幸の現在の部屋を聞くなり、和人はその部屋へと向かっていった。一階に移された幸の部屋を開けると、幸はベッドに寝そべり、頭から布団を覆っている。 勢いよく開いたドアに、幸はいつもと違う気配を感じていた。両親のどちらでもない。でなければ、和人しかあり得ない。 「和人……?」 幸は起き上がって、和人のほうを見る。和人は幸を見つめていた。その視線を、幸も感じている。 そのまま和人は部屋を見回した。生活の必需品はあるものの、幸らしさが感じられない無機質な部屋だと思った。だが部屋にある本やCDのほとんどが、ピアノに関する本である。 幸がピアノを止められるはずがない。止めてほしくない。和人はそう思うと、幸の手を取った。そして、幸の手を使って手話をする。 『ピアノを止めるなんて言わないで』 まるで自分が手話をしているかのように、幸の手が和人によって動かされる。幸の目から、また涙が零れた。 幸は和人の手を振り払ってベッドから立ち上がると、振り向いて手話を始める。 「……あ、あんたまでそんな酷なこと言うのね。わかってる? 私はもう、目が見えないのよ。ピアノだって弾けない。弾く気にもならない……私はもうピアノが嫌いなの。それでいいじゃない!」 乱暴なまでのその手は、手話自体も怒鳴っているようだ。和人は顔をしかめて幸を見つめると、急に立ち上がり、幸を抱き上げた。 「嫌だ! 下ろしてよ!」 和人の腕の中で、幸が暴れる。だが和人はお構いなしに、そのまま幸の部屋を出て行った。ドアの近くで様子を見ていた幸の母親も、和人のその行動に驚き、心配そうに見つめている。 そんな幸の母親を横切って、和人は幸を抱えたまま二階へと上がっていった。和人が生まれた時から変わらない幸の家。しばらく入ったことはなくても、自分の家のように覚えている。和人はそのまま、元の幸の部屋へと入っていった。 ベッドや棚などは一階の新しい幸の部屋に移されたため、唯一大きな家具であるピアノだけがぽつんと、しかし象徴的に置かれている。和人はそのピアノの前に置かれたピアノ椅子に、優しく幸を座らせた。座り慣れたピアノ椅子ということが、一瞬にして幸に伝わる。 「嫌だ! もう弾かないって言ってるじゃない!」 立ち上がろうとする幸の肩を押さえつけるように、和人がもう一度座らせる。だがそれに抵抗して、幸も負けじと和人の手を振り払おうとした。 しばらく格闘の末、和人の手から力が抜けた。幸は和人の手を振り払い、手探りで出入り口へと向かっていく。 「幸……」 ドアのそばで様子を見ていた幸の母親が、気の毒そうに幸をそう呼んだ。 その時、ピアノの音色が聞こえた。ままならないリズムながらも、その音色はメロディになっている。 「……キラキラ星……」 思わず幸がそう言った。ピアノを弾いている主は和人しかいない。だが、和人は耳が聞こえないのだ。頻繁にピアノに触ったことがあるとも思えない。しかしそのメロディは紛れもなく、和人が奏でるメロディだった。 立ち止まった幸に、和人はピアノを弾くのを止めると、静かに近づいた。 『合ってた?』 そばに立っている幸の母に向かって、和人が尋ねる。母親は頷きながら、幸に声をかける。 「幸。カズちゃんが、合ってたかって……」 それを聞いて、幸は静かに頷いた。それを見た和人は微笑む。そして幸の手を取り、さっきと同じように、幸の手で手話をした。 『覚えてるものだね。小さい頃に、よく弾いたよね。キラキラ星……』 手話を理解し、幸は頷く。あとからあとから、涙が溢れ出す。 『僕は、さっちゃんのピアノが好きなんだ。耳が聞こえなくなっても、さっちゃんが楽しそうにピアノを弾く姿を見るだけで、勇気が湧いてきた……』 和人の幸の手を握る手が、一層強くなった。 『小さい頃から今まで、毎日欠かすことなく続けてきたピアノを止めるなんてもったいないよ。世界には、目の見えないピアニストだってたくさんいるじゃないか。さっちゃんは、ただ趣味でやってるピアニストじゃない。賞だって取ったんだ。才能だってあるんだ。こんなことで……障害なんかに負けないで……』 和人の気持ちが、自分の手を通して幸にストレートに伝わってくる。 「和人……」 もう十分だった。和人の気持ちは、百パーセント以上に伝わった気がした。和人の強い心が、自分の弱い心を満たすような感覚さえ覚える。 幸の涙は、静かに流れ続けていた。 『さっちゃんの夢は、僕の夢だ。だから、僕の夢を壊さないで……』 幸はそれを理解すると同時に、和人の手を振り払った。そして、目の前の和人に抱きつく。いつの間に大きくなった身体だろう。視覚を奪われた幸にとって、和人の身体は大きく温かく感じる。そして、安心出来る匂いがした。いつか感じた和人の匂いだ。 和人もまた、大人になって初めて幸を抱きしめて、これ以上ないというまでの安らぎを感じていた。偽ることの出来ない感情が溢れ出す恐怖さえ感じる。 祥子を愛することで封じ込めていた、幸への恋心。自分で不純に思いながらも、心が幸で満たされていくのを、和人自身認めざるを得なかった。
その日、幸が穏やかな表情を見せたことを見届けると、和人は学校へと向かっていった。だが通学中も授業中も、幸の顔が頭から離れることはなかった。 いつの間にか封印してきた幸への想い。恋ではないと自分に言い聞かせた想い。今、授業も何もなく、たった一人でいたならば、心を制御できないほどの想いが溢れ出してくるだろう。和人は身構えるように身体を強ばらせると、幸のことを出来るだけ考えないようにしようとしていた。だが、そう思えば思うほど、思い出されるのは幸の姿だけだった。
和人が去った後、幸はその場から動かず、久しぶりの自分の部屋の匂いを嗅いでいた。家具の配置はそのままなので、目が見えなくてもある程度わかる。幸は目が見えなくなってから今まで避けていたピアノに向かうと、右手を鍵盤の上に置いた。 躊躇いながらも、単音を奏でる。聞き慣れたピアノの音だった。もはや吸い込まれるように、幸は目を瞑ったまま、両手で鍵盤を押さえた。何度も音を外しながらも、次第に曲になってゆく。身体に染みついたように奏でる音楽、動く指先。幸は嬉しさに、涙を流していた。
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