そして私は今、死の床にいる――。 和人……私の人生には、いつもあなたがそばにいた。あなたがいなければ、今の私はないと言いきれるだろう。 私はあなたを深く傷つけてきた。それでもあなたは、私のそばにいてくれた。ずっとずっと、いつづけてくれた──。 私の人生、もう悔いはないわ……。
幸は真っ暗な場所で、目を覚ました。 ここはどこなのだろう……暗い中、辺りを見回すと、突然手が掴まれた。ハッとして、目を凝らす。その時、突然辺りが明るくなり、今度は眩しさに目を凝らす。そして、一人の顔が飛び込んできた。見覚えのある顔――和人である。 「和人……?」 その言葉に、和人は一層強く幸の手を握った。幸はここが病室なのだと理解した。そして和人を見ると、ゆっくりと手を動かす。 「……私を選んだの?」 幸の言葉に、和人は静かに頷いた。 『彼女を……母親を、助けてください……』 あの時、医師に言われて和人が出した判断は、こうだった。 「じゃあ、私たちの赤ちゃんは……」 自分が助かったにも関わらず、暗い顔で幸が言った。和人は優しく微笑むと、ポケットから何かを取り出し、幸に見せる。そこには眠った小さな赤ん坊の写真がある。途端に幸は涙ぐんだ。 「私たちの……赤ちゃん?」 和人は自信を持って頷いた。 『正真正銘、僕たちの子供だよ。元気な女の子だ。未熟児だったけれど、問題ないって医師は言ってた。今も近くの部屋にいるよ』 「ああ、嬉しい。なんて言ったらいいか……」 そう言う幸を、和人は抱きしめた。そして幸を見つめる。 『本当に助かってよかった。君も子供も……』 「和人……」 『大変な思いをさせてしまってごめん。そして、ありがとう……僕に大事な家族を増やしてくれて』 幸は涙を流して、和人に抱きつく。 「うん……うん……」 二人はしばらく、そのままでいた。もう、離れられなかった。 その夜、幸は初めて我が子をその手に抱いた。まだ小さな赤ん坊だが、元気に息衝いている。
それからしばらくして──。 「ひかりちゃん。あーんして」 “ひかり”と名付けられた和人と幸の娘は着実に、そして元気に成長していた。 「おかえり」 玄関が開いたことに気づき、幸が身を乗り出して手を振る。和人も遠くの玄関で手を振った。 『ただいま』 「その顔は、何か良いニュースでもあるの?」 嬉しそうにひかりの頭を撫でる和人に、幸が尋ねる。 『わかる? 実は、これ』 和人はそう言いながら、編集途中の雑誌の一部を差し出した。見るとそこには、“水上和人、新連載”の文字が躍っている。 「これ……小説?」 『そう。しかも連載』 ここしばらく、小説の公募にも応募していなかった和人の久しぶりの小説、しかも連載だという。幸は驚いた。 「いつの間に、こんな話があったの?」 『少し前だよ。ごめん、黙ってて。驚かせたかったんだ。ほら、ずっと僕らをモデルにした小説を書き続けていただろう? それをうちの編集長が聞いて、少し読んだだけで面白いって、大手出版社にかけ合ってくれたんだ。同時に、また絵本も出してほしいって頼まれたけど……忙しくなるけど、受けようと思ってる』 「私たちの人生が、本に載っちゃうの?」 幸が少し恥ずかしそうに言う。 『少しはいじってるよ。それに僕らはまだ人生の途中なんだから、完結なんかしていないし。ひかりも生まれたし、ネタが尽きることはなさそうだね』 「そうね。じゃあ今度は、ひかりをモデルにした絵本を書いてよ」 『いいね。じゃあタイトルは、“さっちゃんとひかりの大冒険”なんて、どう? またテープ図書にしてもらおう。もちろんBGMは、君のピアノだ』 「あら。楽しい内容になりそうね」 二人は未来を語り合い、笑い合った。二人の人生には、何度も落とした影など吹き飛ばされるように、光が満ち溢れているようだった。
それから二人は、二人三脚で歩んでいった。そして娘のひかりは、二人の架け橋となった。 「ただいまー!」 ここに、すでに小学生になったひかりがいる。小学校から帰るなり、ひかりはピアノの音色を聞いていた。開けっ放しのドアから覗く一室には、幸と数人の子供がピアノの前にいる。 幸は自宅となるこの場所で、近所の子供たちを集めてピアノ教室を開いている。もちろんひかりも、幸からピアノを習う一人だ。 「はい、今日はここで終わりね」 ちょうど終わりの時間が来て、幸が子供たちにそう言った。 「ありがとうございました。ひかりちゃん、おかえり。またね」 子供たちがひかりに声をかけながら、家を出て行った。 「おかえり、ひかり」 「ただいま!」 ひかりは元気にそう答えて、ピアノのそばに駆け寄る。部屋にはピアノの他は本棚があるだけだ。その本棚には、たくさんの楽譜の他、和人が書いた本も並べられている。 その時、和人が帰ってきた。 「パパ! おかえり」 手話交じりで、ひかりがすかさず出迎える。手話は幼い頃から自然と身に付き、ひかりと和人のコミュニケーションも普通に取れる。 『ただいま』 和人は手話でそう言うと、持っていた絵本をひかりに差し出した。 「わあ。新作だね!」 ひかりは嬉しそうにそう言うと、床に横になり、受け取ったばかりの絵本を開く。和人は出版社での仕事を手伝い程度に続けながら、今は絵本作家を中心に活動していた。特に絵本の仕事は、“さっちゃんシリーズ”として定着している。このところは、そのシリーズ物にひかりの名前も出ていた。 「ひかりちゃん、出てる?」 ひかりが、絵本の登場人物を和人に尋ねる。和人は優しく微笑む。 『さあ、どうかな?』 もったいぶってそう言う和人に、ひかりは胸躍らせて新作の絵本にかじりついた。 「出てる! やっぱり出てた」 そう言うひかりを、和人と幸は優しく見つめる。 やがて幸がピアノを弾き始めた。和人は椅子に座ってその光景を見つめる。何にも代えられない、優しい時間であった。
しばらくして、ひかりは絵本の上で眠ってしまっていた。開かれたページには、著者の写真が載っている。和人と幸とひかり、三人の家族写真である。 眠ってしまったひかりに、幸はタオルケットをかけてやった。和人はさっきと変わらず、部屋全体の光景を眺めている。それに気づいて、幸は笑って首を傾げた。 「どうしたの?」 幸の問いかけに、和人も笑って首を振った。そして手を動かす。 『いや……自分は幸せなんだと、改めて思ってたんだ』 「和人ったら。でも……私もよく感じるわ」 二人はそっと笑い合う。 『さっちゃん。ありがとう……』 「え、なにが……?」 『僕と一緒になってくれて、ひかりを産んでくれて、ありがとう……』 改めて、和人がそう言った。 「和人……」 『そして君も今日まで生きていてくれて、ありがとう……』 「……和人もね」 幸の言葉に、和人も頷く。 『僕たちは、離れていてもずっと一緒だったね……僕には耳が聞こえないけど、僕の目はもうずっと、君しか映っていなかったよ』 告白のような言葉だった。幸は恥ずかしさに頬を染めながらも、和人を見つめる。 『これからも僕は生涯を通して、君が好きだよ』 「和人。ありがとう……」 幸せを噛み締めるように、幸が言った。そんな幸の肩を、和人は静かに抱き寄せる。 「私も……ひかりはもとより、もうあなたのことしか見えないよ。ずっと和人のことが好きだから……」 だから……その先の言葉は、互いの胸に響いていた。 (そう、僕は君が好きだ……君の好きなピアノの音色が、聞こえないはずの僕の耳に、しっかりと聞こえている。そして僕が生まれたその日から、きっと僕の目には君しか映っていない。もう、君しか見えない――) そっと目を覚ましたひかりの目には、幸せそうな和人と幸の顔が映った。ひかりも微笑みながら、もう一度、安心して眠りにつくのだった。
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