数週間後。放課後の廊下を幸と修吾が歩いていると、前から真由美がやってきた。 「あらお二人さん。相変わらず、仲が良いようですね」 からかうように、真由美が言う。 「まあね。どうしたの? その譜面」 幸が言う。真由美は両手一杯に、本や譜面を持っていた。 「定期演奏会用の資料。今まで逃げ回ってたけど、最低限の演奏会には出なくちゃいけないでしょ? しばらくサボってたから、いよいよね……」 苦笑して真由美が言った。そんな真由美に、幸は微笑みながら口を開く。 「いいじゃない。真由美の家、音楽教室やってるんでしょ? 家に先生もいるし、練習もし放題じゃない」 真由美の家は音楽教室と楽器店を営んでいるため、真由美は音楽学生には願ってもない恵まれた環境にいるが、当人は就職先が実家と決まっているためか、必要最低限以上のことをしようとしない。 「あのねえ。私は私で苦労してんのよ。ここに入るまでだって、親と喧嘩したりしたんだから。だいたい両親ともに音楽やってんのよ? 小さい頃から絞られてきたのよ。その上、学校でまで絞られなきゃいけないなんて、ぞっとするわ」 真由美の言葉に、幸と修吾は笑った。 「相変わらずだな。最近見かけないと思ったら、遂に真由美も演奏会か」 「先に言っとくけど、聞きに来ないでよ。同じ学部の学生だからって、二人とはレベルが違うんだから」 眉を顰めて真由美が言う。照れ隠しなのか、少し怒ったような素振りを見せている。 「またまた謙遜しなさんな。そういえば水上君とも会わないけど、手話サークルはどうなってんの?」 修吾が尋ねた。今までは、月に何度か手話サークルの講師として和人が招かれていたり、真由美と付き合っていたために頻繁に見かけていたが、ここしばらくは見かけていない。 「……彼も学校が忙しいみたい。バイトも始めたらしいから、新しい講師見つけたの。それについては修吾の弟さんとは話してあるけど、聞いてなかった?」 真由美が言った。 和人を講師として話をつけてくれたのは、ボランティア活動に詳しい修吾の弟だったため、修吾を通しての話し合いはなされていなかった。 「あ、ごめん。弟とも全然会ってないんだ。同じ家に住んでるのに、すれ違いの生活でね。そっか、まあ水上君にも彼の生活があるんだしね。じゃあ真由美、頻繁に会えなくなって寂しいんじゃない?」 「べつに。別れたから……」 そう言った真由美に、修吾と幸は驚いた。そして幸が口を開く。 「別れたって、和人と?」 「うん。あんたたちの演奏会の時には、もう別れてたわ」 「どうして……」 変わらぬ表情で淡々とそう話す真由美に、幸は不安になって真由美を見つめる。 「大丈夫よ。お互い傷ついてないと思う……まあ、性格の不一致ってやつかな。心配しないで」 不安気な表情を見せる幸に、真由美が言った。 「それならいいけど……」 「じゃあ練習行かなくちゃ。またね」 真由美はそう言うと、そこから去っていった。 「別れてたんだ……いいコンビだと思ってたけど」 ぼそっとそう言った修吾に、幸は静かに頷いた。 「うん……」
それからというもの、幸は和人の顔を見る機会はなくなっていた。思えば家が近いというものの、和人の住所もメールアドレスも知らない。接点がなくなった二人は、またどんどんと離れていった。
数ヵ月後、正月――。 幸は修吾とともに、幸の実家へと戻っていた。一つは新年の挨拶も兼ねてだが、昨年、幸は名誉あるピアノコンクールで入賞を果たしていたため、実家ではささやかながらも派手なパーティーが行われていた。 「おめでとう、幸。あんな賞を頂けるなんて、思ってもみなかったわよ」 いつもは物静かな母親も、嬉しさに取り乱して涙ぐんでいる。 「お母さんってば。でも、私も本当に嬉しいんだ。一歩前進だもんね」 「本当。あれからマスコミにも注目されるようになったし、あといくつか賞でも取ったら有名人だね」 幸の言葉に、今度は修吾が言った。 「あといくつかって……修吾じゃないんだから、そんなポンポン取れないよ」 「そんなことないって」 二人のやり取りを、微笑ましそうに幸の両親が見つめている。 「あとは二人が無事に結婚してくれれば、我々も安心だな」 幸の父親がそう言った。幸はそれを聞いて、少し赤くなった。 「やだなあ、お父さんってば。結婚は卒業してからなんだからね」 「でも、あと一年で卒業だろう。今年は結納も済ませる予定だし、ますます忙しくなるな。修吾君、不束な娘ですが、これからもどうぞよろしくお願いします」 父親の言葉に、母親も続いてお辞儀をする。修吾も突然改まって、両親にお辞儀をした。 「こ、こちらこそ。大事な一人娘の幸さんを頂いちゃって……でも、絶対幸せにしますから」 修吾がそう言った。幸は嬉しそうに笑う。 正月早々、目出度い気分だった。
「わざわざ送ってくれなくてもよかったのに」 駅まで一緒に来た幸に向かって、修吾が言う。修吾は挨拶に来ただけのため、幸だけが実家に残ることになる。 「いいじゃない。帰りに本屋さんとかも寄りたいし。それより、今度は学校で会えるのかな?」 幸が尋ねる。 「そうだな。まあ、たまの休みだから、正月くらいはゆっくりして親孝行してあげなよ」 「うん。修吾もね」 「俺はもともと実家暮らしだけどね。ゆっくりするよ。そういえば、水上君も帰ってるのかな。お隣さんなんだろ?」 修吾が和人について尋ねた。幸も修吾も、和人とはすっかりご無沙汰だ。 「さあ……帰ってるかもね。全然会ってないから、わかんないけど」 「今度、一緒に食事にでも誘えるといいな。そういえば、真由美と付き合うだの別れただのがあったから、結局講師のお礼も言えてないもんな……もし会ったら、誘っておいてくれよ」 二人が和人と最後に会ったのは、和人が手話サークルの講師をしていた頃のため、あれからずいぶん経っている。弟経由で手話の講師を頼んだ修吾は、礼も言えないまま会えなくなったのが、ずっと気かかりだったようだ。 幸はそんなところまで気遣っている修吾を、素敵だと思った。 「うん、わかった」 「じゃあまた。連絡するから」 修吾はそう言うと、駅の中へと消えていった。幸は正月の街を、一人歩き出した。 正月休みの街は少し寂しそうに見える。そんな中で大型の量販店だけは開店しており、人波が見える。 幸は量販店内にある本屋へと向かっていった。買い忘れていた雑誌を手に取ろうとすると、ふと見覚えのある後姿が奥の棚に見えた。和人である。 「和人……」 思わず幸が呼びかける。しかし、声だけでは振り向くはずがない。幸が駆け寄ろうとすると、歩き出した和人の横顔が見えた。そんな和人に、一人の女性が駆け寄った。 一般男性の中では低めの背丈である和人を、優に越すくらいの背の高い女性は、大人の雰囲気を醸し出し、低めのヒールのパンプスから仕事をしている女性と見受けられる。 幸は思わず、棚の陰に隠れた。 『探してる本はあった?』 女性が、手話だけでそう尋ねた。 『ううん。やっぱり取り寄せないと駄目みたいだな。今日はいいや。行こう』 和人はそう言うと、女性とともに去っていった。幸は去っていく和人の後姿を、ただ見つめていた。 「彼女……かな」 そこにいた和人は、もはや幸が知り得ない男性であった。幸は少し複雑な心境でいた。
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