夜中。隣で眠る祥子の横で、和人は天井を見つめながら溜息をついた。 (……僕は何者なのだろう。自分の気持ちがわからないなんて……だけど、僕は祥子が好きだ。さっちゃんを好きな気持ちとはまた違う……でも、このもやもやした気持ちはなんだろう。幼馴染みが離れていくのは、こんなに辛いことなのだろうか) 和人は起き上がって祥子を見つめた。祥子は未だ、和人の横で眠っている。 (祥子……この人もそうなのだろうか。一時だけの感情……僕のことは、ただ珍しく映っているのかもしれない。この人も、いつか僕から離れていくのだろうか。あれだけ愛し合っていた、さっちゃんと修吾さん……それがこんなことになるなんて、信じられない。さっちゃんはどうしているだろう。これからどう生きていくのだろう……) 和人はそう思った。 修吾と幸が別れた。あの二人がどれだけ真剣に愛し合っていたかを知っている。それをいつも羨ましく思っていたが、二人はもう会うこともないのかもしれない。 和人も空しくなった。今まで誰とも積極的な付き合いをしてこなかったのは、別れが怖いという自分の臆病さというのも知っている。だが今、幸から別れを告げられ、和人は自分の先の人生が見えなくなるまで心を沈ませていた。もう幸とは、幼馴染みでも友達でもいられないというのか。そう思うと、悲しくてたまらない。 「和人……?」 そんな和人に気づいて、目を覚ました祥子が和人の腕に触れながら呼んだ。和人はハッとして、祥子に微笑みかける。そんな和人に、祥子も小さく微笑んだ。 「いいんだよ、和人。いつも笑っていなくても……」 祥子が言った。 「自分に障害があるせいで、今まで自分の感情を殺してきたのかもしれないけど、私はあなたの恋人になれて嬉しいし、これからずっと付き合いたいと思ってる。だから、せめて私の前では泣いたり怒ったりしてほしいって、ずっと言いたかった……ただ微笑みかけるだけが、優しさじゃないよ」 その言葉に、和人はぐっときた。今の自分の不安を、祥子はすべてわかってくれているのだと感じる。そしてその言葉は、今の和人にとって一番ホッと出来る、ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。 和人は俯いた。今にも泣き出しそうだった。そして静かに語りかける。 『ごめん……僕はずっと臆病だった。君に対して、自分から何の努力も出来なかった。それが君の不安や不満材料になっていることは知っていても、自分が傷付くのが嫌だった……僕はずるい。君が好きだと言ってくれても、流れに任せるだけで何もしてこなかった。自分から行動して傷付くのが嫌だった……』 和人の本心に、祥子は何度も頷いて聞いている。 「いいのよ。それはみんなそうよ……でも私は、自分から行動しないと、和人と付き合うのは無理だってわかってたから……だから、傷付いても和人が好き。これから正直になってくれればいい。あなたの帰る場所が、私のところになればそれでいいの」 『……僕の帰る場所は、もうとっくに君のところだよ……』 「和人……」 互いが互いに告白するように、これだけ本音をさらけ出したのは初めてだった。 俯いたままの和人の頬に、祥子が触れる。 『さっちゃんが……』 その時、和人がそう言ったので、祥子は手を下ろして和人を見上げた。 「……さっちゃんが?」 『婚約者の修吾さんと、別れたんだ……』 「え……?」 祥子は和人を見つめる。和人はとても辛そうな顔をしている。幸に嫉妬さえ覚えるほどの、苦しい表情だ。 だが祥子は和人の続きの言葉に耳を傾けた。幸のことも修吾のことも、和人から聞いて少なからずは知っている。 『婚約解消されたんだ……彼女を捨てたんだ!』 和人の目から、堪らず涙が溢れ出した。人前で泣くなど、一緒に住んでいた祖母が亡くなった時以来である。 「そんな……ひどい……」 口を結んで涙を拭い、和人は言葉を続ける。 『だけど……一番無力なのは僕だ。僕はさっちゃんの何の助けにもならない。修吾さんを殴ったって、修吾さんが帰ってくるわけじゃなかった……せめて彼がいてくれたら、さっちゃんの心の支えになってくれただろうに、今のさっちゃんには両親しかいない。それが僕には、悔しくてたまらないんだ……』 涙を堪える和人に、祥子は静かにキスをした。そして優しく微笑みかける。 「でも彼女には、あなたがいるじゃない。両親だけじゃないわ。友達だっているはずよ」 祥子の言葉に、和人は首を何度も振った。 『僕じゃ駄目なんだ……僕はさっちゃんに、励ましの声をかけることも出来ない。さっちゃんは僕に、泣き腫らすことも出来ない。僕がいることで、さっちゃんを苦しめたくない……もう、会っちゃいけないんだ……』 その言葉に、祥子は目を見開き、驚いた表情を見せる。 「どうして、そんなこと……そんなふうに思うことないわ。幼馴染みじゃない。彼女だって、そんなふうに和人が思ったら悲しむわ」 祥子がそう言っても、和人は首を振るだけだ。 「彼女に言われたの? もう会いたくないって……」 和人の表情に、祥子が気づいてそう尋ねる。祥子の問いかけに、和人は静かに頷いた。 「そんな! いくら大変な時だからって、和人を傷付けることないじゃない!」 突然、祥子が興奮してそう言った。和人がここまで落ち込んでいる原因を知り、幸を腹立たしくも思う。 『違うよ。僕は傷なんて付かない。だけど、さっちゃんの気持ちはわかるんだ……』 「どうして平気でいられるの? 彼女の婚約者が彼女を捨てたように、彼女は和人を捨てたのよ?」 祥子の言っていることはもっともだった。だが和人には、幸の気持ちのほうがよくわかる。 『平気なんかじゃない……だけど僕がさっちゃんの立場でも、僕がいるだけで辛くなるのは当然だと思う』 「和人……」 『僕は……もしもさっちゃんに何かあった時は助けたい、なんでもしてあげたいってずっと思ってた。僕が小さい頃、友達が離れていっても苛められても、さっちゃんだけは僕に手を差し伸べて、友達でいてくれたから……だけど実際、僕にさっちゃんを助けることなんて出来なかった。僕はこれほどまでに自分を無力だと思ったことはないよ。だけど、どうしようもないんだ……彼女が唯一望むことは、僕と会わないことなのだから……』 和人の言葉を聞いて、祥子は和人を抱きしめた。 「じゃあ、忘れなよ。これからは、私が彼女の代わりになるから……私もう、和人の悲しそうな顔も苦しそうな顔も、見たくないの。もう傷付かないで……」 返事の代わりに、和人は祥子を抱きしめた。もうお互い、何も言わなかった。
数ヵ月後。和人は祥子の部屋で、先日出版されたばかりの祥子が手かけた絵本を読んでいた。祥子の絵はほのぼのとしていて、いつもホッとさせられる。 祥子は絵本の下から、和人の顔を覗き込んだ。 「……どう?」 その質問に、和人は微笑んで頷く。 『うん。良い作品だと思う。また腕上げたね』 和人が言った。祥子は素直に喜ぶ。 「本当にそう思う?」 『うん。暖かくて、優しい絵だと思う。大人が見ても楽しめるよ』 「よかった。和人にそう言われるのが、一番嬉しい」 二人は笑った。 「それで……本当に引き受けてくれるの?」 突然、祥子が聞きづらそうに尋ねた。 数日前、祥子がよく世話になっている出版社の社長との飲み会が行われた。和人は関係ないのでその場にいなかったが、祥子の恋人の話が出たのだ。祥子は、恋人は耳が不自由だが才能ある文学青年で、将来は小説家を目指していると言った。 もちろん、その社長が興味を持って、和人のコネの一つになってくれればとの思惑もあったが、その後本当に社長が和人と会いたいと言うとは思ってもみなかった。 そこで昨日、祥子が間に入る中、和人と出版社社長との面接が行われた。そこで社長は、和人に絵本を書いてみないかと勧めたのだった。文は和人で、絵が祥子。善意的で実験的な試みのようだが、二人にとっては願ってもない話である。しかし別れ際に言った社長の言葉が、二人の顔を引きつらせた。 「障害のある君の作品なら、泣かせ話で大々的に売り込める。君が取った賞の雑誌も、売れ続けているそうじゃないか。今回も我々の宣伝効果に負けないように、頑張ってくれよ」 和人のことを侮辱され、祥子は震える思いでその場にいた。社長を殴ってでも撤回させたかった。まるで実力ではなく、和人に障害があるから賞を取ったのだと言っているようなものだ。そんなことは断じてない、それは和人の作品を読めばわかる。そう言ってやりたかった。 だが、そんな祥子の肩を抱くことで止めたのは、和人であった。和人はただじっと、祥子を見つめている。去っていく社長を呼び止めもしない。祥子は苛立った。
「どうして黙ってたの? 賞を取った雑誌が売れてるからって、和人の障害とは関係ないじゃない。そのことは公開してないんだもの。それをあの社長はわかってないし、ただの嫌味よ。嫌なら断っていい、怒っていいのよ? あの社長に撤回させてもよかったのに」 昨日の続きで祥子が言う。そんな祥子に、和人は苦笑する。 『慣れてるよ』 和人のその言葉に、祥子は聞き返す。 「え?」 『慣れてるって言ったんだ。小さい頃から、その類の嫌味は言われ続けてる。僕が気にしなければいい話だよ』 「慣れてるって……」 祥子は和人のように割り切れないと思った。自分が和人の立場なら、和人のようにはいかないだろう。しかしそんな祥子をよそに、和人は祥子の絵本をパラパラとめくっている。 『……妬みや羨み、哀れみ、蔑み……そんな人はたくさん会ってきた。今更どうってことないよ』 未だ納得いかない様子の祥子に、やがて和人がそう言った。 「和人……」 『小学校や中学校の時、学校内の作文コンクールで何度か入賞したことがあるんだ。その時も、同級生に散々嫌味言われたし……でも、そのうち大人に認められるようになったら、そういうこともなくなっていった。そういう人には、頑張って実力で認めさせればいいんだ。それが一番難しいけど……祥子もいるし、大丈夫だよ』 そう言った和人に、祥子はやっと笑みを零す。 「私もいるし、大丈夫、か……」 祥子が俯いて言った。 『なに?』 「ううん。じゃあ、二人で二人三脚、頑張ろうね!」 抱きついてきた祥子に、和人も笑って頷く。だが、和人自身も気乗りしない仕事となったことには違いなかった。
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