しばらくすると、事務所に鷹緒が帰ってきた。そこには広樹が残っているだけである。 「なんだ、鷹緒。早いな」 「先に引き上げさせてもらった……あとちょっとだったんだけど、俊二が帰れってうるさいから、任せて帰ってきた」 鷹緒はふらふらとソファに座る。そこへ広樹も近付き、鷹緒の顔を覗きこむ。 「そうか。確かに顔色悪いな……熱は?」 「ない。せっかく早く帰れたから、締切近いし、残った仕事片付けるよ」 そう言いながら、鷹緒は書類を広げる。広樹は苦笑して缶コーヒーを差し出すと、そばにあった机に腰をかけた。 「鷹緒……さっき、沙織ちゃんが来たぞ」 広樹のその言葉に、一瞬、鷹緒の手が止まる。 「……ふうん……」 「何があったか知らないけど、親戚なんだし、同じ事務所に所属してるんだ。ギクシャク関係はやめてくれよ」 「……あいつが、何か?」 「いいや。でも、あの子は顔に出るからすぐわかるよ」 「……そう」 そのまま鷹緒は仕事を続けた。何も言わない鷹緒に溜息をついて、広樹も自分の仕事へかかった。
数時間後。手持ちの仕事を終えた鷹緒は、その場で寝そべった。未だに仕事を続けている広樹が、一段落つけて立ち上がり、鷹緒に声をかける。 「終わったのか?」 「ああ、そっちは?」 寝そべったまま広樹を見上げて、鷹緒が言った。 「まだまだ」 「ハハ……社長さんは大変だな」 「言うこと聞かない社員が一杯でね」 「俺以外か」 「馬鹿言え」 「あははは……」 「おい。仕事終わったなら、もう帰れよ。送ろうか?」 尋ねる広樹に、鷹緒は首を振る。 「いい……ここで寝かせてくれ」 「帰る気力もないか? まあ、ここ二、三日、ろくに寝てないからな……」 広樹はそう言うと、仮眠用の布団を鷹緒にかけ、濡れタオルを投げた。 「おう、サンキュー。気持ちいい……」 濡れタオルを目の上に乗せながら、鷹緒が言う。身体は疲れきっており、このまますぐに眠れそうだ。 そんな鷹緒に、広樹が声をかける。 「明日は休みだったな。ゆっくり休めよな」 「ああ……」 横になっている鷹緒を尻目に、広樹はコーヒーを飲みながら外を見つめた。もう夜も遅いというのに、街のネオンが眩しいくらいに輝いている。 「……沙織ちゃんと喧嘩したなら、僕から言ってあげようか?」 やがて、静かに広樹が言った。鷹緒は苦笑する。 「だから、そんなんじゃないって」 「それなら、いいけど……」 濡れタオルを瞼の上に乗せたまま、鷹緒は静かに口を開く。 「ヒロ。俺……沙織と寝たんだ」 鷹緒の言葉に、広樹は大きく目を見開いた。言葉も出ないというほどである。鷹緒は目を瞑ったまま、そんな広樹の表情を思い浮かべていた。 「お、おまえ……だって沙織ちゃんは、BBのユウと……」 そう言った広樹に、鷹緒は大きな溜息をつく。 「別れたらしい……」 「別れた……そう、か……」 「……なんかもう、どうしていいのかわからなくなってきた……」 本音を語るように、ぼそっと鷹緒が言った。 濡れタオルを額に置き直し、険しい表情の鷹緒が、広樹の目に映った。そのまま広樹は、鷹緒の前に座る。 「後悔してるのか? それじゃあ、沙織ちゃんが可哀想だろう」 「……後悔はしてない。だけど自己嫌悪、かな」 「自己嫌悪?」 「……沙織を傷つけても、突っぱねることは出来たんだろうよ」 煮え切らない態度の鷹緒に、広樹は眉をしかめた。 「じゃあ後悔してるんじゃないか。おまえ、沙織ちゃんのことどう思ってるんだよ? 建て前はどうでもいいけど、おまえの本当の気持ちは……」 「好きだよ。多分……」 鷹緒が言った。これほど素直な鷹緒は、広樹も久しぶりに見る。 「じゃあ……」 「だからってくっつけるほど、俺たちの関係は単純じゃないだろ……沙織はユウと別れたばかりだし、マスコミの目もある。なにより俺たちは親戚同士なんだから、親兄弟含めて全部知ってるんだぞ? それを……」 「そんなに問題か? スキャンダルはまずいけど、お互い好き合ってるのに、どうしてそれを殺さなきゃならないんだよ」 「……うるさいな。俺の心配より、自分の心配しとけ」 急にうんざりした様子で、鷹緒が言った。 「いつもそれで逃げるんだな……確かに僕はあまり恋愛経験もないし、疎いところもあるよ。だけど、おまえを見てるともどかしいよ」 そう言った広樹に、鷹緒は溜息をつく。 「どうにかしなきゃとは思ってるよ。沙織にも……早く電話してやらなきゃ。あいつきっと、俺の電話待ってるのに……」 鷹緒はそう言うと、すうっと眠りについた。広樹はやれやれといった様子で、デスクへと戻っていく。 広樹にとって、鷹緒の告白は衝撃的なものではあったが、何か力になりたいと思った。
早朝、鷹緒は事務所で目を覚ました。すると目の前のソファには、座ったまま眠った少女の姿がある。沙織だった。 「……沙織?」 思わず鷹緒がそう呼ぶと、すぐに沙織は目を覚ました。二人の目が合う。 「鷹緒さん……」 「……おまえ、どうしてここに?」 鷹緒が驚いて尋ねた。昨夜のことは、広樹と話していたところまでしか覚えていない。 「ヒロさんが呼んでくれたの。鷹緒さん、具合が悪いからついててやってくれって……」 「あいつ……」 沙織の言葉を受けながら、鷹緒は起き上がった。
昨晩。沙織のもとに広樹から電話があった。鷹緒から電話を待っていた沙織は、広樹からの電話と知り、少し落胆した。 「沙織ちゃん。鷹緒のことなんだけど……」 突然聞こえた鷹緒という名に、沙織は電話を持ち直す。 「は、はい……」 「実は、鷹緒が事務所で寝込んでるんだ。あいつ、ここ数日まったく寝てないからさ……よかったら看病しに来てくれないかな。僕はもう帰るところなんだ。調子の悪い鷹緒を置いていくにも気が引けるし……」 広樹がそう言った。沙織は目を泳がせる。 「あ、でも、私……今、鷹緒さんとは……」 沙織は渋ってそう言った。今、鷹緒とは会う気にはなれない。鷹緒から連絡が来るまでは、待っていたかった。 「聞いたよ。ユウさんと別れたんだって?」 「……鷹緒さんから?」 「うん……なんとなくだけどね」 「ごめんなさい。急にこんなことになってしまって……社長のヒロさんには、逸早く言うべきなのに……」 電話越しにお辞儀をしながら、沙織は謝った。 「うん。でも、プライベートまで管理するつもりはないよ」 「……鷹緒さん、どうですか? 連絡くれるって言ってたのに、一度もくれなくて……なんかもう、会うのが恐いんです……」 正直に言った沙織に、広樹は静かに口を開く。 「ここ数日、あいつが電話する暇もなかったのは事実だから許してやって。とにかく、気が向いたら様子見に来てやってよ。ぐっすり眠ってるから起きないと思うけど、君がいたら嬉しいと思うし、誰もいないから……それに明日、あいつは休みだから、ゆっくり出来ると思うよ。鍵は開けっ放しにしておくから。じゃあ、またね」 一方的にそう言って、広樹は電話を切った。 「あ、ヒロさん! 私……」 そう言うものの、すでに電話は繋がっていない。 沙織は事務所に行くかどうか悩んだが、意を決して、鷹緒に会おうと思った。会いたくなった。沙織は、夜の街を走り出した。
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