幸が目を覚ますと、そこは病院の治療室であった。 「水上さん。気がつかれましたか?」 看護師の問いかけに、幸はハッとした。 「私……赤ちゃんは、無事ですか?」 一番に幸がそう言った。 「大丈夫ですよ……でも切迫流産しかかっていたんです。まだ安心出来ない時期だし、しばらく入院して、安静にしていないと駄目ですよ」 お腹の赤ちゃんが無事ということに、幸はホッと肩を撫で下ろした。けれど腹部の激痛はまだある。 「あの。夫は……」 激痛に耐えながら、幸が尋ねた。 「今、別室で医師から説明を受けています。しばらく入院してもらうことになりますしね。今、病室の手配をしていますので、それが完了次第、水上さんはそちらに移られることになります」 「そうですか……」 それから間もなく、幸は入院病棟へと移った。すると、すぐに和人がやってくる。手には手持ちサイズのホワイトボードが下げられている。急だったので、自宅の冷蔵庫に伝言用としてかけられたそれを、筆談用に持ち出したに違いない。 『大丈夫? 気分は?』 心配そうに、和人が尋ねる。 「平気。ごめんね、心配かけて……」 『なに言ってるんだよ。こっちこそごめん。もっと早くに気づいてあげられていれば……』 「大丈夫よ。そんなに時間は経ってなかったもの。それで、私の身体……大丈夫だった? お医者さんと話したんでしょう?」 不安気な幸に、和人は優しく微笑みかける。それだけで幸は、不安が拭い去られる気がした。 『切迫流産寸前だったって。ごめんね、気を付けていた時期だったのに、こんなことになって……』 「それは、和人だけのせいじゃないってば……それで、赤ちゃんは大丈夫なんだよね?」 『今のところはね……』 突然、和人の顔が曇ったように見えた。 『今回のことで、幸の身体は思っている以上のダメージを受けているそうだよ。これからしばらくは、絶対安静だ。もしまたこういうことがあったら、命の保障はないと言われた……』 和人は医師に言われたことを、幸に隠さず話した。幸にも自覚してもらい、今後気を付けてもらわないと困るのだ。 「そう……わかった。気を付ける」 話を受け止めて、幸が答えた。和人は幸の手を握った。そんな和人の手を握り返し、幸はもう一度手を動かす。 「心配かけてごめんね。この間の検診の時も、今が一番大事だから気を付けなさいって、産婦人科の先生に言われたばかりだったんだ。この時期に流産する人も多いからって……赤ちゃんが無事でよかった。これからは今まで以上に気を付けるから、安心して」 『うん……僕も気を付けるよ。なるべく早くに寝るようにするし、なるべく一緒にいるよ』 幸は頷き、そして静かに口を開く。 「和人……」 『なに?』 「もし……私か赤ちゃんかを選ぶような時が来たら、きっと赤ちゃんを選んでね……」 突然の幸の言葉に、和人は目を見開いた。 『何を言うんだよ!』 「だから、もしだってば」 『もしでも、そんなことを言うものじゃないよ』 「……そうね」 力なく微笑む幸に、和人も小さく微笑む。 『もうおやすみ。僕は君が寝たら一度帰って、入院用の着替えとかを持ってくるよ。数日安静にしていればいいみたいだけど、何か欲しい物はある?』 「ううん、特には」 『そう。じゃあ、しばらく静かに寝てるんだよ』 「はーい……」 二人は見つめ合った。 「おやすみ」 『おやすみ……』
数日後、幸は無事に退院した。それと同時に、母親たちの薦めもあり、幸は出産まで実家へ戻ることになった。 和人にとって幸と離れることは寂しかったが、実家に幸がいるということは幸にとっても両親にとっても安心出来ると思った。なにより和人自身も安心する。 一人になってみて、改めて幸の存在の大きさに気づかされる。和人は寂しさを埋めるように、二人の人生を小説にして書き続けた。
出産予定日より一ヶ月ほど前の休日。和人は実家へ出向こうと、電車へと乗り込んだ。あと一ヶ月で生まれる我が子のことを考えると、胸を弾ませずにはいられない。逸る気持ちを抑え、和人は幸の実家へと向かうのだった。
その頃、幸は実家でピアノを弾いていた。音楽はお腹の中の子供にも良いし、自分もリラックス出来る。近所中に、幸のピアノの音色が心地よく響く。 幸がピアノを弾いていると、近くに置いていた携帯電話が震えた。 「あ、もうすぐ和人が来るかな……」 携帯を開くと案の定、和人から駅に着いたというメールが来ていた。幸は大きくなったお腹を抱えるように立ち上がると、二階の廊下を進んでいく。階段は特に気を付けているが、お腹の大きさと重さでは、一段一段下るのがやっとなので、これ以上の気を付けようもない。 「お母さん。もうすぐ和人が来るから、コーヒー沸かしておいてね」 リビングに入るなり、幸が母親に向かって言った。 「コーヒーなら、今入ったところよ」 「ありがとう。じゃあ、私も飲もうっと」 母親の言葉に幸はそう返事をすると、キッチンへと向かっていく。 幸は和人が来るので、普段は使わないお洒落な食器を出そうと、シンク上の戸棚に手をかけた。少し高い位置にあるので、幸は思いきり背伸びをする。 ガシャン――と、食器が割れる音が聞こえ、幸の母親は慌ててキッチンへと駆けつけた。するとそこには、幸が腹部を押さえて蹲っている。辺りには、高いところに入れられていたはずの食器が散乱していた。 「幸、どうしたの!」 「痛い……痛い……」 幸はそう言うばかりで、立ち上がることも出来ないようだ。 「きゅ、救急車……」 動転しながら、幸の母親が立ち上がる。その時、呼び鈴が鳴った。幸の母親が玄関に走ると、和人の顔が見える。 『こんにちは……』 事情も知らず笑顔でそう言う和人に、幸の母は急いで和人の腕を掴み、中に引き入れる。和人はキッチンに蹲った幸を見て、事態を察知した。すでに幸の母親は、電話で救急車を呼んでいる。 『どうしたの! 何があったの?』 幸にそう尋ねるが、幸には答える余裕もない。そのまま幸はやってきた救急車で、病院へと運ばれた。
緊急治療室の前で、和人と幸の母親、そして後から駆けつけた和人の母親が、祈る思いで待っている。 「長いわね……」 和人の母親が、ボソッと言った。幸の母親は真っ青だ。和人はただ、祈るように俯いている。 しばらくして、手術室から医師が出てきたので、一同は立ち上がった。 「ご家族の方ですか。あなたがご主人ですか?」 「そうです。この子が彼女の夫です」 すかさず和人の母親が、手話で訳しながら答える。和人も後から頷いた。 「それで、幸は……」 今度は幸の母親が、すがる瞳で問いかける。 「母子ともに危険な状態です。このままでは早産となり、母体へのダメージも相当なものとなります。こちらも手を尽くしていますが、最悪の状況を考えて、お母さんかお子さんか、どちらを助けるか選んでください……しかし、もしお母さんが助かっても、もう子供は望めないかもしれません……」 非情な現実だった。その選択に一同は驚いた。 「そんな! どちらも助けてください!」 和人の母親が、そう叫ぶ。 「こちらも手は尽くします」 毅然とした医師を前に、和人の心も驚くほど冷静だった。いつだったか幸が言っていた。もしものことがあって、幸か子供かを選ぶ時が来たならば、子供を選べと――。 「カズちゃん、どうしたら……」 判断を委ねるように、幸の母親が和人にすがって言う。もしかしたら、幸は母親にも同じことを言っていたのかもしれない。和人は目を瞑り、そして静かに手を動かした。
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