「ああ、気持ち良い!」 そう言って、勢い良くプールから顔を出したのは、小林冴子。中学三年生の少女である。 「冴子ってば、水を得た魚みたいだね」 プールサイドからそう声を掛けたのは、同じ部活の同級生、竹脇亜由美だ。二人は水泳部に所属し、夏休みの間も毎日練習に励んでいた。 「だって、塾や何だで、昼間の今しか泳げないんだもん。もう引退だしね」 「どう。受かりそう? 海栄南」 亜由美が尋ねる。 海栄南とは、冴子が目指している高校である。都内でも有数の進学校のため、冴子は猛勉強に励んでいた。 「まだギリギリかな……亜由美は頭良いから余裕だろうけど。それに、海栄南より上の学校行くんだもんね?」 「まあねー」 「このー、少しは否定しろ!」 そう言って、冴子がプールサイドにいた亜由美を引き入れた。亜由美はそのまま、プールへと飛び込む。 「あははは。気持ち良い!」 「そうでしょ、そうでしょ」 「ねえ、冴子。今度、高校のインターハイあるんだって。先生行くらしいから、一緒に連れてってもらおうよ」 軽く泳ぎながら、亜由美が言う。 「うーん。塾の時間と被らなきゃ、行きたいな……」 「小安先輩も出るみたいよ」 亜由美の言葉に、冴子の表情が変わった。 「嘘! いつ?」 冴子が、亜由美に食いつく。 「今度の日曜日。行くでしょ?」 「うん。絶対行く!」 そんな冴子の言葉に、亜由美は微笑んだ。 「久しぶりだもんね」 「うん。先輩が卒業して以来。変わっちゃったかな……」 「さあね」 「でも、まだ吉田先輩とは続いてるんだろうな……」 急にしんみりして、冴子が言う。 「さあ……でも、二人は学校違うんでしょ。もう別れてるんじゃないの?」 「どうかな……そんなことないと思う。お似合いの二人だったし……」 二人の言っている先輩とは、小安克人という一年上の先輩である。無名だった水泳部の知名度を一人で上げたような、強い選手であった。 冴子は密かにその先輩に憧れていたが、小安は当時から、同じ部活の吉田夏美とつき合っていたため、冴子はそれを打ち明けることも出来なかった。 そんな冴子の気持ちを知っているのは、亜由美ただ一人。それもまた、冴子から言ったわけではなく、亜由美が気付いただけの、冴子一人の秘めた想いであった。
週末。引率の顧問とともに、冴子と亜由美、後輩たちが、高校生の水泳インターハイを見に出掛けた。独特の緊張感が漂う中で、試合が行われている。 その中で一人、冴子の目を奪う人物がいた。 「冴子、小安先輩いるよ!」 亜由美も気付いて、興奮して言う。 「う、うん」 小安はプールサイドで、ウォーミングアップをしながら試合を見つめていた。そして、ふと観客席を見渡す。 そんな小安と、冴子の目が奇跡的に合った。小安は気付いた様子で、驚きながらも手を振った。 「小安先輩!」 冴子は嬉しくなって、大きく手を振る。 少しして、小安の順番になった。もちろん高校に入っても、小安への期待は大きいため、優勝候補とも言われている。 合図とともに、選手たちが一斉に泳ぎ始める。ダントツの泳ぎを見せる小安の姿は、冴子が知っている時代とまったく変わらない。 しかし、全国から集められた強豪たちを前に、小安の成績も二位で留まってしまった。 「ああ、惜しかったな。小安は」 引率の顧問が言う。 「先生。小安先輩と、話し出来ませんか?」 そう言ったのは、亜由美である。それと同時に、亜由美が冴子の肘を突いて促すので、冴子も口を開いた。 「わ、私も、小安先輩と話したいです!」 「そうだな。少し待ってみるか」 顧問がそう言った時、プールサイドから手を振る人影が見えた。 「先生! お久しぶりです!」 そう言っているのは、小安である。濡れた髪のまま、自ら声を掛けたのだ。冴子は亜由美とともに、急いで小安のもとへと駆け寄った。 「先輩!」 「小林に竹脇。久しぶりだな」 変わらぬ笑顔の小安に、二人は微笑む。 「はい。先輩も、お変わりなさそうで……すごかったです! おめでとうございます」 言葉にならない冴子を尻目に、先にそう言ったのは亜由美である。 「ありがとう。惜しくも二位だったけどね……」 「小安。元気そうだな」 その時、顧問が小安に話し掛けたので、冴子たちは一歩下がった。 「はい、おかげさまで。先生も後輩たちも、変わってなくて安心しましたよ」 「小安!」 その時、小安が呼ばれた。 「あ、コーチだ……じゃあ、バタバタしちゃってすみません。落ち着いたら顔出しますんで」 「ああ。引き止めて悪かったな。頑張れよ」 「はい。じゃあ、みんなも頑張れよ!」 顧問の言葉に返事をしながら、小安は後輩たちにそう渇を入れると、元気に去っていった。 久しぶりに小安の姿を見られて、冴子は舞い上がるくらいの嬉しさを噛み締めていた。
一ヵ月後。冴子は塾を終えて、ヘトヘトになりながらコンビニエンスストアへと入っていった。 「おなかすいて死にそう……」 冴子はそう言いながら、弁当コーナーへ行く。しかし、もう夜も遅くなって来ているからか、品数は少ないようだ。 「小林……?」 そこに、そう呼ぶ声があって、冴子は振り向いた。 「やっぱり小林だ。どうしたんだよ、こんな時間に」 そう言って優しく微笑むのは、冴子の密かに憧れている先輩、小安であった。 「小安先輩! せ、先輩こそ、なんで……!」 「見てわかんない? バイトだよ」 小安はコンビニのエプロンを着て、仕入れたばかりの弁当を担いでいる。 「バイト……知らなかった。塾の近くなのに……」 冴子が呟いた。 「ああ、塾の帰りか。ご苦労さん。今から夕食でコンビニなら、あんまりオススメしないよ。期待の選手なのに」 小安の言葉が、いちいち嬉しく響く。 「期待の選手だなんて……」 「本当だよ。僕が居た頃だって、何度か入賞してたじゃん。自信持ちなよ」 「あ……ありがとうございます……」 「じゃあ、レジ入るから……どうせなら、健康そうな物食べろよ」 そう言って、小安は弁当を並べてレジへと入っていった。 冴子は嬉しさを噛み締めながら、おにぎりを買ってレジへと向かっていく。 「もう遅いから、気をつけてな」 小安が優しくそう言う。爽やかな笑顔とさりげない優しさは、冴子が好きになった頃の小安とまったく変わっていない。 「先輩。ずっと、このコンビニにいるんですか?」 帰り際、冴子が尋ねる。 「うん。不定期だけど、今の時期は結構入ってるかな」 「そうですか」 「また来なよ」 「はい。また来ます!」 元気良く返事をすると、冴子は家へと帰っていった。
その日から、冴子は頻繁に、そのコンビニへ通っていた。毎日小安に会えるわけではなかったが、会えた日には、少なからず会話を交わすことが出来た。 「そうだよな、もう受験か」 その日も冴子は、塾の帰りに小安に会うことが出来た。 「はい。毎日のように塾なんで、ちょっと大変で……」 「どこ受けるか決めてるの?」 小安の言葉に、冴子は一瞬、言葉を失った。無理してランクを上げて塾へ通っているのも、みんな小安と同じ高校へ行きたいがためである。 「海栄南……です」 冴子が答えた。 「マジで? うち受けるんだ?」 「は、はい……水泳も強いし、施設が充実してるっていうんで……」 誤魔化しながら、冴子が言う。 「うん、施設はすごいよ。中学とは比べ物にならないくらい。その代わり、勉強は厳しいけどね」 「はい……覚悟はしてます」 「小林来るなら、また賑やかになりそうだな。楽しみだよ」 そう言ってくれた小安に、思わず冴子が微笑む。それと同時に、小安とつき合っているはずの吉田夏美のことを思い出した。 「あ、あの……吉田先輩とは、まだつき合ってるんですよね。お元気ですか?」 突然、意を決して尋ねた冴子に、小安は少し驚きながらも苦笑する。 「ああ、いや……別れたんだ。夏前に」 「え……」 思わぬ展開に、冴子は嬉しいような悲しいような衝撃を受けた。 「そっか。おまえらは、そういうことも知ってたもんな……」 「ごめんなさい。知らなくて……」 苦笑する小安に、冴子がしまったというふうに謝ったので、小安も首を振る。 「べつにいいよ。結構前の話だし、インターハイとか立て続けにあったから、ちょっと忘れかけてた……」 それを聞いて、冴子も静かに微笑んだ。吉田と別れていたことには驚いたが、素直に嬉しい気持ちも大きかった。
数ヵ月後。受験シーズンが近付く中、冴子は相変わらず小安のいるコンビニに通っていた。しかし、ここ数週間、いつ行っても小安の姿はない。 「あの……最近、小安さんを見かけないですけど、どうしてるかわかりますか?」 その日、冴子は意を決して、コンビニの店員に尋ねた。 「小安? ああ、勉強が忙しい時期だからって、今月はほとんど休みみたいだよ」 「そうですか……」 店員の言葉に肩を落として、冴子は家路へと向かっていった。 冴子も受験が迫っているが、有数の進学校のため、受かる自信はまったくない。せめて受験の前にもう一度小安に会って、元気をもらいたいと思った。しかし、何度行っても小安の姿はなく、電話も住所も知らなかった。
一ヶ月以上、小安と会えないまま、冴子は受験の日を迎えた。緊張しながらも、小安の通う学校へ向かっていく。 すると正門の前に、一人の男子生徒が立っていた。 「小安先輩!」 思わず冴子が叫んだ。小安である。 「小林。よかった、会えた」 小安がそう言って、冴子を見つめる。 「小安先輩。もしかして、私を待って……?」 「うん。いつ来るかわからなかったけど、会えて良かったよ」 「先輩……」 普段は毅然としている冴子も、小安の顔を見て、気が緩みそうになる。 「バイト先に何度か来てくれてたんだって? ごめんな。最近、学校のほうが忙しくて……」 「いえ、そんな……」 「頑張れって、言っておきたかったんだ」 小安は静かにそう言った。 それを言うためだけに、いつ来るか分からない自分を待ってくれていた小安に、泣きそうになるほど、冴子は嬉しかった。 「ありがとうございます。頑張って行って来ます。もし……受かったら……」 冴子はそう言って、小安を見つめる。 「もし受かったら……つき合おう」 突然の小安の言葉に、冴子は耳を疑った。しかし、そこにはいつもより優しい顔の小安がいる。 毎日のようにバイト先へ顔を見せていた冴子の想いに、小安も気付いていないわけがなかった。小安自身も、しばらく会えなかったことで、冴子を気に掛けていることに気付いたのだ。 「頑張って。きっと大丈夫。待ってるから……」 「先輩……」 「ほら、胸張って」 そう言って、小安は冴子の背中を押す。 冴子が振り返ると、小安は笑顔で手を振っている。嬉しさを背中で受け止めて、冴子は受験へと臨むのだった。
受験の結果は……きっとハッピーエンドに違いない。 片想いも、辛いだけじゃない。想っていれば、いつかきっと……ひとつの恋のカタチ。
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