一方の和人は、早くもちょっとした有名人になっていた。発売と同時に売り出された和人自身の宣伝によって、絵本の売れ行きは予想を上回る売れ行きである。宣伝には、聴覚障害者が書いたという売り文句があったことで、和人自身も傷付いていたが、予想の範囲内ではあったので多くは語らずにいた。いつかハンデがなくても実力で認められるように、和人は前を向くしかなかった。 「すごいお花でしょ」 家で過ごした夏休みを終え、久々に祥子の家に行った和人は、溢れ返る花の数に苦笑した。 『実家もこんな感じだよ。花瓶が足りないくらいだ』 「そうよね。私もこんなにもらったの初めて。やっぱりマスコミがこぞって和人の記事書いたから……」 祥子はそう言ったところでハッとした。ほとんどの記事は、和人のハンデを煽り立てられたもので、内容に関してはほとんど触れられていない。読者からは哀れみの声ばかりが聞こえるほどだ。和人は苦笑した。 『僕、頑張るよ。哀れみでも蔑みでも、僕のことを知ってくれた読者がいる。その人たちを逃さないためにも、これからだと思うんだ』 あまりに前向きな和人に、祥子は清々しさを覚えていた。また和人の、別の一面を見られた気がする。 「うん、そうだね。私も負けてられない」 二人は笑顔で頷いた。
しばらくの間、世間の関心が和人に向けられていた。小さい頃から文学で賞を取り、現役大学生ながらも絵本を出版。それがベストセラーとなれば、マスコミも放ってはおかない。テレビ番組へゲストで招かれることもしょっちゅうあったが、学生の身なので辞退していた。それでもマスコミは実家にまで来るようになり、近所の人にサインを強請られるようにもなった。 一番嬉しかったのは、和人のファンだと言って訪ねてくる人たちが、手話を勉強してくることだった。自分の障害が、少しでも理解させて受け入れられていることに、和人は嬉しさを隠せなかった。
数週間後。和人は、高校時代を過ごした聾学校へと出向いた。在学中の同じ障害を持つ生徒たちに、講義をしてくれと頼まれたのだ。母校で未だ知っている恩師も多い中、和人はその申し出を受けることにした。先輩として仲間として、今ある和人の現状から苦しさまで、包み隠さず話した。 講演を終えても、和人はしばらく学校に残っていた。先生や生徒と交流をして、一人で校舎を歩く。思い出が詰まる学校だ。聾学校の向こうの校舎には、盲学校もある。総合福祉施設のため、校門は一緒だが校舎は別々なのだ。病院も隣接しリハビリセンターもあるため、ここには多くの人が訪れている。 和人はしばらく思い出に浸っていると、校舎を出ていった。ちょうど盲学校の生徒たちが帰る時間のようで、バスで帰る生徒たちが健常者とともに、列を作ってバス停へと歩いていく。また大きな駐車場には、生徒たちを迎えにくる人たちの車で溢れ返っていた。 その時だった。和人の目に一人の女性が映り、釘付けになった。幼い生徒たちとは飛び抜けて背丈も違う、大人の女性だ。幸である――。和人は目を疑った。しかし思い起こせば、幸もリハビリや訓練のために施設に通っていると聞いていた。同じ学校だったのかと、和人は認識した。 迎えを待っているのだろう。幸は駐車場にある、待合場のベンチの一つに座っている。すると徐に、幸が顔を背けた。そばに喫煙所があるため、煙草の煙が風によって幸を直撃しているのだ。 少しして、幸は耐え切れなくなったのかベンチから立ち上がった。その拍子に、膝に乗せていたバッグが落ち、中身が散乱する。 思うより先に、体が動いていた。和人はその場から幸のそばに駆け寄ると、近くにいた誰よりも素早く物を拾い上げた。そして幸のバッグに戻すと、幸の手に戻してやった。 「……カズト?」 不安気に半信半疑な顔をしながらも、確かに幸の口がそう動いた。何度も見慣れた幸の唇が、自分の名を発している。和人は躊躇いながらも、肯定の意味を含めて幸の腕を叩いた。自分と幸の、唯一のコミュニケーションだ。 「和人なのね……?」 そう言った幸に、和人は嬉しくなりながらも、いたたまれない気持ちに駆られた。もう幸は、自分に会い、名前を呼んではくれないと思っていたからである。 その時、門を入ってくる見覚えのある車が、和人の目を奪った。幸の家の車である。和人は幸の手を取ると、その手を丁寧に下ろし、逃げるように去っていった。 「幸」 立ちつくす幸に、母親が声をかけた。幸は自分が和人を傷付けていることを再認識していた。幸自身も、まだ和人と向き合う勇気が持てない。 「幸、どうしたの?」 車へ誘導しながら、母親が尋ねる。幸は少し俯いた。 「ううん。ただ……懐かしい匂いがして……」 ぼそっと、幸がそう言った。 和人の匂いがした――。汗の匂いでも香水の匂いでもない。古くから知っている、和人の匂いがした気がした。直感だったのかもしれない。ただ、和人だと思った。 幸はそのまま母親とともに車へと乗り込み、家へと戻っていった。
数日後。まだ薄暗い早朝、幸の家のリビングには明かりがついていた。今日から父親が出張へ行くというので、幸の母親が早くから食事を作っている。幸はまだ寝ているはずだ。 「帰るのは来週だったわよね?」 母親が、食事中の父親に尋ねる。 「ああ。早ければ週末には帰るよ」 「わかったわ。でも、急な出張なんて困るわ。私もパートの仕事、急には休めないのよ。なんとか同僚に代わってもらうことは出来たけど、今日は誰かに頼まないと、幸のお迎えが出来ないわ……」 母親が心配そうに言う。幸が事故に遭ってからというもの、母親は幸につきっきりでいる反面、幸が施設へ通い始めてからは、その時間だけは近所でパートの仕事を始めていた。未だ休学中の幸の学費と、現在の治療費を合わせれば、父親の給料だけでは厳しいのだ。幸の迎えは両親が交代で行っている。 「わかってる。こっちだって急で迷惑してるんだ。今日の迎えは、なんとか誰かに頼んでくれよ。仕方ないだろう」 ため息混じりに、父親がそう言った。 「あなた。音楽学校、退学の手続きしましょうか……幸も手術はしないって言ってるし、このまま休学してたって、学費はいくらか払わなきゃならないのよ? 通ってもいないのに。その上、治療費やリハビリだなんだって、私がパートに出たって、すぐに追いつかなくなるわよ……」 そう言う母親を、父親が困ったように見つめる。 「だけど、あの学校に入れたのは幸の才能だよ。目が見えなくたって、頑張ればピアノも弾けるはずだし、今後手術して見えるようになる可能性も残っているんだ。お金の心配はあるけれど、あの子の唯一の居場所を取り上げることはないじゃないか……」 そう言っている父親も、家計が厳しいことはわかっていた。だが小さい頃からの幸の夢を摘み取ることなど、今は出来なかった。それこそ、幸の新しい人生までもを見失う気がした。 「無理しなくていいわよ、お父さん」 その時、そんな声が聞こえた。両親が振り向くと、リビングのドアのところに幸が立っている。 「幸……」 「私、ちゃんとわかってるから……目が治ろうと治らなかろうと、もうピアノはやらない。学校へも行かない。だから早く、退学の手続きを済ませて!」 強い口調で、幸がそう言った。両親は立ち上がって幸を見つめる。 「お金のことは、子供のおまえが気にすることじゃない。ピアノは続けなさい。今はまだ弾きたくないかもしれないけれど、ピアノはおまえの一番好きなことじゃないか。苦労して入った学校なんだし、今の状態に慣れたら、また学校へ行けばいいじゃないか」 父親がそう言った。しかし間髪入れずに、幸が叫ぶ。 「綺麗事言わないでよ! 私は子供じゃないわ。お金のことだってわかってるし、ピアノだってこれから弾けるわけないじゃない。学校へだって行けないわよ。夢なんて、もうない! だから、退学の手続きをして。私がそう言ってるんだから、さっさとそうしてよ!」 幸は逆上していた。寂しさ、孤独、絶望、それらが入り混じって、何度も幸を襲う。そしてやり場のない幸の心は、一番身近な両親を襲う。かつて同じように、和人を傷付けたように……。 叫びながら、幸も自分と戦っていた。こんなことを言いたくはない。こんなことには意味がない。抵抗して涙が出ながらも、幸の叫びは止まらない。押さえつけようとする両親を振り払いながら、幸は大声で泣き叫んだ。 ドン、ドン――。その時、ガラスを叩くような音が聞こえた。一同は、音がする庭のほうを振り返った。するとそこには、和人が立っている。何度もリビングの窓を叩いている。 「カズちゃん……」 母親の言葉に、幸がビクッと身体を振るわせた。 「すまないね、こんな朝に大騒ぎしてしまって……」 父親が冷静になりながら、リビングの窓を開けて和人に言った。そんな幸の父親に、和人は首を振る。ただならぬ雰囲気を感じながら、和人は幸の父親を見つめた。 『僕の母が、さっちゃんの家から声がするって……様子を見に来ただけです。大丈夫ですか?』 ゆっくりと和人が手話でそう言った。幸の父親はほとんど手話がわからないので、少しはわかる母親が頷く。 「大丈夫よ、カズちゃん。ちょっと興奮してただけだから……ごめんねって、お母さんに伝えてね」 そう言う幸の母親に、和人は頷きながら幸を見つめた。幸は俯き加減で涙を流し、口を結んでいる。 「……とにかく、私はもう学校に行かないから。早く退学の手続き取ってね」 幸はそう言うと、手探りでふらふらと歩きながらリビングを出ていった。 「……私ももう出かけないと。出来るだけ早く帰るから、あとは頼んだよ」 父親もそう言うと、足早に家を出て行った。残された幸の母親と和人は、互いに顔を見合わせる。 『……さっちゃん、本当に大丈夫なんですか?』 やがて、和人が心配そうにそう言った。 「ええ。身体のことは、相変わらず……でも、あの子、もう、ピアノはやらないって……」 ゆっくりとそう話す幸の母親の口元を、和人はじっと見つめていた。まるで幸がしゃべっているかのように、母娘の口は似ているものがあった。 あれだけ好きだったピアノをやらないと、幸から聞かされているかのように、和人は愕然とした。そして大きな溜め息をつくと、静かにリビングへと足を踏み入れた。 『お邪魔します……さっちゃんに会わせてください。話がしたいんです』 和人がそう言った。 「でも、話といっても、あの子は……」 『もうお互い、これ以上傷付くことはありません。さっちゃんと話をさせてください』 切実なまでの和人の顔は、幸の母親が頷かざるを得ないほどの気迫を感じさせた。
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