一ヵ月後。和人が幸の学校の学生会館に行くと、後ろから肩を叩かれた。するとそこには、幸の恋人である修吾がいる。 「やあ。今日も講師? それとも、真由美と待ち合わせ?」 『両方です』 修吾の問いかけに、笑顔で和人が答える。 「そっか。大変じゃない? 真由美と付き合うのは」 その言葉に、和人は笑って首を振った。 「そっか。まあ、なんだかんだで、うまくいってるみたいだからよかった……あ、俺の手話、伝わってる? 幸に教えてもらって、少しは慣れてきたつもりだけど……」 『上手ですよ』 「あはは。ありがとう」 照れながら修吾が言う。和人も簡単な手話を選んで、問いかける。 『今日も練習ですか?』 「練習……ああ、うん。もうすぐ定期演奏会……ええっと、定期……あ、これ」 修吾は言おうとしていることの手話がわからず、カバンから定期演奏会のチケットを和人に渡した。和人も理解して頷く。 「これがあるんだ。幸も出るから、よかったら来て……って、君にはつまらないかな……」 演奏会が和人にとって面白いはずもないと、修吾は気遣ってチケットを下ろした。そんな修吾に微笑みながら、和人は首を振った。 『いえ、ぜひ見に行かせてもらいます』 「そう? じゃあ、こっちも頑張らなきゃな。ああ、もう時間だから、俺はこれで」 『はい。また……』 和人は会釈すると、去っていく修吾を見つめた。 「カズ!」 そんな和人の腕を、後ろから真由美が取って言う。 『遅いよ』 「ごめん、ごめん。今日、テストがあってね。長引いちゃった」 和人は真由美に頷く。二人は笑って歩き出した。 「ねえ。今日、家に来ない?」 突然、真由美がそう言った。 真由美はいつも突然だ。前触れもなく話を切り出す。和人はまたも驚いて、真由美を見る。真由美は実家暮らしをしていて、何度か家まで送ったことはあるものの、家に上がったことは一度もない。 『……どうして急に?』 怪訝な顔をして、和人が尋ねる。 「今日、両親が出かけててね。うちは兄弟みんな独立しちゃってるし、私一人ってわけ。一人で怖いなあ、なんて」 試すような意地悪な眼差しで、真由美が和人を見る。和人は少し恥ずかしくなった。 『でも、ご両親の留守中に上がり込むなんて……』 和人は照れながらも、至って冷静に物事を判断している。なにより二人きりでは間が持たない気がする。 「女性から誘ってるのよ。断るなんて、男のすることじゃないわよ」 真由美はいつものように、強引に和人と腕を組んでいる。こうなれば逃げられる雰囲気ではない。和人は苦笑すると、頷くしかなかった。
その夜。和人は初めて招かれた女性一人の家に、緊張と戸惑いを隠せなかった。一ヶ月ほど付き合って、真由美のことは大分わかってきたものの、和人は真由美のように恋に積極的にはなれていない。 「カズ……私のこと、好き?」 部屋の中で向き合いながらそう言う真由美に、和人は頷いた。 「頷くんじゃなくて、ちゃんと言ってよ」 真由美にそう言われ、和人は静かに右手を上げた。 『好きです』 和人の行動に、真由美は少し空しくなった。デートに誘うのもキスをするのも、いつも真由美からだ。和人がそのうち一つでも、自分からしてくれたことは一度もない。 「……もう、いい」 突然切れたムードに、和人は真由美の肩を叩く。 『どうしたの?』 「もういいって言ったの。ムードも何もなくなっちゃった」 少し膨れっ面で、真由美が言う。しかし、どうして真由美が怒っているのか、和人には理解出来なかった。 『僕、何かした? 何かしたなら謝るよ、ごめん』 もはや和人には、謝ることが癖のようにもなってしまっていた。健常者同士には簡単な会話でも、和人にとっては些細なことでこじれることも多々あった。そうなった時は先に謝ってしまうことが、和人の生きる上での知恵になってしまっていたのである。 「……カズ、幸のことが好きでしょう?」 そんな和人に、少し意地悪そうに真由美が言った。和人は目を泳がせ、驚いたように真由美を見つめる。 『……どうして?』 「何となくね、わかるわよ。そんなカズに振り向いてほしかったけど……強引に誘っても駄目みたいね」 苦笑しながらそう言う真由美に、和人は俯いた。 幸への恋愛感情に、自分自身気づいていないわけではなかった。だがその感情が、いつから始まっていたことなのかはわからない。しかし気づけば幸の面影を追っている自分に、嫌気すら差す。いつしかその感情を押し込め、真由美に指摘されるまで気づかない振りをしていたことを、和人は思い知らされていた。 『……ごめん』 「いいのよ……私もフェアじゃなかったかな。カズの気持ち知っていながら、付き合おうなんて言ったんだもん。私たち、これ以上は無理みたいだね」 こんな時でも、真由美の言葉はサバサバとして聞こえる。和人はそれ以上何も言わず、真由美の肩を叩いた。和人の中でも、何かが吹っ切れたような清々しい気持ちがあった。 『ありがとう……君には、いろいろ教えてもらったよ』 和人の言葉に、真由美が微笑む。 「そうね。じゃあ、気をつけてね……サークルのほうの連絡は、変わらずさせてもらうから」 『わかった。おやすみ……』 そう言うと、和人は真由美の家を出て行った。 一人になった真由美は、人知れず涙を流した。和人のことは真剣だった。だが和人の気持ちが自分に向くことは、一生ないのかもしれない。声で会話が出来ないからこそ、真由美は和人の本心に触れていた。
数日後。定期演奏会のその日、和人は修吾から貰ったチケットを手に、幸の通う音楽学部のホールへと向かっていった。すでに客席は満杯で、和人は後ろのほうの席に着いた。 音楽学部の演奏会は月に何度もやっていて、全生徒が各演奏会に何かしらで関わっている。修吾のようにあちこちの演奏会に呼ばれる生徒もいれば、真由美のようにあまり真面目に取り組まない生徒もいる。しかし一番多いのは、幸のように数ヶ月に一度の割合で取り組んでいる生徒がほとんどである。 しばらくして、演奏者たちがステージに上がった。和人の視線は、ピアノ奏者の幸だけに注がれる。指揮者が手を振り上げると、演奏が始まった。当然、和人には聞こえないものの、楽器の波動が胸に伝わってくる気がした。 ふと、和人の耳がまだ聞こえていた頃のことが思い出される。
「カズちゃん。今日、ピアノのお稽古なの」 小さき幸がそう言った。毎日遊んでいた二人だが、幸にピアノの稽古がある日は、いつもより早く帰らねばならない。それはとても残念だったが、和人は幸が奏でるピアノの音色を聞くのが好きだった。 ある時は幸の部屋の隅で、おとなしく練習風景を見つめる。またある時は、隣の幸の家から聞こえてくるピアノの音色を、自分の部屋で聞いていた。 そんな幸が弾くピアノの音を、和人はもう聞くことが出来ない。それはとても切なかったが、いつ見ても変わらぬ生き生きとした幸の顔が、遠くからでも見える。踊るような指先、水を得た魚のように、幸とピアノはいつまでも一緒のような気がした。
演奏会が終わると、演奏者の学生たちがロビーまで出てきていた。人の流れに任せて、和人は出入り口へと向かっていく。そんな和人の目に幸の姿が映った。 「和人」 幸は演奏会をやり遂げた溌剌とした笑顔で、和人に声をかけた。前回、喧嘩のようになってしまったものの、普通に話しかけることが出来たのは、今のこの雰囲気のおかげだろう。 「ありがとう。見に来てくれてたなんて」 『大成功だね。やっぱり前より腕を上げたね』 和人もいつも通りに話しかける。そんな自然のことに、二人は自然と笑みが零れる。 そして幸は、和人の言葉に驚いた。 「腕を上げたって……わかるの?」 『うん。お客さんの反応も伝わってきたよ。前は右手が覚束なかったりしてたけど、今日は安心して見てられたよ。さすが音楽学部に入っただけのことはあるね』 「生意気言っちゃって」 二人は笑った。そんな二人を見つけ、修吾が近づいてきた。 「本当に見に来てくれたんだ。なんだか二人、楽しそうだね」 『お疲れ様でした。お招きありがとうございます』 「いやいや。退屈しなかった?」 修吾の言葉に、和人は静かに笑って頷く。 「そう、よかった。じゃあ、そろそろ戻らなきゃ。幸も行こう」 「うん。じゃあ、和人。来てくれてありがとう」 二人は和人に礼を言うと、ロビーから去っていった。
その夜、修吾は幸の部屋にいた。幸を家まで送ったので、少し寄ったのだ。 「はい、お茶」 「あ、うん。ありがとう……」 お茶を差し出され、修吾は湯飲みを手に取った。しかし口をつけることなく押し黙る。修吾の胸に、何かの思惑がつかえていた。 「修吾、どうしたの?」 それを察して、幸が修吾の顔を覗き込む。 「あ、いや……」 「変なの。急に黙っちゃって」 そう言って笑う幸に、修吾はそっとキスをした。 「……修吾。本当にどうしたの?」 「幸……水上君とは、本当に幼馴染みなだけ?」 突然の問いかけに、幸は驚いた。 「え?」 「いや。なんか、すごく仲が良いから、ちょっと妬けるっていうか……ああ、もう俺、何言ってんだろ。幸を信じてないわけじゃないのに。格好悪い……」 そんな修吾の言葉に、幸は赤くなって笑った。 「もう、修吾ってば」 「幸……」 「私と和人は正真正銘、幼馴染みなだけよ。物心つく前から仲は良かったし、和人は両親が共働きで、あんまり友達もいなかったから、いつしか私が母親代わりみたいになってたの。本当にそれだけだよ。愛があるとしたら、家族愛かな」 幸はそう言った。それは幸の本心である。そんな幸に、修吾も安心して笑う。 「そっか……そうだよな。ごめん、変に勘ぐったりして」 「ううん。不謹慎だけど、ちょっと嬉しい。だって修吾ってば、あんまりやきもち妬いてくれないし」 「そんなことないよ。でも信じてるんだ。俺が幸を好きなように、幸も俺が好きだってね。そうでも思ってないと、やってられないよ。どんどん忙しくなってきて、毎日一緒にいられるわけじゃないしさ……」 修吾の言葉が、幸は素直に嬉しかった。二人はもう一度キスをした。
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