その一言で、私は殴られたかのような衝撃を受けた。 「え……」 「うざい。でも……ありがとう」 真逆の言葉に、私の目から涙が流れた。緊張が少し解れたのだ。 彼は立ち上がると、私の前に跪き、私の手を取る。 「この半年、僕がこの家に帰っても苦痛じゃなかったのは、社長が飲みに誘って気遣ってくれるのもあったけど、住友さんがいたっていうことは明白だよ」 その言葉だけで十分だった。 私は止まらない涙を堪えようと必死だったが、彼に手を握られているので、どうすることも出来ない。 「うっ、ううっ。ごめんね。泣いちゃって、ごめんね……」 鼻水や涙を流し、私は声にならない声でそう言った。 彼の顔は、もはや涙で見えなかったが、ぼんやりと微笑んで見える。 「学生時代の恋愛みたいに、なんだかわくわくして楽しかった。でもやっぱり考えてみると、僕は妻も子供も忘れられないし、新しい恋愛に踏み切る勇気もない。住友さんのことは好きだけど、それは友達としてだ。友達にしてはずいぶん助けられたと思うけど、本当に出会えてよかった」 まるで別れの挨拶のように、彼は話を続ける。 「本当にありがとう……」 「もういいよ……なんか、別れの挨拶みたい……」 私はやっと彼の手から解放され、涙を拭ってそう言った。 目の前の彼は、相変わらず複雑な表情を浮かべながら、真っ直ぐに私を捉えている。 「うん。お別れなんだ……来月から、九州に行く」 「えっ」 またも衝撃の言葉に、私は今度こそ倒れそうになった。 だが、私の意識を支えるように、彼は口を開く。 「今回の仕事が終わったらって、前々から決めてたんだ。やっぱりこの家が辛くて、どこか新しい土地で働けないかって、社長に相談して見つけたんだ。今度こそ誰も知らない場所、新しい仕事で頑張るつもり……」 「私がいたから? 梶君のこと、少しでも知ってる私がいたから?」 私の言葉に困ったように、彼は眉を顰める。 「違うよ……でも、住友さんを見てると辛い」 その言葉の真意もわからず、私は彼の家を後にした。 そこからの記憶はほとんどない。ショックで何の言葉も出なかった。
それから月末までの数日間、私たちの生活が変わることはなかった。 それよりも、組んでいた仕事が終わったため、同じ部署にいても別々の仕事を手がけるようになり、話す機会すらない。もっとも、機会があったとしても、何を話せばいいのか、どんな顔をして会えばいいのか、まったくわからない。
「何があったの?」 夜、私は久々に裕子と飲んでいた。 さっきまでうちの部署の連中で、別の店で飲んでいた。彼の送別会である。 彼は今日で仕事を辞め、数日後には九州へ行くという。小学校の時のように、あまりにも突然で、引き止める関係でもない。きっとこのまま何もしないだろう。 気落ちしている私を、裕子は心配してくれているが、彼がどんな傷を抱えているかなど言えはしない。 「何って、べつに……」 「べつにじゃないでしょ。そんなに落ち込んでんのに」 「……そりゃあ落ち込むよ。急に遠い所へ行っちゃうし、フラれたし……」 口を尖らせて言った私に、裕子は目を開かせている。 「へえ。まさかと思ったけど、フラれたんだ。っていうか、告白したんだ。妻子持ちによくやった! 褒めてあげる」 妻子持ちということを否定はしたくない。彼にとっては、今も大切な家族なのだから。それを忘れてなどとは言えるはずがない。 「ありがとう……でも初めて告白したけど、フラれるって辛いね……」 「何言ってんだか。振るほうはもっと辛いんだからね」 モテる裕子ならではの言葉だ。羨ましく思える。 「はあ……」 「もう、元気出してよ。どっちみち彼、九州行っちゃうんでしょ? 遠距離なんて続かないよ」 「そうかな。まあでも、私の顔見るの辛いって言われちゃったし。彼にとっていいならよかったって思いたい……」 それを聞いて、裕子は突然身を乗り出してくる。 「そう言われたの? 顔見るの辛いって?」 「復唱しないでいただきたい……まだ立ち直ってないんだから」 俯いた私の肩を、裕子が思いっきり叩いた。 「痛い!」 「それ、望みあるかもよ」 「は? 何言ってんの。これだけハッキリとフラれたのに、それでも望み持ってたら、ただのストーカーじゃない」 私は苛立ってそう言った。 だが、裕子の顔は輝いている。 「モノによるけど、あんたのケースは望みがある! それに私、男に言ったことあるのよ。あなたの顔見るのが辛いってね」 「ひどい女だね……」 「その先があるの。あなたの顔見るのが辛い、だってこれ以上いたら、あなたのこと好きになりそうだから……」 裕子が言うと計算高く聞こえ、嘘っぽい。でも、確かに私にも望みが見えた。 「それって……」 「もちろん私は計算して言ったの。相手が妻子持ちで、取引先の重役っていう面倒臭い男だったから。でもあんたの場合は違うでしょ。少なからず、向こうだって好意持ってたと思うし」 「そうかな……」 「少しは自信持たないと、前へは進めないよ。あんた小学校の時だって、彼に行動しなかったんでしょ? もう偶然なんてないかもしれないよ。二度と会えないかもしれないんだよ?」 「……うん」 励ましてくれる裕子に、私の心は少しずつ動かされていた。 自信過剰でもいい、もう一度だけ、彼に伝えなければならないことがある。 「あんたが話さないから、彼の家族がどうなってるのかはわからないけど、いくら彼が家族を想って大事にしてたって、彼が拒否ったって、あんたの恋はあんただけのものなんだよ? ちゃんと行動しないと、いつかきっと後悔するから」 殻が破れた音がした――。 裕子の言葉に、私は今まで悔いてきた人生を思い出したのだ。 彼のことに限らず、自分から進んで何かを手に入れようとしたことがない。戦ったこともない。それらはいつも後悔しつつも、改善されることはなかった。 「ごめん、裕子。私……帰るね」 突然の行動に、裕子は驚きながらも、私を笑顔で見送ってくれた。 私はそのまま彼の家を訪ねた。
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