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作品名:Pure Love 〜君しか見えない〜 作者:KANASHI

第14回   離別
 病棟へ戻った和人は、幸の病室を訪れた。もはや幸も落ち着いたようで、廊下から覗く限り、部屋に看護師の姿はない。
「カズちゃん……?」
 気配に気づいて、ベッドを囲むカーテンの向こうから、幸の母親が顔を覗かせた。和人はぺこりとお辞儀をする。
「カズちゃん、その傷どうしたの?」
 さっき修吾とやり合った時に出来た、和人の頬の擦り傷は、すでにみみず腫れとなって血を吹き出していた。
『なんでもないよ……』
 悲しく微笑みながら、和人が答える。
「和人がいるの……?」
 ベッドからそんな声が聞こえ、幸の母親が和人から視線を逸らす。
「うん……いるわよ」
「近くへ呼んで……」
 幸の言葉に、母親は和人を手招きした。和人は静かに中へ入り、ベッドを見つめる。幸は少しベッドを起こし、俯いている。
『ごめんね。もう、和人と話すことが出来ないの……』
 唯一動く右手だけで、幸は手話でそう言った。和人は目を丸くして、素早く幸の右手を取った。そして幸の手を取ったまま、自分の顔に持っていく。幸には、和人が首を振って否定しているのがわかった。
『でも……私は手話が見えないし、和人はしゃべれない……』
 手を離してそう言う幸に、和人は尚も首を振る。だが実際に、そのジェスチャーすらも通訳が必要だ。和人はどうしたらいいのかわからなくなってしまい、もう一度幸の手を取った。これほど自分の障害を呪ったことはなかった。
 和人が何をしているのか、何を言いたいのかもわからない幸は、もう一度右手を上げて話を続ける。
『だから……もう、ここへは来ないで。私も、和人としゃべれないのは辛い……』
 その言葉に和人は俯いた。今の和人には、幸に否定も肯定も伝えられない。
『だから、和人……』
 幸は俯いたまま、和人に語りかける。
「う……あー……」
 その時、和人の口から声が発せられた。
 和人は首を振りながら、懸命に喉に力を入れた。もうしゃべる術さえ忘れてしまいそうだ。それでも、何か訴えかけたかった。
 幸と幸の母親は、和人の声に驚いていた。和人が聴覚を失ってから、和人の声を一度だって聞いたことがない。
「和人……」
 幸は和人の頬に触れ、悲しみに暮れていた。どうしてこんなことになってしまったのだろう……身体中が痛い。婚約者の修吾も離れていった。夢であったピアノを弾くことも、これからは難しいだろう。
 これからの人生、どうなってしまうのか。そう考えると苦しくて頭が重くなる。なにより和人といるだけで、自分が無力に感じられてしまう。それは幸の心を支ええられないほど重く圧しかかり、生きる希望さえ失われるようだった。
「さよなら……ごめんね、和人……」
 俯きながら幸がそう言った。和人はそれ以上、もう何も言えなかった。
 何も出来ない。だが和人の心は、幸を抱きしめたい思いで一杯だった。傷付いた幸を支えたい。一人にしたくない。いつものように、肩を叩いて合図を送りたい。そう思っても、幸の痛々しい姿では、どこに触れれば痛まないのかすらわからない。
 和人は肩を落とし、唯一触れられる幸の右手を取った。そして幸の胸の前に拳を作り、上下に振る。片手ながらも、『頑張る』という手話が幸に伝わる。それは和人からの『頑張れ』のメッセージとともに、幸自身が『頑張る』という願いが込められていた。和人の精一杯の、励ましの言葉だった。
 やがて幸を見つめると、和人は静かに立ち上がった。そして一部始終を見て辛そうな顔をしている幸の母親の肩を叩いて微笑み、病院を去っていった。

 和人は喪失感で、何も考えられなかった。ただふらふらと駅へと歩いていく。自分の存在が幸を苦しめるなら、もう会わないほかない。
 “さよなら”と言った幸の姿が、頭から離れない。婚約者の修吾も、もはや幸を支えてくれる存在ではなくなってしまった。和人には、幸のことが気かかりでならない。
 ふと気づくと、駅を通り過ぎようとしていた。和人は溜息をついて駅へと戻っていく。すると、ポケットに入れている携帯電話が震えた。祥子からのメールである。
<今、家に帰りました。今度はいつ会える?>
 和人は顔を上げると、元来た道を戻っていった。

 和人にメールを送ったものの返事がない祥子は、気を取り直して部屋で一人、仕事をしていた。イラストレーターの祥子は、今は絵本の仕事が多く、多忙な日々を送っている。
 メールを待ちながらも、祥子が仕事に熱中しかかったその時、部屋の呼び鈴が鳴った。
「はーい」
 祥子はインターフォンの受話器を取った。画像を送れるほどのものではないが、声でのやり取りは出来る。しかし、一向に相手からの言葉がない。祥子はハッとした。
「和人……?」
 祥子は受話器を置くと、玄関へと走っていった。ドアを開けると、案の定、和人の姿があった。
「和人。急にどうしたの?」
 そう言う祥子の顔を見て、和人は気が緩んだように息を吐いた。そして、唐突に祥子を抱きしめる。
「……和人?」
 強く抱きしめられながら、祥子が尋ねる。だが和人はそのまま、抱きしめることを止めない。祥子もまた和人に抱きつき、二人はしばらくそのままでいた。
 しばらくすると、やっと和人が祥子を離した。その顔は疲れきったような顔で、静かに祥子を見据えている。
『ごめん。突然……』
 やがて和人がそう言った。そんな和人に、祥子は笑って首を振る。
「いいわよ、全然。むしろ嬉しい」
 笑顔で祥子が言った。
 奥手な和人は、今まで一度だって自分から行動を起こしたことがない。メールをするのも、キスをするのも、いつも祥子からだった。そんな和人に、少し不満を持っていたのも事実だ。だが和人が会いに来てくれた。祥子は素直に嬉しかった。
 そんな祥子の気持ちを知ってか、和人からもやっと笑みが零れる。
「どうぞ、入って」
 そう言って、祥子は和人を部屋の中へと招き入れる。部屋に通された和人は、ソファにただじっと座っていた。
「お茶どうぞ」
『ありがとう……』
 出されたお茶に、和人は口をつける。だが視線はじっと一点を見つめたまま、動こうともしゃべろうともしない。
「……その傷、どうしたの?」
 祥子が和人の頬を指差して言う。和人の右頬は、もはや切り傷のように痛々しく残っている。
『ちょっと……ぶつけたんだ』
 嘘ではなかったが、それ以上詳しいことを和人は言おうとしなかった。祥子も慣れた様子で苦笑し、救急箱を取り出して、素早く和人の頬に消毒液を塗り始めた。
「幼馴染みの……さっちゃんに、何かあったの?」
 仕上げの絆創膏を貼りながら、祥子が察して言う。和人との会話に出てくる人物は、職場や学校の誰よりも、幸のことが多かった。それは祥子が嫉妬するほどだが、和人にとって幸は唯一の心から信頼しあえる友人なのだと知っていたので、祥子は何も言えない。
 その問いかけに、和人は静かに微笑んだ。目を閉じても、幸の痛々しい姿が浮かぶ。幼い頃味わった、世界でたった一人になったかのような孤独。きっと幸も、その孤独を今味わっているに違いない。自分はまだ、幼かった分よかったのかもしれない。だが幸は違う。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
 和人は突然、祥子に抱きついた。人肌が恋しい。幸の苦痛が、いつの間に自分の苦痛に変わっていた。今でも不安で仕方がない毎日。また幸から別れを告げられた今、和人は孤独になった気がしていた。
「和人……」
 祥子はもう何も聞かず、和人を抱きしめた。もう何も言わなくていい。和人が自分を必要としてくれることが、これほどまでに嬉しいとは……和人の不安は、拭い去ってあげたいと思った。
 和人が祥子を見つめる。二人は吸い寄せられるように、静かにキスをする。そのまま和人は、祥子をソファに押し倒した。
「和人……」
 抱き合った祥子から出た言葉が、和人に響く。それが妙に心地良い。
『もっと言って……』
 和人が言った。
「和人……和人……」
 素直にそう言う祥子に、和人は目を瞑って、もう一度祥子を抱きしめた。
 「カズト……」突然、和人の脳裏に、和人の名を呼ぶ幸の姿が浮かび、和人はハッと目を見開いた。そんな和人に驚き、祥子も不安気な表情を浮かべている。和人は意気消沈して、起き上がった。
「和人……?」
 意味もわからず、祥子が和人の顔を覗き込む。和人は祥子を見つめた。なんだかいけないことをしているように思えた。自身の孤独を祥子で埋めようとしている自分が、汚く思える。
『ごめん。突然来て、こんなこと……』
 そう言った和人の手を、祥子が包む。
「……私は大丈夫だよ、和人。あなたが好きだもの」
 祥子の言葉に、和人が頷く。何かの自信が芽生える気がする。
『……僕も、君が好きだよ』
 和人の言葉に、祥子も微笑む。互いの気持ちを確認し合うように、二人はそのままもう一度倒れ込んだ。


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