い。 早朝から一人で練習をしている田村を見て、美波は思わず感心してしまった。 「おはよう……そっちこそ」 「ん? どうした?」 驚いた表情をしている美波に、田村が尋ねる。 「ううん……すごい努力してるんだね。昨日の試合も、頷ける」 「まあね。やっぱり人の倍以上練習しないと、上には上がれないと思うし。あ、昨日、千笑と一緒に見に来てくれてたんだって? ありがとう」 爽やかにそう言った田村に、美波は微笑んだ。 「ううん。本当にすごかった。鳥肌立ったもん」 「あはは。言い過ぎ。それに、鈴木だって中学時代から陸上で賞も取っててすごいって、千笑が言ってたよ」 「私なんてすごくないよ。もう、千笑ってば……」 その時、グラウンドに数人の人影が出て来た。話していたおかげで、朝練の時間が迫っていたのだ。 「あ、ごめんね。練習の邪魔しちゃって」 「いや。それより、今度は俺が応援しに行くよ」 「……えっ?」 田村の言葉に、美波は驚いた。 「え? って……もうすぐ陸上の大会なんだろ? 昨日わざわざ来てもらったんだし」 「い、いいよ、そんなの。そっちだって、部活で忙しいのに……」 田村の言葉は嬉しかったが、野球部が忙しいことは知っている。 だが、謙遜している美波に構わず、田村の笑顔は変わらない。 「あはは。それはお互い様だろ? それに鈴木は、千笑の友達だもんな。大事にしますって」 笑ってそう言う田村に、美波も静かに微笑んだ。だが何故か、心がざわついているような、不思議な感覚が美波を襲う。 「ああ、うん……ありがと。じゃあね……」 無意識に引きつった笑顔で美波はそう言うと、そのまま部室へと向かっていった。 走って部室へ向かう間、美波の脳裏には田村の言葉がこだましていた。 『千笑の友達だもんな。千笑の……トモダチ──』 (……嫌だな。どうして悲しいんだろう。本当のことじゃない。それなのに、どうしてこんなに胸がバクバクいってるのか、わからないよ……) 美波は陸上部の部室に辿り着くと、ドアの前で息を切らせて深呼吸した。 (どうして……? 私、おかしい。昨日の今日で、どうして今まで友達だった人を、途端に意識しているの? しかも親友の彼氏だよ。おかしいよ、私……) 「おはよう、鈴木」 その時、美波はやって来た部活の先輩に声をかけられた。 「あ、おはようございます」 ハッと我に返って、美波は振り向いて挨拶をする。 「どうしたの? 珍しいね。鈴木が息切らしてるなんて。もうすぐ大会なんだから、なまけてちゃ駄目よ」 「はい。大丈夫です……」 美波は頷きながら微笑んだ。 (大丈夫? 私、ちゃんと笑えてる……?) 美波は波打つ心を抑えながら、部室へと入っていった。
「おはよう、美波」 その日、朝練を終えた美波が教室に入ると、すぐに千笑が声をかけてきた。いつもの光景だ。 寝坊の多い千笑は、未だに眠そうな顔をしており、朝練ですっかり血色の良い美波とは対照的である。 「おはよう、千笑……」 「ねえ、宿題見せて?」 「あはは。しょうがないなあ……」 朝の少ない時間、美波は呆れたように千笑にノートを差し出す。これもまた、いつもの光景だった。 「うわ、セーフ!」 その時、慌てた様子で教室に入って来たのは、田村だ。ギリギリまで朝練をやっているので、いつもチャイムギリギリの教室入りとなる。 「おはよう」 田村はそう言って、千笑の隣に座った。二人が付き合い始めたきっかけは、隣の席になったことが原因である。なにより田村は、誰にでも気さくに話しかけるので、入学間もなくして二人と仲良くなったことも事実だ。 もちろん、千笑の後ろの席である美波とも、田村はよく話すクラスメイトだ。 「おはよう、智樹。今日も朝練、お疲れさま」 千笑はそう言いながらも、宿題を写すことを止めない。 「宿題? 鈴木、俺も写していい?」 「う、うん……」 すかさず参戦する田村に苦笑しながら、美波は二人の後姿を見つめていた。 思い起こせば、二人との楽しい思い出はたくさんある。美波と田村は、入学当時に席が隣同士だった。忘れた教科書を見せてあげたり、逆に借りたこともあった。練習でぐったりして眠っている田村の顔を見たこともある。そのすべてが輝き出したように、美波の中で田村への意識が、確実に変わっていっていた。 「終わった! ありがとう、美波」 しばらくして、千笑が振り向いて言った。 「あ、うん……」 「あ、俺まだ。もうちょっと待って」 そんな田村を尻目に、千笑は完全に美波の方を向いて話し始めた。 「美波、もうすぐ大会でしょ。いつだっけ?」 「今度の日曜日」 「ええ!」 美波と千笑の会話に割って入るように、田村が振り向いて叫んだ。 「な、何?」 「なんだよ。俺、その日も試合じゃん!」 「そっか。でもその日は、美波優先だからね。時間がずれればいいんだけど」 千笑が言う。 「うん。それはいいけど、俺も鈴木の応援行きたかったな……陸上の大会って行ったことないし、昨日のお礼にさ」 「まあ、仕方ないね……智樹は甲子園目指して、突き進まなきゃ」 「うん……ごめんな、鈴木」 そう言う田村は、本当にすまなそうにしていた。そんな田村に、美波は優しく首を振る。 「ううん。お互い、部活優先だよ。私だって、昨日はたまたま部活と時間がずれてたから行けただけのことだし……本当に気にしないで」 美波が言う。残念なような、ホッとしたような、なんとも不思議な気持ちだった。
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