数週間後のある日。和人の元に幸からメールが届いた。修吾と三人での食事会の日取りが決められていた。和人はあまり気乗りしなかったが、二人の顔を立てるためにも受けようと思った。 メールから数日後、和人はとあるダイニングバーへと向かっていった。すると、店の前にはすでに幸がいる。 『ごめん、遅くなった?』 走り寄って、和人が言った。 「ううん、今来たの。入ろう」 幸に連れられ、和人は店の中へと入っていった。落ち着いた雰囲気の店内の一角に、二人は通された。しかし、そこには誰もいない。 『修吾さんは?』 「修吾は、車置きに行ってるの。すぐ来るから」 和人が尋ねると同時に、幸が答えた。和人は頷くと、席に着く。 「今日は修吾の奢りだから、じゃんじゃん食べちゃってね」 そんな幸の言葉に、和人は笑った。すると修吾がやってきたので、和人は立ち上がる。 「やあ、わざわざ呼び立ててごめんな。しかも遅くなっちゃって……」 すまなそうにする修吾に、和人は首を振る。 『いいえ、お久しぶりです。お招きありがとうございます』 「いやいや。本当、久しぶりだね。なかなかお礼が言えなくてごめんな。会う機会もなくなっちゃったから、どうしてるのかと思ってたんだ。ああどうぞ、座って」 一同は席に着いた。 「今日は俺の奢りだから、好きなの食べてくれよ」 修吾はそう言いながら、自らもメニューを見つめる。そして注文を済ませると、三人は乾杯をした。 「乾杯」 グラスを交わすと、その場はやっと落ち着いたように、和やかな雰囲気となった。 「美味しい。ここ、お料理も美味しいんだよね」 ジュースを飲みながら、幸が言う。 「ああ。きっと水上君も、気に入ってくれると思うよ」 修吾の言葉に、和人が頷いて手話をする。 『お洒落なお店ですね』 「そうよね。結構人気の店なんだよ。美味しいのに値段も手頃だしね」 そう答えた幸に、和人は相変わらず、静かに笑みを浮かべて頷いている。 幸はふと思った。和人はいつも笑っている。心配そうな顔や困った顔なら見かけるが、思えば和人が心から笑った顔や、怒った顔が思い出せない。 「幸?」 修吾にそう呼ばれ、幸は我に返った。 「え? あ、ごめん。なんかいろいろ思い出しちゃって……」 「心配事でもあるの? ピアノのこととか」 「うん、まあいろいろ……本当ごめんね、なんでもないから」 そう言う幸に、和人も修吾も特に気に留めた様子はない。そんな一同の元に、続々と料理が運ばれてきた。 「わあ、美味しそう」 「ああ。さあ、じゃんじゃん食べて」 「いただきます」 一同は食事を始めた。 「水上君は、何のアルバイトしてるんだっけ?」 食事をしながら、修吾が場を盛り上げようと、和人に近況を尋ねた。和人は素直に答える。 『出版社で、校正の仕事をしています』 「え?」 初歩的な手話しか知らない修吾が聞き返すと、幸が口を開いた。 「出版社で校正の仕事をしてるって。親戚の伝手だったよね?」 そう言う幸も、母親から聞いただけの話であり、和人の近況は何も知らない。 「そう、出版社……水上君、大学も文学部だったものな。将来はそっちのほうに進むの? 作家とか」 『そうですね。作家になりたいという夢はありますが、どうなるか……一応、いくつか書くことはありますが、とりあえず卒業したら、今の出版社に勤めようと思っています。早いうちから誘ってもらっているし、とても勉強になるので』 和人がそう言った。それを幸が修吾に訳してやる。訳しながら、幸は和人もきちんと将来のことを考えていることに感心した。幸の中では、今でも和人の小さい頃の思い出が根強く残っている。改めて大人なのだと気づかされ、苦笑した。 『修吾さんは、バイオリニストになるんですよね?』 今度は逆に、和人が尋ねた。 「うん。今の大学を卒業したら、外国に渡って勉強を続けるつもりだよ」 『……じゃあ、さっちゃんも?』 修吾の言葉に、和人が幸に尋ねる。 「う、うん。まだハッキリとは決まってないけど……」 「卒業したら結婚して、二人で海外に行くつもりだよ。俺はバイオリニスト。幸はピアニストとしてね」 幸に続いて修吾が答えた。 卒業後のことは、まだ二人で話し合っている最中だった。それをハッキリと修吾が答えたことで、幸は少し驚いた表情を見せる。 「なに、その顔……もしかして、海外に行くの嫌?」 きょとんしている幸に、修吾が怪訝な顔をして口を開く。幸は首を振った。 「い、嫌じゃないよ。でも、そこまで二人で話したことなかったじゃない。あんまりハッキリ言うもんだから、びっくりしちゃって……」 「そっかそっか。そういえば忙しさにかまけて、あんまり話してなかったもんな。でも、俺はずっと前からそう決めてたけど?」 「あ、そう。いいわよ、私は修吾が決めたなら」 微笑み合う二人を見て、和人も微笑ましく思えた。 『おめでとう。先が楽しみだね』 照れ合う二人に向かって、和人がそう言った。幸と修吾はまた笑う。 「そういう和人も、恋人がいるんじゃないの?」 突然、幸がからかうように和人に言った。そんな幸に和人が首を傾げて尋ねる。 『……どうして?』 「正月に見たのよ。和人が実家近くの本屋さんで、女性と一緒にいるところ」 正月に和人を見たことを言うのは、これが初めてだ。からかうようにしながらも、幸はあの女性のことが知りたかった。和人の恋にも興味がある。 『ああ……』 和人は、思い当たる節を探して苦笑した。 『なんだ。いたなら声をかけてくれればいいのに……』 「二人が良い雰囲気だったから、かけそびれちゃったのよ」 『またまた……あの人は、職場で知り合った人だよ。イラストレーターをしてるんだ。いろいろお世話になってる』 和人がそう答えた。 「その人と、付き合ってるの?」 楽しそうに話す和人と幸に、やっと修吾がそう言って話に入ってきた。 『いや、まだそこまでは……』 「そこまではってことは、脈ありなんだ?」 修吾の言葉に、和人は苦笑する。 『まあお互い、大事には思っていると思いますよ……』 少し照れながらそう言う和人を、幸は眺めるように聞いていた。正月に見かけた二人は、明らかに恋人同士に見えた。幸の知らない和人が、そこにいた。
『ご馳走様でした。今日はありがとうございました』 しばらくして食事を終えた三人は、店の外へと出ていった。そこで和人が、修吾にそう礼を言った。 「いやいや、お礼を言うのはこっちだよ。わざわざ来てもらったんだしね」 修吾の言葉に首を振って、和人はもう一度礼を言った。 『ありがとうございました』 「いいって。じゃあ俺たち車だから……また一緒に食事しような」 『ええ、ぜひ』 話している和人と修吾を見て、幸は見守るような笑顔でいた。恋人と幼馴染み……どちらも大切な存在が互いに笑い合える光景は、幸にとっては嬉しいことだ。 「よし、じゃあ幸。行こうか」 「うん。和人、また連絡するね。おばさん、お大事にね」 幸がそう言うと、和人は大きく頷いた。 『ありがとう。気を付けてね。おやすみなさい』 「うん。和人も遠いんだから、気を付けて帰ってね。今日はありがとう。おやすみなさい」 車に乗り込むため、夜の街へと消えていく幸と修吾を、和人は静かに見つめていた。見ているだけで胸が熱くなるほど、幸と修吾は似合いのカップルだった。微笑ましいと思いつつも、和人の中で幼馴染みが離れていく悲しさは、いつの頃から芽生えたまま、ずっと心に圧しかかっているようである。 和人は小さく笑って溜息をつくと、駅のほうへと歩き出した。すると、ふと何か気に止まって、幸のほうを振り返った。しかし、すでに二人の姿は見えなくなっている。急に和人は寒気に身を震わせた。妙な悪寒に首を傾げながらも、和人は駅へと向かっていくのだった。
「窓、開けていい?」 運転をしながら、修吾がそう尋ねた。幸が頷くと、修吾は運転席の窓を開ける。 「ああ、風が気持ちいいな」 「修吾……顔、赤くない?」 「本当? ちょっとしか飲んでないんだけどな……」 修吾のその言葉に、幸は目を丸くした。 「ちょ、ちょっと、修吾! 運転するのに、お酒飲んだの?」 「二、三杯だけだよ。ほら、トイレに立った時、カウンターにあったワインが美味しそうだったから、ちょっとテイスティングをね……幸にも見えてたから、気づいてるんだと思ってたけど……」 苦笑してそう言った修吾に、幸は苛立った。 「知らないわよ。しばらくトイレから帰ってこないと思ったら、そんなことしてたの? 修吾、車止めて。酔い覚ましたほうがいいよ……」 いつになく怒った口調で幸が言う。そんな幸に、修吾は変わらず苦笑している。 「大丈夫だよ。そんな長い距離じゃないんだから」 「もう!」 その時、二人の視界が突然阻まれ真っ暗になり、車のブレーキ音が辺りに響き渡った──。
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