数日後。和人は再び、幸の学校へ手話サークルの講師として呼ばれ、出向いていった。もう何度か来て慣れた学生会館は、今日も大勢の学生たちで賑わっている。その一角に、手話サークル責任者の真由美がいる。その前には、幸と修吾もいるようだ。和人は幸がいることで少し戸惑いながらも、約束の時間が近づいているため、意を決して真由美の元へと向かっていった。 「あ、和人くーん!」 真由美が和人に気づいて手を振る。和人は会釈をしながら近づいた。 「和人君、幸と幼馴染みなんだって? 今聞いてたところ」 そんな言葉に、和人は幸を見つめる。 「うん。お互い言いそびれちゃったんだよね。長いことしゃべってなかったからさ……それに、最初会った時はすっかり大人になっちゃって、本当に和人かどうかもわからなかったし……」 苦笑しながら、幸が言った。先日、和解出来たことで、和人との関係もすべてみんなに言ってしまいたかった。 「本当、ドン臭いところあるよな、幸は」 修吾もその話を特に気に留めず、笑いながら言う。和人も合わせるように、静かに微笑んで頷いた。 「もう、おかしいと思ったのよね。二人とも、よそよそしいからさ」 「そんなことないわよ……あ、もう行かなきゃ、修吾」 真由美の言葉に苦笑しながら、幸が修吾に言った。真由美は首を傾げる。 「あれ? 二人揃って、今日は何かあるの?」 「うん。今度は私が出る定期演奏会。修吾も出てくれることになってね……これから忙しくなるんだ」 「そういうこと。真由美も一応、音楽学部通ってんだから、真面目に練習に出ろよな」 幸と修吾が言う。真由美は口を尖らせた。 「私は実家が音楽教室だから、卒業さえ出来れば、就職先は決まってるのよ」 「ハハ。じゃあ俺が就職出来なかったら、ぜひ山ノ内音楽学院で雇ってくれよな」 「なに言ってんの。二人は将来有望でしょうが。あちこち演奏会に引っ張りだこのくせに」 「まあな。じゃあまた。水上君も、また今度」 修吾は真由美とそんな会話をすると、幸とともに去っていった。 「まったく、相変わらず仲の良いことで……じゃあ、うちらも行こっか」 立ち上がって真由美が言った。和人もそれに続き、頷く。 「ねえ、和人君。彼女って……いないよね?」 歩きながら、突然真由美がそう切り出した。何の脈略もなく尋ねられたので、和人は驚いた顔をする。 「私たち、付き合わない?」 和人の言葉を待たずに、真由美がそう言った。学生会館の真ん中で、真由美の声が響く。数人の学生が気づいてこちらを見ている中、和人は辺りを見回した後、苦笑した。 『何を言うかと思えば……からかわないでくださいよ』 「べつに冗談なんかじゃないわ。それとも、私じゃ駄目ってこと?」 そこにいつもの明るい真由美の姿はなく、真剣な眼差しで和人を見つめている。 『駄目じゃないです……すみません、笑ったりして……』 真由美の本心はわからなかったが、和人は笑ったことを詫びた。 「じゃあ、私と付き合おう。私、真剣だからね。これからもっと手話も覚えるし、あなたのことが知りたいんだ。もう合コンとか行かないって約束したっていい。あなたも、これから私を知ってくれればいいから」 積極的な真由美に、和人は小さく俯いた。戸惑いは隠しきれない。思えば愛の告白などされたことは初めてで、素直に嬉しいと思った。 「……駄目? 幸と修吾みたいに、私たちもお似合いの二人になると思うんだけど」 その言葉に、和人は幸せそうな幸の顔を思い出す。恋愛……自分にも出来るだろうか。しかし目の前には、こうして和人を見つめる女性がいる。和人は静かに、右手を動かした。 『……いいですよ。本当に、僕でよければ……』 「いいの? やった! じゃあ、よろしくね」 真由美の言葉に、和人もお辞儀をした。
「ええっ! 和人と?」 次の日。話を聞いた幸が、真由美に驚いていた。 「そう。私、カズと付き合うことにしたんだ」 「ちょっと待ってよ! 遊びなんかで、和人を巻き込まないで。あの子は何も知らない子よ。ハンデだってあるし……真由美が相手出来るとは思えない」 真由美の言葉に、いつになく幸が取り乱して言う。特定の恋人は作らず遊び呆けていた真由美に、和人が傷付けられるのではないかと思うと、幸は気が気でなかった。 「失礼ね。私は本気で彼が好きなのよ。合コンだってもう出ないし、真剣に付き合おうと思ってるんだから。遊びじゃないわよ」 引き下がることなく、真由美がそう言った。しかし幸は心配な様子である。 押し黙った幸に、真由美が口を開く。 「……まあ幸が言うのもわからなくもないよ。私だって不安もあるし。だけど、付き合ってみてからわかることもあると思うんだ。遊びじゃないから安心してよ」 「二人が決めたなら、私が口出すことじゃないけど……」 最後にそう言った幸は、不安気な表情を浮かべていた。
その日。幸は電車の中で和人を見つけ、声をかけた。 「和人……もしかして、駅一緒?」 幸が手話交じりに尋ねる。先日、同じ道を歩いていたことで、家は近くかもしれないと思っていた。和人は、少し人の目を気にするように頷く。 「そういえば、和人のこと何も知らないね。大学、どこの学部に入ったんだっけ?」 苦笑しながら幸が尋ねる。確かに最近の和人のことは、何も知らない。 『文学部』 静かに、和人がそう答えた。 「文学部か。和人、作文とか上手だって、昔から褒められてたもんね」 幸の言葉に、和人は少し照れながら頷く。 「そういえば、家はどこなの? 寮?」 『ううん。一応、一人暮らし』 「へえ。大変だね」 『少しね』 そう言った時、二人は駅に着いて、改札を出ていった。 「真っ直ぐ帰る?」 幸の質問に、和人は頷いた。 「じゃあ、一緒にご飯でも食べない?」 『ううん。遠慮しておくよ』 「どうして? あ……真由美に悪いか。付き合い始めたんだってね……」 その言葉に、和人は静かに笑って頷く。 『修吾さんにも、悪いよ』 「そっか……そうだね。でも、べつに私たちは幼馴染みなんだし、おかしく……」 幸がそう言いかけた時、和人は静かに幸の手を止めた。 「和人?」 『……みんなが見てる』 俯き加減でそう言う和人に、幸はショックを受けた。駅前のため、大勢の人が珍しそうに、こちらを見ながら歩いている。 「私は……大丈夫だよ。この間、私が間違いだったって謝ったばっかりじゃない。人前で手話していいんだよ。私はもう気にしないし、和人はそれが生活手段じゃない」 『でも、君まで耳が聞こえないと思われるのは嫌だ。ある程度なら、唇読めるよ。だから人前では、手話じゃなくても……』 幸に対して、和人が言う。目に映る幸の顔は強張り、悲しそうな目で和人を見据えている。 「おかしいよ、和人……私が和人を傷付けたこと、一生許してくれないつもりなの?」 『違う。そういうことじゃなくて……』 「もういい!」 そう言うと、幸はその場から走っていった。 和人の中で、幸の手話が思い出される。「私が和人を傷付けたこと、一生許してくれないつもりなの」そんなつもりで言ったわけじゃない。ストレートに伝えられない言葉が、もどかしかった。 家に戻った幸は、堪え切れずに涙を流していた。悔しかった――。数年前に自分が拒絶したことなのに、矛盾していたが、自分のエゴというのはわかっていても、和人には堂々としていてほしい。自分が付けた傷など跳ね返すくらいの強く心でいてほしい、そう思った。だが自分が和人を傷付けてきていたことが、今になって返ってきたように幸を苦しめ、離れなかった。
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