それからというもの、幸の周りに和人は現れなくなった。偶然会うこともあったが、和人は軽く会釈をするだけで、手話を見せようとはしない。幸は罪悪感にかられていたが、ホッとした気持ちにもなっていた。
三年後。幸は大学進学と同時に、一人暮らしを始めていた。和人とはもう長いこと会っていない。幸の中でも、和人の存在は次第に薄れていた。 四年制大学の音楽学部に入学した幸は、日々ピアノの練習に明け暮れている。高校時代に付き合っていた卓也とは進学と同時に別れ、今では大学で知り合った新しい恋人もいる。大学生活は順調で、楽しいものであった。 「幸。今日の合コン、来ない?」 食堂で幸を誘ったのは、同級生の山ノ内真由美。大学からの友人だが、明るくて活発である。忙しい大学生活の合間を縫って、数多くのサークルに在籍し、毎日のように合コンを繰り返している。そんな生活の真由美であるが、未だ特定の恋人はいないようだ。 「合コン? ダメダメ、修吾が許さないもん」 幸が言った。修吾とは、現在の幸の恋人である。同じく音楽学部へ通う同級生であり、幼少時代から注目されている、バイオリニストでもある。誰よりも優しい、幸の自慢の恋人だ。 「大丈夫だって。バレなきゃいいじゃん」 「聞こえてるよ」 真由美の言葉に割って入ってきたのが、前島修吾。幸の恋人だ。 「真由美。うちの幸を、そういうところに引っ張りこまないでくれる?」 見せつけるように、修吾が幸の肩を抱きながら言った。 「いつもながらお熱いことですわね。でも、幸だって合コン行きたいよね?」 「え、べつに」 「またまた……って、ヤバイ。今日はサークル行くって言ってたのに」 困った様子の幸を尻目に、真由美が突然、時間を気にして立ち上がった。 「じゃあ今日は諦めるけど、今度はおいでよ、楽しいから。なんなら修吾付きでも全然大丈夫! じゃあね」 真由美はそう言うと、慌しく去っていった。 「相変わらずバタバタしてるな。今日は何のサークルやら……」 「あはは。でも凄いパワーだよね。毎日合コンしててもガタがこない強靭な体でしょ?」 修吾の言葉に、幸が笑って言う。 「幸はそんなこと見習わなくていいんだよ。そんなことより、話があるんだけど……」 突然、改まって修吾が言った。普段と違う修吾の態度に、幸も緊張して尋ねる。 「え、なに?」 「ええっと……突然なんだけどさ、今度の週末、俺の家に来ない?」 修吾がそう言った。修吾は実家暮らしだが、幸は何度も修吾の家へ行ったことがある。お互いの両親にも会っているため、二人は公然の仲だ。それなのに、どうしてそんなに改まった言い方をするのか、幸には理解出来なかった。 「いいけど、どうして?」 「うん、あのさ……」 尚も言いにくそうに、修吾が言葉を続ける。 「結婚、しない? 俺たち……」 赤くなりながらも真剣にそう言った修吾に、幸は飛び上がるほど驚いた。 「えっ……ええっ?」 「いや、もちろん、結婚するのは卒業してからになるけどさ……でも二年間幸と付き合ってきて、もう決めておきたいんだ。幸は俺の運命の人だと思う。本当はすぐにでも結婚したいけど、まだお互い学生だろ? だから残りの大学生活は、結婚を前提として付き合ってくれないか?」 突然の告白であった。普段は慎重派の修吾を知っている幸は、修吾の真剣な気持ちに、素直に嬉しくなる。 幸は静かに頷いた。 「うん、私も……結婚するなら修吾としたいって、思ってた……」 その言葉を聞いて、修吾は顔を赤らめて幸を抱きしめる。まだ大学構内だったため、人が大勢見ているものの、二人は幸せいっぱいであった。 そして週末には、幸は修吾とともに、双方の家へ挨拶に行った。未だ学生ながらも真面目で真剣な二人に、両親たちは快く承諾してくれたのだった。
「嘘! マジ?」 週明けの学校。放課後の学生会館では、事情を聞いた真由美が、幸の婚約指輪を見て驚きの声を上げた。 「う、うん……まだ卒業まで二年あるけど、うまくやっていくつもり」 照れながら、幸が言う。真由美は理解出来ないといった様子で、口をぽかんと開けている。 「なにそれ。まだ学生なんだよ? 遊びたい盛りなのに、なんで一人の男に絞っちゃうかな……」 「そんな、真由美じゃないんだから……」 苦笑して、幸が言った。 「失礼ね。私だって特定の彼氏くらい、作ろうと思えばいつだって作れるもんね」 「でも、フラフラしてるじゃない」 「今はね。まあ、幸と修吾ならお似合いか……二年後には、前島幸? うん、結構いい響きじゃない」 「まだ早いよ……」 「照れないの。早く慣れておいたほうがいいよ……って、もうこんな時間? あれ、まだかな……」 突然、真由美が携帯電話の時計を見て言った。幸は首を傾げる。 「誰かと待ち合わせ?」 「うん。サークルで呼んだ講師。この間打ち合わせで会ったんだけど、これが可愛い男の子でさあ。背はちょっと低めだけど、今までにないタイプなんだ」 幸の問いかけに、はしゃぐように真由美が答えた。 「へえ。今日は何のサークル?」 「手話サークルよ」 「……手話?」 幸の忘れようとしている部分にある、懐かしい響きであった。 「なによ、手話に興味あるの? ドラマとかでもやってて、流行ってきてるからね……って、来た来た」 真由美が体全体で手を振ると、一人の少年が真由美に近づいてきた。幸はそこで、目を見張った。 「あ、紹介するわ。友達の幸。こっちは一つ年下の、和人君っていってね……」 つたない手話交じりで、忙しなく互いを紹介する真由美とは対照的に、幸は固まっていた。そこには、数年間話もしていない、幼馴染みの和人がいた。和人もまた、幸と知って驚いている。 「なに? もしかして、知り合い?」 二人の反応を見て、真由美が尋ねる。 「……う、ううん。私、もう行かなきゃ。じゃあね……」 幸はそう言うと、逃げるようにその場を去っていった。和人は幸の背中を、ただじっと見つめていた。 「なんだろ、幸ってば。婚約して、変になっちゃったのかな」 真由美の口の動きを見て、和人は人差し指を振った。 いくらか唇も読める和人は、ゆっくり話せば健常者の会話も理解することが出来る。しかし、今の言葉は半分わからず、気になって真由美の顔を覗き込んだ。 『なんて言ったの?』 「ああ、あの子、婚約したから変になっちゃったのかなって。婚約って……コ、ン、ヤ、ク」 婚約という手話がわからずに、真由美は少しだけ出来る手話と交え、ゆっくりと“婚約”を一字ずつの指文字で表した。 『そう、婚約……』 和人は静かに微笑んで頷き、わかったという手話を見せた。 数年間、見る機会さえなかった幸は、もう和人の知っている幸ではないのだと悟った。
幸は歩きながら動揺していた。高校時代、和人に酷いことを言ってからは、会いづらくなっていた。実家に帰っても、もう和人の家に顔を出すことはない。和人もまた、未だ気を遣っていてくれるようで、幸と会おうとはしなかった。 久しぶりに出会った和人は幸の知らない少年で、もうすっかり大人びていたと感じる。相変わらず背は低いほうだろうが、それでも前に比べれば、がっしりとした体格をしている。学生会館に違和感なく入ってきた様子は、耳が不自由ということなどわからない、普通の男子学生のようだった。 だが幸には、和人に会わせる顔がない。 「幸?」 そこで、幸は呼び止められた。振り向くとそこには、婚約者の修吾がいる。 「どうしたの? そんなに怖い顔して……」 「え、してた?」 修吾の顔を見た幸は、ホッとした様子で修吾に駆け寄った。修吾は頷き、口を開く。 「うん。そっちは練習終わった? 俺、これから定期演奏会の練習があるんだ」 「ああ、もうすぐだもんね。私はまだだから気が楽。修吾、もちろん第一バイオリンでしょ? 頑張らなきゃね」 幸が言った。 音楽学部に通う二人は、定期演奏会や各音楽サークル等の名目で、放課後もあちこち引っ張りだこであった。特に修吾は、その才能を小さい頃から認められているので期待も高く、幸より数段に忙しい日々を送っている。 「うん……でも、こう忙しくちゃ、幸と二人きりで話す時間も少なくなるから、気が重いよ」 修吾にそう言われ、幸は素直に嬉しくなる。 「でも、修行のうちでしょ。終わるまで待ってようか? そうしたら一緒に帰れるし……」 「いいの? でも、少し遅くなると思うよ」 そう言いかけた時、修吾は何かを見つけて手を振った。幸が振り返ると、そこには先ほどの真由美と和人がいた。幸は固まるようにして、修吾に寄り添う。 そんな幸を気に留めず、修吾は真由美に笑いかける。 「彼が、水上君?」 修吾の言葉に、幸は驚いた。 「修吾、知り合いなの?」 「弟のね。真由美が聴覚障害の人で講師を探してるって相談されたから、弟に頼んで彼を紹介してもらったんだ。うちの弟、昔からボランティア活動でいろいろやってるからさ……」 幸は少し戸惑った。互いに接点のある和人。交流しないわけにもいかなそうだ。 「来てくれて、ありがとう」 しゃべりながら、つたない手話で修吾が和人にそう言った。和人は、静かに微笑んで首を振る。 「幸ってば、急に行っちゃうからどうしたのかと思ったけど、相変わらず二人一緒でお熱いことね。ねえ、これから手話サークルなんだけど、二人も来ない? なんたって講師が好青年なんだから、上達も早いわよ」 「あはは。それは真由美や女性だけだろ? 行きたいのは山々なんだけど、俺は練習があるんだ。幸はお邪魔したら?」 真由美に向かって修吾が笑って答え、幸に振った。 「え、でも、私は……」 「演奏会近いから、少し遅くなると思うし。どこかで時間潰してる最中、幸に変な虫が付いたら困るしさ。終わったら食事でも行こうよ。水上君には、俺からもお礼が言いたいし」 「じゃあ決まり。一緒に行こうよ、幸」 事情を知らない修吾と真由美が、幸を誘う。そんな光景を、和人も黙って見つめていた。 「じゃあ、そうする……」 少し拒否をしながらも、幸は行かないわけには行かなくなってしまった。そんなバツの悪そうな幸を見て、和人も幸と交流をしようとはしなかった。
学生会館の一室で、手話サークルが始まった。二十人以上集まって満杯となった部屋に、幸は驚く。 「結構、人いるんだね……」 幸の言葉に、真由美が頷く。 「うん。今、結構流行ってるしね。福祉活動の一環にもなるし。今日は特別講師も呼べたし、バッチリよ。さあ、幸も適当に座って」 仕切りながら、真由美が言う。幸は一番後ろの席に座り、サークルの様子を見つめていた。 真由美とともにホワイトボードの前に立つ和人は、幸の知らない少年であった。久々に見る手話は、美しいまでに懐かしい。過去が溢れてくるように、くすぐったいような恥ずかしいような、なんともいえない感覚に、幸は陥っていた。
サークルが終わると、一同は部屋の片付けをしてロビーへと出ていった。 「じゃあ私、部屋の鍵返してくるから。このまま飲みに行く人は、ここで待っててね」 真由美はそう言うと、和人に近づく。 「これから、終電までパーッと……ええっと、終電……居酒屋……」 和人にそう話しかけた真由美だが、そこまでの手話がわからずに天井を見上げる。和人はそっと、持っていたメモ帳とペンを差し出した。 「ああ、ありがとう」 そう言うと、真由美はメモ帳に飲み会への誘いを書いて、和人に見せた。和人は首を振って、静かに拒否をする。 「でも、修吾もお礼がしたいって言ってたし、講師をお願いするのは今日で最後じゃないんだし、毎回誘わないから、今日は来てほしいな」 真由美はそう書いて、和人に見せる。それを見て、和人も笑って頷いた。真由美の強引なまでの願いは、とても断れる雰囲気ではない。 『ありがとう。じゃあ、少しだけ……』 「あ、オーケー? ありがとう。じゃあ、すぐに移動するから、ここで待っててね」 優しい笑顔を向ける和人に、真由美も笑顔でそう返すと、サークルで使った部屋の鍵を返しに行った。 和人の前では、サークルの仲間たちがはしゃぐように各自で話をしている。和人の耳が聞こえれば、相当うるさい連中なのだろう。和人はその光景に静かに微笑み、輪から外れるように壁に寄りかかると、窓際に一人立っている幸の姿に気がついた。 幸にとってもここのサークルは初めてで、仲の良い友達もいない。幸はロビーを囲むガラス張りの窓際で、外を見つめて時間を潰していた。外はもうすっかり夜だ。幸の手には携帯電話が握られ、修吾からの連絡を待っている。 そんな幸の目に、窓ガラスに映った和人が見えた。二人の目が合う。そのまま二人は、時が止まったように、視線を逸らせずにいた。 『……大丈夫……』 やがて、和人が静かに俯いて、手話を始めた。辺りには大勢の人がいるものの、それぞれの世界に入っており、和人のその様子を見ている者も、気に留める者もいなかった。そのまま幸だけが、窓ガラス越しに和人を見つめている。 『君に話しかけたりしないから、安心してください』 俯き加減の和人は、独り言のようにそう言った。だが幸には確実に、自分に向けられたメッセージだと伝わる。 幸は苦しくなった。和人は未だ、自分との約束を実行している。「もう話しかけないで」と言った数年前の自分の言葉が、頭の中で悲しくこだまする。目すら合わさない今の互いの関係を、和人は壊そうとはしていない。和人の存在を忘れかけていた自分が恥ずかしい。それでも幸は、素直にはなれなかった。 今ここで、和人に話しかければいい。傷付けたことを謝ればいい。幼馴染みだと、みんなに告白すればいい。友達も周りの環境も、高校時代と今とは違う。それでも幸は足が竦んだように、生身の和人と目を合わせることさえ出来ない。 和人もそれ以上、幸に話しかけようとはしなかった。
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