(写真スタジオの一角にある小さな事務室。男性従業員二名、女性従業員四名。バイトを含めても十人足らずのこの場所で、ダントツ若くて背が高くて、カッコ良くて注目を浴びるのは、この僕……) とある写真スタジオの事務室で、事務の女性たちに囲まれながら仕事をしているのは、高校一年生の、木村広樹である。長めの髪を束ね、女性だらけのこの事務所で働くことに喜びを感じていた。 「みんな、集まってくれ」 そこに、数人の男たちとともに、このスタジオの社長でありカメラマンである、三崎晴男が入ってきた。 「今日から俺の助手としてバイトしてくれる、諸星君だ」 そう言って三崎が紹介したのは、高校生の少年だった。 制服姿の少年はかなりの長身で、長めの前髪と眼鏡で顔はよく見えないが、顔立ちも派手で整っている。 それを見て、広樹の表情が途端に険しくなった。 (そう、こいつが来るまでは……) 広樹は口を尖らせ、少年を睨むように見つめる。 (こいつ、同じ年くらいかな? うーん、僕より背が高い……制服からして、金持ちの進学校……頭の良い、ぼっちゃんかよ。顔も意外と……ああ、厄介なのが来たなあ。僕の天下が……) そんなことを思いながら、敵対心剥き出しの様子で、広樹は少年をチェックする。 スタジオ系の仕事は男性ばかりだが、事務所には女性が多い。アルバイト開始当初、広樹はスタジオの仕事を手伝っていたが、最近は事務方の仕事を任され、女性たちに甘やかされるように仕事をしている。そんな広樹の居場所を脅かすかもしれない相手が現れたことで、広樹は少し戸惑いを感じていた。 「広樹。彼の面倒、よろしくな」 「ええ? なんで僕が……僕は事務方の人間っすよ?」 三崎に突然話を振られ、広樹が抵抗して言う。 「理由はおまえと同じ年だからだ。事務方って言っても、スタジオの手伝いもしてるんだ。基礎くらいは教えられるだろ。とりあえず、スタジオの片付けやっておけよ」 そう言って三崎は男たちと事務室から出ていってしまったので、広樹は仕方なく新人の少年を連れて、同じ敷地内のスタジオへと入っていった。 「おまえ、名前何だっけ?」 腹をくくって、広樹が尋ねる。 「……諸星鷹緒」 少年はぶっきらぼうにそう言った。 「へえ……僕は木村広樹。知り合いの伝手でバイト始めて、今は事務所の企画と公報の手伝いをしてるんだ。おまえは三崎さんの助手のバイトだから、あんまり関わりはないかもしれないけど、まあよろしく」 広樹がそう言うと、鷹緒と名乗った少年は無愛想に頷いた。 その後、広樹は機材の片付け方を教えながら、鷹緒と二人きりでスタジオを片付けていった。
数週間後。広樹は事務室でパソコンに向かいながら、手書きの企画書の写しを作っていた。 「やっぱり若い人は違うわよね。パソコンに関しては、広樹君が居てくれないと本当に困るわ」 「あはは……僕が雇われた意味が、こういう時にわかりますよ」 女性事務員たちに言われ、広樹が苦笑して言う。広樹の目の前には、データ化しなければならない書類が山のようにあった。 「広樹君。少しこっちに回して。こっちの仕事、もうすぐ終わるから」 そう言って、広樹の前のデスクから顔を覗かせたのは、この事務所で唯一の二十代前半である、中島聡子であった。 「聡子さん。ありがとうございます……」 少し紅くなってそう言いながら、広樹は聡子に書類を渡した。書類の山からちらりと見える聡子の顔は、優しく笑っている。 女性に囲まれた中で、年も近く姉のような存在の聡子に、広樹は恋心を抱いていた。 「おつかれさまです」 そこに、新人スタジオアルバイトの鷹緒が入ってきた。仕事内容は違っても、会う機会も多い。 「スタジオの仕事終わったんで、こっち手伝うように言われたんですが」 「あら、助かるわ。今の時期、フル稼働でも事務は忙しいのよね。パソコン使えるかしら?」 鷹緒に、事務員の一人が尋ねる。 「はい」 「若いからそうよね。ええっと、じゃあ聡子ちゃん。教えてあげてくれる?」 鷹緒は空いている聡子の隣の席へ座らされ、パソコンに向かう。 「へえ。仕事早いのね」 仕事を教えながら、鷹緒に向かって聡子が言った。そんな鷹緒が、広樹は面白くなかった。
「まったく……結局、いつも僕らだけなんだよなあ」 しばらくして、定時に帰った主婦の事務員たちを思い出し、広樹が言う。事務室には、広樹と鷹緒、聡子の三人だけが残されていた。 「そうね。ちょっと休憩しようか。コーヒー入れるね」 そう言って、聡子が立ち上がる。そして手際良くコーヒーを入れると、広樹に差し出した。 「ありがとうございます」 広樹は嬉しそうに受け取ると、ちらりと鷹緒を見た。鷹緒は手を緩めることなくパソコンに向かい、仕事を続けている。 「はい、諸星君も」 「ああ、ありがとうございます。そこへ置いておいてください」 聡子の言葉にも態度を変えることなく、鷹緒は淡々と仕事を続けている。そんな鷹緒に、聡子は苦笑した。 「諸星君って、根詰めるタイプなのね。でも、少しは休まないと体に悪いわよ」 「そうだよ。せっかく聡子さんがコーヒー入れてくれたんだ。おまえも休憩しろよ」 聡子に続いて広樹もそう言ったが、そんな二人の言葉に耳を傾けず、鷹緒は生返事で仕事を続けている。 仕方なく、聡子と広樹は苦笑すると、応接スペースで小休憩を取った。 その時、社長の三崎が入ってきた。 「おつかれ。急な仕事が入ったんだ。撮影スタッフに招集かけてくれ。急な仕事で人手が足りないから、使える事務スタッフにも声掛けて。明日は伊豆へ撮影だ」 三崎がそう言うと、聡子がすぐに立ち上がる。 「何時にどこへ集合ですか?」 「夜中の二時半集合。車で行くから、場所はここだ」 「わかりました」 聡子は手馴れた様子で、電話をかけ始める。 「おまえらはバイトだが、明日空いてるか?」 「はい」 広樹と鷹緒が同時に言う。 「じゃあ、二時半にここに来てくれ。明日は久々に晴れるらしいから、この間出来なかった撮影の続きをやることになった」 「わかりました。あ、僕、ここに泊まってもいいですか? その時間じゃ、電車もないし……」 三崎に向かって、広樹が言った。 広樹はここから数駅離れた場所に住んでいるため、出る時の電車はない。自転車にしても、かなりの時間がかかる。 「……じゃあ、俺んち来る?」 その時、三崎が答える前に、鷹緒がそう言った。 「え……いいのか?」 突然の鷹緒の申し出に、広樹が驚いて尋ねる。未だあまり話したこともないが、殺風景な事務所で寝るよりは、この際どこでもありがたいと思った。 「うち近いし。べつにいいよ」 そう言う鷹緒は、特に気に留めた様子もなく、善意で言ってくれているようである。 「よかったな、広樹。じゃあ頼むよ、鷹緒」 「はい」 三崎の言葉に鷹緒は頷くと、すぐに鷹緒は家へと連絡を入れていた。 「よし、じゃあ今日はここまででいいぞ。早く寝て、明日よろしくな」 「了解です」 一同は、その場で解散していった。
「悪いな、急に泊めてもらうなんて……」 夜の街を歩きながら、広樹が言う。 「べつにいいよ」 その時、遠くから演説のような声が聞こえてきた。見ると人だかりが出来ており、街宣車の上には政治家が立っている。 鷹緒がふと立ち止まったので、広樹もその横に立った。 「ああ、選挙が近いのか……」 そう言う広樹の横で、鷹緒はじっとその光景を見つめている。広樹もそれに倣って人だかりの方向を見ると、政治家の幟がはためいているのが見える。『もろぼしせいじ』と書かれているその幟を見て、広樹は鷹緒を見つめた。 「……もしかして、親戚か何か?」 鷹緒と同じ苗字の候補者と知って、広樹が尋ねる。すると、鷹緒が突然歩き出した。 「おい、鷹緒?」 「……親父」 背を向けた鷹緒からそんな声が聞こえ、広樹は驚いた。 「えっ? おい待てよ、鷹緒……」 「鷹緒君?」 そこに、女性のそんな声が聞こえ、鷹緒と広樹は立ち止まった。目の前には、赤ちゃんを抱いた若い女性が立っている。 「やっぱり鷹緒君。久しぶりね」 笑顔でそう言う女性の言葉に、明らかに戸惑っている鷹緒は、バツが悪そうに立ち止まっている。 「演説、聞いていって?」 「……急いでるんで……」 鷹緒はそう言うと、女性の横をすり抜けていった。 「鷹緒君! いつでも来てね!」 女性の言葉を背中で受けながら、広樹は鷹緒の後を追いかける。 「おい、よかったのかよ、あの人……」 広樹がそう声をかけた時、鷹緒が一軒の家のドアを開けた。高級住宅街の一角に立つ、日本家屋の大きな家であった。 「ただいま……」 鷹緒に続いて、広樹も中へと入っていく。 「おかえりなさい。まあ、いらっしゃい。どうぞ上がってちょうだい」 走って出迎えたのは、優しそうな五十代くらいの女性である。広樹のことも優しく出迎えてくれた。 「あ、突然お邪魔します! 木村広樹といいます。お世話になります」 広樹はそう言って、勧められるがまま家の奥へと入っていった。 案内された居間は広く、広樹はそこで夕食を勧められ、大きな風呂へも入り、二階の鷹緒の部屋へと案内された。すでに部屋には、ベッドの他に布団が敷かれている。 「ああ、至れり尽くせりで。ありがとうな。しかし、優しいお母さんだな。家も風呂もデカいし、おまえの家すげえな」 風呂上がりの広樹が、髪を乾かしながら言う。 「母親じゃないよ……あれは伯母さん」 ベッドに寝そべりながら、鷹緒が言った。 鷹緒の一言に、広樹はさっき見た政治家のことを思い出し、鷹緒の複雑な事情に感付く。 「なんか……複雑な事情がありそうだな……」 ごく普通の家庭に生まれた広樹には、鷹緒にどんな事情があるのか想像もつかず、鷹緒を見つめたまま、返事を待った。 「……何?」 そんな広樹に、鷹緒が尋ねる。 「え? いや。さっきの政治家……マジでお父さんなの?」 「……べつに、嘘言ったってしょうがないじゃん」 「そうだけどさ……あれ、衆議院議員だろ? 僕でも知ってる」 広樹の言葉に、鷹緒は深い溜め息をついた。広樹は疑問を顔に出したまま、首を傾げることしか出来ない。 「……諸星政司。妻が病死して一年足らずで若い女と結婚するような、世間じゃ偽善者面の悪徳政治家だよ」 静かに、鷹緒がそう言った。 「じゃあ、さっきの女の人は……おまえの義理のお母さん?」 広樹は、鷹緒が抱えている事情を少し理解していた。 政治家の父を持ち、母親は病死して若い義理の母がいる。義理の母の手に抱かれた赤ん坊は、おそらく鷹緒の義理の兄弟なのだろう。そして、何らかの事情で伯母の家に預けられているようだ。なんとなく、鷹緒が独特の雰囲気を持っているのがわかった気がした。 鷹緒の事情を悟り、広樹はもう何も聞くことが出来なくなっていた。 「……悪い」 「……俺も風呂入ってくるよ。布団敷いといたから、先寝てていいし。好きに使って」 鷹緒はそう言うと、部屋を出ていった。 広樹は早速布団に寝そべるが、まだ寝られる雰囲気ではない。軽く部屋を見渡した後、側に置いてあった鷹緒の学校の教科書を何気なく開いた。自分の高校でやっているレベルとは違う。 「もうこんなところまで進んでんだ……」 そのまま教科書などを読み漁っていると、しばらくして鷹緒が戻ってきた。 「なんだ、まだ起きてたのかよ」 そう言う鷹緒は、タオルで髪を乾かしながら、かけていた眼鏡を取った。濡れた髪は無造作に掻き上げられていて、同性の広樹さえもドキッとするほどの色気がある。 「……何?」 広樹の視線に気付いて、鷹緒が怪訝な顔をする。 「おまえ……モテるだろ?」 唐突に、鷹緒が外した眼鏡をかけながら、呆れるように広樹が言った。 鷹緒の出現に対抗意識を燃やしていたが、諦めがつくほどに、自分とは違う部類だと悟る。 「はあ?」 「あれ、あんまり度ないじゃん。もしかして伊達かよ? モテ過ぎて変装ですか、鷹緒サン。さっきから、何度も携帯鳴ってましたよ」 からかうように広樹が言ったので、鷹緒も苦笑した。 「どうとでも言えよ。でもそれがないと、一番後ろの席から黒板の字が見づらいんだよ」 「嘘つけ。伊達眼鏡だろ。そんな顔なら、眼鏡しなけりゃもっとモテるだろうに……」 「なんだよ、おまえ。男に興味でもあんの?」 悪戯な瞳で、今度は鷹緒が広樹を見つめる。 「馬鹿野郎。誰がそんな……」 「そうだよなあ。おまえが好きなのは、聡子さんだもんな?」 鷹緒にズバリを言われ、広樹は飛び上がるほど驚いた。 「な、なんで知って……」 「バレバレなんだよ、わかりやすい……言っておくけど、俺に変な対抗意識とか燃やされても、無駄だから。面倒臭いことには興味ない。かといって、おまえに協力するつもりもないけどな」 そう言って、鷹緒はベッドに座ると、折り畳んだ携帯電話を開く。 「……いつ気付いた?」 やがて広樹が、自分の気持ちがバレてしまっていたことに驚きながら、鷹緒に尋ねる。 「いつってことはないよ。なんとなく……見てればわかる」 鷹緒は携帯電話見つめながら、ベッドに寝そべって答えた。 「……おまえだって、わかるだろう? あの人、綺麗だし、仕事出来るし、優しいし……」 開き直ったように、広樹は聡子の魅力について、鷹緒に訴えかけるように話し始める。それに反して、鷹緒の表情は変わらないままだ。 「ふうん」 「おまえなあ。あの人の魅力がわからないわけ?」 「べつに、よく知らないし……」 「そりゃあ僕だってそんなに知らないよ。でも、前に家まで送ったことがあってさ。まだ実家に住んでるんだけど、弟と妹がいて。その時、妹さんにも会ったけど、妹さんも聡子さんに似ててかわいいんだ」 「へえ……」 「それで、送ってくれたお礼にって言って、家でコーヒーご馳走になったんだけどさ。お母さんも優しい人で。家族みんないい人ばっかでさ、あの時は優しい聡子さんの人間性がここで作られたんだなって実感したよ」 熱弁を振るう広樹に、鷹緒はあくびをした。 「……まあ、俺はあんまり興味ないや」 まったく興味を示さない鷹緒に、広樹は少しショックだった。恋のライバルにはなりたくないが、聡子の魅力を知ってほしいと思う。 「なあ……おまえ、彼女いる?」 広樹が尋ねた。 「んー、いるといえばいるけど……」 鷹緒の曖昧な返事に、広樹は苦笑する。 「……やっぱりおまえ、モテるだろ。教えてもらいたいもんだね、モテる男の極意を」 そう言った広樹に、鷹緒も苦笑した。 広樹は鷹緒の一面を知り、鷹緒へ人間としての興味を持ち始めていた。 「……そこそこ背が高くて、そこそこ頭が良くて、そこそこ普通に生きてりゃ、それなりにモテんじゃない? おまけに親が有名なら尚更……」 やがてそう言った鷹緒に、広樹は吹き出すように笑う。 「おまえも相当捻くれてるな」 「悪かったな。いろいろ複雑ですので」 二人は笑った。もうすでに、打ち解け合っているようだった。
数時間眠った広樹と鷹緒は、真夜中に家を出ていった。スタジオに行くと、すでにスタッフたちが続々と集まっている。その中に、聡子もいた。 集まったスタッフたちは、数台の車に分かれて乗り込む。広樹と鷹緒も、ワゴン車の最後部へと乗り込んだ。 「おはよう、広樹君、諸星君。隣いい?」 そこに、後から乗り込んできたのは、聡子である。 「聡子さん。どうぞ、どうぞ。おはようございます……ですかね?」 「あはは。だって、寝起きの顔してるわよ」 聡子に言われ、広樹は紅くなる。 広樹は鷹緒の方に寄り、聡子を窓側へ招き入れた。ワゴン車の最後列には、広樹が鷹緒と聡子に挟まれる形となった。そのまま車は、夜の街を走り出す。 車が走り出すと、広樹の気持ちを知っている鷹緒は、チャンスとばかりに広樹の肘を突いて促し、広樹たちには目も向けず、頬杖をついて流れる景色を見つめた。 広樹は聡子と二人きりの感覚に陥り、少し緊張した。だが長い移動距離を考えても、たくさんの話が出来るチャンスである。しかし広樹は、緊張して何を話せばいいのかもわからなくなる。 沈黙が続く中で、ふと広樹が隣を見ると、鷹緒はそのまま眠ってしまっていた。 「広樹君……」 事実上、二人だけの世界で先に沈黙を破ったのは、聡子であった。 「は、はい……」 「……私ね、もうすぐ仕事辞めるんだ」 突然の聡子の言葉に、広樹は驚いて聡子を見つめた。 「……えっ……?」 広樹の驚きように、少しの間眠っていた鷹緒も目を覚ました。しかし、それに構っていられず、広樹は聡子に訴えかける。 「どうしてですか? そんな、急に……」 「……結婚するの。もう、お腹に赤ちゃんもいてね……」 それを聞いて、広樹は顔面蒼白になった。 聡子のことは、密かに憧れていただけで、何も知らなかったのだと思い知らされる。ましてや恋人がいたことすらも知らず、広樹の気持ちは、ここで完全に叶わなくなった。 「そう、なんですか……おめでとうございます」 引きつった笑顔で、広樹が言う。しかしそれ以上、広樹は何も言えなくなっていた。 その日の撮影は、久々の良い天気に反して、広樹は魂が抜けたようであった。上司に注意をされても、何も考えることが出来なかった。
十数年後。 (……そんな想いを胸にしまって、恋愛とは無縁の鬼社長がいる。それが僕。学生時代に三崎社長が渡米したため、三崎スタジオの経営を任されたことをきっかけに、独立してタレント事務所を立ち上げた。従業員の中には、十数年間腐れ縁で続いてきた友達、諸星鷹緒もいる。これだけ長く一緒にいられたのは、悔しいけれどあいつの才能と、なにより僕の心の広さだろう……) 広樹はタレント事務所の社長をしており、日々のスケジュールに追われていた。 「おい。聞いてんのか、ヒロ」 その時、ふと、ぼうっとしていた広樹が、そんな声に現実へと引き戻される。 「ん? ああ、もちろんだよ。でも、驚いて声も出ない。急に前触れもなく、結婚だなんて……せめて僕には、先に言うべきなんじゃないのか?」 事務所の社長室で、広樹は目の前の鷹緒に向かってそう言った。 「俺だって、急だよ」 そう言う鷹緒は、近々結婚が決まっていた。相手は鷹緒の親戚で、広樹の事務所の専属モデルである、小澤沙織という二十歳の女性だ。鷹緒と年は十歳以上離れているが、二人が愛し合っていることは、広樹もよくわかっている。 しかし、鷹緒からその報告を受けたのは、昨日居酒屋で開かれた鷹緒の恋人・沙織の誕生日会であったため、未だ広樹は驚きを隠せない。 「とにかく、今抱えてる仕事詰めるから、今度の週末、一日休ませてもらえないかな?」 鷹緒の言葉に、広樹は溜め息をつきながら頷く。 「ああ。いいよ、いいよ。おまえの働きぶりはわかってるし、反対する理由はない。でも、思い切ったな」 「……あいつが、どうしてもってね。あいつの親も大賛成だし。不安はあるけど、うまくやっていくよ……」 二人は静かに微笑んだ。 「でも、一日でいいのか? 挨拶回りだろ」 広樹が尋ねる。 鷹緒は今週末に、一日休みを希望している。今では売れっ子のカメラマンである鷹緒に休みなどほとんどないが、結婚準備のためとあらば休みをあげないわけにはいかない。なにより鷹緒は、仕事に対して真面目すぎるほど日頃からよく働いている。 「そう休めないことはわかってるよ。俺も仕事溜めるの嫌だし。それに挨拶回りって言っても、伯母さんの所だけだよ」 そう言った鷹緒に、広樹は懐かしそうな目を向けた。 「伯母さんか。僕からもよろしく言っておいてくれよ。おまえの伯母さんには、ずいぶん世話になったからな」 鷹緒の伯母さんは、高校時代に鷹緒を引き取った人物で、鷹緒と結婚する予定の沙織の祖母であり、広樹自身も十代の頃から世話になっている。 「わかった。でも、一番気が重い相手だけどな」 「あはは。まあ、おまえの母親代わりだもんな。しかも、相手は沙織ちゃんだし」 「もういいよ。とにかく家族サービスと報告と、式場も見ないといけないし。一日でなんとかやるから」 バツが悪そうに、鷹緒が遮って言う。 「式場か。盛大にやるんだろ?」 「いや。身内だけでやるつもりだよ」 「なんだよ、僕も呼んでくれよ。おまえのことは、新婦より知ってるんだからな。溜め込んできたものを暴露してやってもいいんだぞ」 「ハハハ。暴露するようなものがあれば、どうぞご自由に」 二人は笑った。 「まあ頑張れよ。休みはやるから、早く仕事にかかれ」 「はい、社長。ありがとうございます」 鷹緒はそう言うと、社長室を出て行った。
週末の昼休み。広樹が経営する事務所のモデル部署で、女性事務員の二人が、なにやらざわついている。 そこに、副社長の石川理恵が、外回りの仕事から戻ってきた。 「どうしたの? 二人とも。そわそわしちゃって」 女性事務員の二人に、理恵が首を傾げながら声をかける。 「理恵さん。社長って、付き合ってる人とかいるんですか?」 突然の言葉に、理恵は瞬きをした。 「え、ヒロさん?」 「何回アプローチかけても、全然駄目なんですよ。この間も飲みに誘ったら、じゃあみんなも誘おうとか言っちゃって……私って、そんなに魅力ないですか?」 泣きそうなまでの事務員の一人に、理恵が苦笑する。 「なに? あなた、ヒロさんのこと……」 「もうずっと好きなんですよ。社内恋愛はどうかとも思うけど、真剣なんです。諦められないんです。でも全然気付いてもらえなくて……それって本命がいるからってことですかね?」 「さあ……まあ昔はヒロさんも、いろいろと噂もあったけど、今は全然聞かないわね……」 広樹の昔馴染みの友人として、理恵が答える。 「中にはモデルの子で社長のこと狙ってる人もいるらしくて。ハードル高いんですよ。鷹緒さんも結婚しちゃうし、もしかして社長もそろそろ……」 その時、時計が午後一時を示した。昼休みの終了だ。 「まあ、私はそういうことは知らないわ。本気だったら諦めないことね。さあ仕事、仕事」 理恵はそう言うと、気の抜けた事務員たちを仕事に戻らせ、自分のデスクへと戻っていった。
社長室で、ふと広樹は一日休暇を取っている鷹緒のことを思い出し、結婚について考えていた。 思えば同じ年であり、長い付き合いの鷹緒は、結婚に踏み切り、自分とはまったく別の人生を歩んでいる。 若い頃はそれなりに遊んでいた時期もあった広樹だが、未だ恋人以上の関係になるような相手が見つからず、親友の結婚は考えさせられるものがあった。 そんな広樹のもとに、副社長の理恵がやってきた。広樹とは、鷹緒と同じく十年以上の付き合いの友人である。 「ヒロさん、どうかしたんですか? ぼうっとしちゃって」 苦笑しながらそう言う理恵は、数枚の書類を広樹の前に置く。 「鷹緒さんからメールが来てました。AE社の新雑誌の特集ページで、うちの新人モデルを起用してくれるよう、取り計らってくれたみたいです。社長のほうから、正式契約お願いします」 「うん、了解です。まったく、休みと言いながら、仕事に抜かりないんだから……」 広樹が苦笑しながら、書類を見つめて言った。 「理恵ちゃん……なんであいつはモテるんだろうね?」 「え?」 突然の広樹の言葉に、理恵は驚く。 「やっぱり仕事が出来て、自然とそういう気配りが出来るところかなあ」 しみじみと広樹がそう言ったので、理恵が苦笑する。 「なんですか? しみじみしちゃって。ヒロさんだって、モテるでしょう?」 「僕が? それ、嫌味?」 「まさか。本心ですけど」 それを聞いて、広樹は大きく笑う。 「僕の一番のモテ期って、中学から高一にかけてなんだよね。何度か告白もされたし、付き合ったし、バイトすればちやほやされるし。だけど、そんな一番有頂天の時に鷹緒が現れて、圧倒されたよ。毎日のようにラブレターは貰うし、街を歩けば知らない人からでも告白されるし、まるで芸能人みたいだったからね」 広樹の言葉に、今度は理恵が笑った。 「本当、男の人って、女心が分からない動物ですよね」 「え? どういうこと?」 怪訝な顔をして、広樹が理恵を見つめる。 「だってヒロさん、本当になんにも気付いてないんだもの。確かに鷹緒は目立つ存在だけど、ヒロさんだって同じでしょう? 二人並ぶと、どちらかが霞むんじゃなくて、そこだけ華があるのに」 「……言うね、理恵ちゃん。うまいなあ」 「なに言ってるんですか。まあ、気付いてないならいいですけどね……でも、ヒロさん。大抵、モテる人っていうのは、自分じゃ気付いてなかったり、気にしてないと思いますよ?」 「まあね。それは鷹緒見てたらわかるよ。あれでカッコつけなら嫌味だもんな……でも僕はモテてないよ。告白だってここ数年されてないし」 「ヒロさんは社長だから、社員もモデルもそうそう告白出来ませんって。それに好きになってくれるのを待ってるんじゃなくて、やっぱり自分が好きになった人には、自分から行動するべきじゃないのかなあ」 理恵の言葉に、広樹は静かに微笑んだ。 「……そうだね。確かに自分から行動しなきゃ、何も始まらないよね。その相手を見つけるのもまた、苦労するところなんだけど」 「どうしたんですか、今日は」 「んー、なんだろ……ここしばらく、ちゃんと恋愛してなかったからさ。理恵ちゃんにも恋人がいるし、なにより同じ年の鷹緒が結婚するって聞いて、ちょっと考えさせられてるんだ。僕は何をしてるんだろうってね」 広樹の話を聞きながら、理恵は首を傾げる。 「そういえば、ヒロさん、最近はそういう話、聞かないですね。若い頃はモデルだなんだって噂、結構聞きましたけど?」 「あはは。いつの話? それに、僕はまだまだ若いですよ。でもね、そうやって考えてみると、僕も鷹緒のことを言ってられなくて、ちゃんと恋愛してこなかったと思うんだよね……」 「へえ。そうなんですか?」 いつの間にか、恋愛相談の聞き役になっている理恵は、広樹の話に聞き入るように頷く。 「うん……それに最近、やけに思い出す人がいるんだよね……僕が高一の時に好きだった人なんだけど、結婚して会わなくなって……伝えることすら出来なかったけど、思えば本気といえる恋って、その時だけなのかもしれないって思ってさ……」 真剣な顔をして広樹が言う。そんな広樹に、理恵は優しく微笑んだ。 「今でも好きなんですね、その人のこと」 「え?」 「もう思い出かもしれないけど、原点はその人なんでしょう? ちゃんと過去の恋愛に向き合わないと、先へ進めませんよ……って、経験者は語る」 理恵の言葉に、広樹は笑った。理恵もまた、不器用な恋愛を繰り返してきた女性だ。広樹の気持ちには共感出来た。 「説得力が違うね……そうだね、勉強になったよ。悪かったね、こんな話」 「いいえ。じゃあ契約の件、お願いします」 理恵は社長室を出て行った。広樹は静かに微笑んで、外を見つめた。
しばらくして、広樹の携帯電話が鳴った。着信画面を見ると、鷹緒からの電話である。 『おう、ヒロ? 今、大丈夫か?』 広樹が電話に出ると、鷹緒の声が聞こえる。 「ああ、なんだよ。そっちは終わったのか?」 『うん。今、式場の下見中だけど……おまえ、今晩暇?』 「は? なんだよ、急に……」 『暇なら一杯付き合えよ。沙織もおまえと一緒に飲みたいってさ』 結婚式場で、婚約者の沙織と視察をしながら、鷹緒は電話しているようだった。 「まあ、いいけど……」 『じゃあ、七時にホテル・マリージュベルのレストランで』 「ホテル? そんなところで?」 少し驚いて広樹が言った。いつも飲むといえば、近くの居酒屋か小料理屋に決まっているからである。 『まだ式場の下見してるんだ。もう少し見たいし、たまにはそういうところで上品に飲むのも良いだろ? 奢るよ』 「そんなのはいいけど……」 『じゃあ七時にな。俺もスーツだし、ホテルなんだからジャケットくらい着て来いよ』 一方的に、鷹緒はそう言って電話を切った。 鷹緒がホテルのレストランへ自分を誘うのは初めてなので、広樹は首を傾げながらも、鷹緒の誘いに乗ることにした。
「ヒロさん!」 ホテルのレストラン入口で、ヒロはそう声をかけられた。見ると、少し大人っぽい服装の女性が駆け寄ってくる。広樹の事務所の専属モデルであり、鷹緒の婚約者でもある沙織だ。 「沙織ちゃん、おつかれさま。なんか鷹緒に呼ばれて来たんだけど……僕、お邪魔じゃないのかな?」 「いえ。私のほうがお邪魔みたい。こっちです」 沙織に案内されながら、広樹はレストランの中を進んでいった。すると、窓際の席に鷹緒がいるのが見えた。しかし一人ではなく、鷹緒の前には女性が座っている。 「ヒロ」 広樹に気付いて、鷹緒が呼ぶ。広樹は最初、鷹緒の前に座る女性が誰なのかわからなかった。 「広樹君。お久しぶりです」 女性に声を掛けられ、広樹は驚いた。 「……聡子さん?」 それ以上何も言えず、広樹は鷹緒を見る。女性はもう十年以上会っていない、広樹の初恋ともいえる女性・中島聡子に間違いなかった。 このところ聡子のことがよく思い出されていたのは、この再会を予感していたのかもしれないと、広樹は思った。 「びっくりしたか? まあ座れよ」 鷹緒は満足気な顔つきで、広樹を見て言う。 広樹は聡子に会釈をして、聡子の隣にゆっくりと座った。 「びっくり……したどころの話じゃない。息が止まるかと思ったよ……」 「偶然会ったんだよ。結婚式場で働いてるんだって。久しぶりだし、おまえも会いたいと思ってさ」 未だ驚いた様子の広樹に、笑いながら鷹緒が言う。 「私もびっくりしたのよ。突然、諸星君に声かけられて、もうすっかり大人になったんだって気付かされたわ」 懐かしい声のまま、聡子がそう言った。変わらない、気さくで明るい聡子だと思った。 四人は昔話から近況まで、さまざまな話を弾ませる。広樹も久々に時が戻ったかのように、楽しい時間を過ごしていた。
「じゃあ、俺たちは先に失礼します。後はお二人でどうぞ。聡子さん、今日は突然誘ってすみません」 しばらくして、立ち上がりながら鷹緒が言った。それに続いて、沙織も立つ。 「いいえ。私も久しぶりに、二人に会えて楽しかったわ」 「よかった。じゃあ、また連絡します」 鷹緒はそう言うと、沙織とともに歩き出した。そんな二人を、広樹が追いかける。 「待てよ、鷹緒。僕も勘定を……」 慌てた様子で広樹が言ったので、鷹緒は軽く首を振った。 「ああ、もう払ってあるからいいよ」 「紳士か、おまえは……」 「そんなことより、聡子さん一人にするんじゃねえよ。あと、おまえは酒癖悪いんだから、酒はほどほどにしろよ。勘定はおまえが払ったことにしていいからな。ちゃんと家まで送れよ。送り狼にはなるなよ」 親のように、鷹緒が続けて言う。 「子供じゃあるまいに……わかってるよ」 「広樹サン。過去の恋愛に向き合わないと、先へ進めませんよ」 突然、悪戯な瞳になった鷹緒に、広樹は感付いた。 「おまえ……理恵ちゃんになにか聞いたな?」 さっき理恵に同じ言葉を言われたことで、鷹緒と理恵が自分について何かを話していたのだということを、広樹は悟った。 「べつに。仕事の件で話したついでに、あいつがおまえの様子がおかしいって言って、話してただけだよ」 「僕の様子って……」 「恋愛について考えてるとか、高一の時に好きだった人を思い出すとか。そしたら聡子さんに会っただろう? これは会わせない手はないと思ってね」 「余計なことを……」 「余計なことか? まあ、とにかく早く戻れよ。ああ、あと聡子さん、離婚したんだってさ」 「え……?」 広樹は、時が止まったかのように驚く。 「……終わるにしても進むにしても、ちゃんとケリをつけろよ」 いつになく人の恋愛で楽しそうな鷹緒に、広樹も苦笑するしかなかった。 広樹は二人を見送ると、聡子のもとへと戻っていった。 「すみません、お待たせしちゃって……」 席に戻った広樹は、聡子と対面する形で座り直す。 「ううん。相変わらず、仲が良いのね」 「そうですか? まあ、こんなに長い付き合いになるとは、正直思っていませんでしたけどね」 苦笑しながら、広樹はそう言った。 「でも、本当に驚いたわ。諸星君と偶然会って、その日に広樹君とも会えるなんて」 「あはは。それは僕もですよ。驚きました。聡子さんが、結婚式場で働いてるなんて」 「うん。数年前から働いているの。広樹君、社長さんなんてすごいわね。諸星君も有名になって……」 聡子の言葉に、広樹は静かに微笑む。 「……聡子さんは、今はどうされてるんですか?」 ゆっくりと、広樹が尋ねた。四人の時は自分たちの話ばかりで、聡子の話を聞けていない。 聡子は飲んでいたワインを置くと、静かに微笑んで広樹を見つめる。 「離婚して、今は娘と二人暮らし……」 「そうですか……あ、すみません、遅くまで。娘さん、寂しい思いしてるんじゃ……」 広樹の言葉に、聡子は首を振る。 「ううん、それは大丈夫。娘も大きくなって、彼氏だなんだで、結局私は放っておかれてるから……それに近くに実家があるから、今日は実家にお世話になってるし……妹も実家に住んでるから、よく一緒に食事したりしてて、大家族みたいで寂しくはないかな……」 聡子が笑った。そんな聡子は、どこか寂しげに見える。 そのまま二人は、静かに酒を飲んだ。 広樹は十代の頃に戻ったように、この時間を幸せと感じていた。聡子は自分にとって誰よりも、安らぎを感じられる人だと改めて思った。
その後、二人はレストランを出て、夜の街を歩く。 「本当にいいの? ごちそうになっちゃって……」 「ええ。鷹緒が奢ってくれて……」 広樹はそう言ったところで、自分が支払ったことにしていいと言った鷹緒の言葉を思い出し、自分の正直さに苦笑した。 「そう。今度お礼しなくちゃ。諸星くん、結婚間近なのに」 「そうですね……」 二人きりの帰り道、広樹はいつになく緊張し、気の利いた言葉の一つも言えなくなっていた。 そんな広樹に、聡子が微笑む。 「ここでいいわよ、広樹君」 「あ、いえ……送らせてください。遅くまで引き止めたのは僕ですから……それに、女性の夜道は危ないですし」 広樹の言葉に、聡子が笑う。 「じゃあ駅まででいいわよ。広樹君、路線も違うし、ここから遠いんでしょ? 家は駅から近いから、大丈夫よ」 聡子の気遣いに、広樹は嬉しさを噛み締め、駅へと歩いていく。 「あの……本当に、会えて良かったです。実はこのところ、よく聡子さんのこと思い出してて……どうしているか気になってたんです」 そう言った広樹に、変わらぬ笑顔で聡子が微笑んでいる。 「ありがとう……お世辞でも嬉しいな」 「お世辞じゃないです。本当に……僕、ずっと後悔していたんだと思うんです……聡子さんに、何も言えなかったこと……」 「……え?」 二人は静かに見つめ合った。 今ならずっと封印してきた気持ちを言えると、広樹は思った。聡子を見ていると、今まで薄れていた気持ちが、鮮やかに蘇るような感覚を覚える。 「聡子さん。あの……」 「お姉ちゃん?」 広樹が言いかけた時、女性の声が聞こえ、二人は振り向いた。それと同時に、二十代後半くらいの男女が近付いてくる。 「佳代子」 聡子が言った。広樹は、その女性が実家に住んでいるという、聡子の妹なのだと悟った。 聡子とともに働いていた頃、聡子を家まで送ったことが何度かあった。その時、妹の佳代子とも何度か会ったことがあるので、少なからず面識がある。 「お姉ちゃんが飲み会だなんて珍しいと思ったけど、ずいぶん早かったのね。もっとゆっくりしてくればいいのに」 聡子の妹・佳代子が、聡子に向かってそう言った。 今日は広樹たちと飲むために、聡子の娘が実家に預けられているというので、実家に住んでいるという聡子の妹にも、必然的に今日の事情は知られているのだろう。 佳代子が、広樹を見てお辞儀をする。 「あれ? 前にお会いしたこと、ありますか……?」 佳代子の言葉に、広樹は頷いた。 「覚えてますか? 木村広樹といいます。もう十数年前ですけど、何度か……」 「そうそう、広樹さん! 覚えてます。お姉ちゃんを何度か送ってくれましたよね。私のことも覚えてます? 妹の佳代子です」 「うん、もちろん。久しぶりです」 広樹と佳代子が笑い合う。数えるほどしか面識はないが、お互いに覚えていたので、盛り上がった。 「あ、旦那の亮輔です。もしかして広樹さん、お姉ちゃんと付き合ってるんですか?」 突然、一緒に居た夫を紹介しながら、佳代子が冗談交じりで広樹に言う。 彼氏なのかと尋ねられ、広樹が言葉を失っている間に、聡子が口を挟んだ。 「なに言ってるのよ。突然失礼なんだから……ごめんなさいね、広樹君」 聡子の言葉に苦笑して、広樹は首を振る。 「いえ。いいんです」 「違うのか……ごめんなさい。でも子供も大きくなってるんだし、お姉ちゃんにも彼氏の一人でも出来るといいなって思ってたんですけど……」 「あはは……僕はただ、友達に誘われて聡子さんに会って、たまたま送ることになっただけの男だから……」 広樹が静かにそう言った。謙遜も入っていたが、聡子への気持ちを自分で否定したようで、胸が痛んだ。 「でも、もう帰っちゃうんですか? もう少し、二人だけでゆっくりしても……」 続けて言う佳代子の言葉に、聡子はうんざりした様子で、恥ずかしさで紅くなっている。 「佳代子、もうやめろって。お姉さんも困ってるだろ。お邪魔しちゃってすみません。じゃあ俺たち、お先に失礼しますんで……どうぞ、ごゆっくり」 佳代子の夫である亮輔は、佳代子を制止させると、意味あり気な言葉を広樹と聡子に投げかけて、佳代子とともに去っていった。 「まったく、あの二人ったら失礼なんだから……ごめんね、広樹君」 去って行く二人を見つめながら、すまなそうに聡子が言った。 「いいですよ。妹さん夫婦、面白いですね。そうか、佳代子ちゃん、確か僕より年下だったと思うけど、もうご結婚なさったんですね……」 困り果てた様子の聡子に、広樹が笑顔で言う。 「ええ……学生時代から付き合ってて、結婚して。仲の良いのはいいけれど、いつまでも恋人気分でいるから、周りは大変なのよ」 そう言って、聡子は苦笑する。 二人はまた駅へと歩き出す。すると、すぐに駅が見えてきた。広樹は名残惜しい気分に駆られながらも、引き止める言葉は何も言えなかった。 「今日はありがとう、広樹君……久々に会えて本当に楽しかったわ。諸星君にも、よろしく伝えてね」 その時、聡子がそう言ったので、広樹も頷いた。 「はい……こちらこそ、急なのに時間を作ってくださって、ありがとうございました。あの……また連絡させて頂いてもいいですか?」 改まって広樹が尋ねた。相変わらず、不器用な自分が情けなく思える。 「ええ、もちろん」 広樹の思いに反して、聡子は軽く頷いた。そんな聡子の態度に、広樹も嬉しさを噛み締めるように笑う。 「じゃあ近々、連絡させて頂きます。また一緒に飲みましょう。今度は、ご家族揃ってでも……」 「ええ、ぜひ。ありがとう……じゃあ、おやすみなさい」 聡子はそう言うと、改札へと向かっていった。 「気をつけて……おやすみなさい」 そっとそう言い、広樹は見えなくなるまで聡子を見送ると、自宅に帰るため、別の路線の駅へと向かっていった。 広樹は聡子と再会し、新しい何かが始まる予感を感じていた。
数日後。広樹は、事務所で写真を広げている、鷹緒のもとへと向かう。 「鷹緒。今度の週末、飲まないか?」 突然切り出した広樹に、鷹緒は広樹を見つめる。 「……俺をダシに、聡子さん誘おうって魂胆か?」 鋭い鷹緒の言葉に、広樹は照れながら笑う。 「アハハハハ……」 「アハハじゃねえよ。一端の大人なんだから、デートの誘いくらい一人でしろよ。あれだけお膳立てしてやっただろ」 「まあ、そう言うなよ。娘さんとか、妹さん夫婦も呼びたいんだ。だから、鷹緒と何人かでさ……」 広樹の言葉に、鷹緒も苦笑する。 「おまえ、散々俺の恋路にとやかく言ってきた割には、自分の恋愛に関しては丸っきり駄目だな」 「おまえなあ……」 「まあいいよ。俺もおまえには世話になってるし、こんな面白い機会、滅多にないからな。沙織も呼んでいいの?」 鷹緒が尋ねる。 「ああ、もちろん。年も近いから、娘さんとも気が合うんじゃないのかな」 「……了解。うまく使われてる気がするけど」 呆れるように言いながらも、鷹緒は笑って広樹を見つめた。 「頑張れよ」 鷹緒の言葉に、広樹も笑う。 「頑張るよ」 いつになく、広樹も真剣な顔をして言った。 時が止まっていた想いが、大人になって、また動き出す。周りの環境は違うけれど、想いは同じ……。
男だって恋をする。少年が大人になっても、初恋は消えないまま……ひとつの恋のカタチ。
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