朝日さえ差さない半地下のスタジオに、無造作に転がる衣服。その中に、身を寄せ合うようにして眠った、鷹緒と沙織の姿があった。 鷹緒の腕の中で目を覚ました沙織は、途端に鷹緒と目が合う。 「……あ……」 急なことで、沙織は言葉を失った。幸福感で一杯なものの、もう以前とは違う関係に戸惑いを覚える。 「……おはよう」 そんな沙織に、優しく微笑む鷹緒がいた。 「うん、おはよう……起きてたの?」 「うん、さっき……」 鷹緒が天井を見つめて言った。互いの呼吸が伝わる。 沙織は鷹緒に身を寄せて、顔を見上げた。鷹緒も沙織の動きに合わせて肩を抱き寄せ、沙織を見つめる。 「後悔……してる?」 そっと沙織が尋ねた。 「……いや」 思いのほか、鷹緒の答えはそう返ってきた。一線を踏み越えてしまった二人だが、あれだけ思い悩んでいたはずなのに、なぜか後悔はないようだ。 「……本当?」 「なんで?」 沙織の問いかけに、逆に鷹緒が尋ねる。 「なんでって……」 「べつに後悔するようなら、最初からこんなことしねえよ……」 そう言うものの、鷹緒の顔は晴れていない。 鷹緒は沙織から腕を引き離すと、ゆっくりと起き上がった。時計を見ると、朝の六時半を指している。転がっているシャツを羽織ると、鷹緒は軽く伸びをした。床で寝ていたため体が痛む。 離れていく鷹緒に、沙織は早くも寂しさを感じていた。 「……起きないの?」 寝そべったままの沙織に、鷹緒が尋ねる。 「う、ううん……」 淡々としている鷹緒に、沙織は少し戸惑っていた。そんな沙織に、鷹緒は小さく微笑んで、手を伸ばす。 「今日は、七時半にはみんな来るんだ。そんな格好でいたら、みんなひっくり返るぞ」 からかうように、笑って鷹緒が言う。沙織は鷹緒の手を取ると、真っ赤になって起き上がった。 すでに準備の整っている鷹緒は、撮影に必要な機材を出している。そんな鷹緒を尻目に、沙織も来た時と同じ服装に戻っていた。 鷹緒は準備の整った沙織に気付くと、出入り口へと向かっていく。 「朝飯、食べに行こうぜ」 「う、うん……」 先に歩いて行く鷹緒に、沙織は小走りでついていく。鷹緒の淡々とした様子からは、昨夜の甘い時間など、なかったことのように感じられた。
近くのファーストフードで、二人は朝食を済ませることにした。ちらちらと見る沙織に、鷹緒が首を傾げる。 「なに?」 「えっ?」 「……いやに無口だな」 「だ、だって……」 その時、携帯電話が鳴ったので、鷹緒はすぐに電話に出た。 鷹緒が電話をしている間、沙織は食事を続けながら鷹緒を見つめる。その顔も、その腕も、その瞳も、すべて捉えたはずだった。しかしそんな朝を迎えた後も、いつも通りの鷹緒の様子に、沙織は鷹緒をいつもより遠くに感じていた。 そんな時、鷹緒は電話を終え、沙織を見る。 「沙織。ちょっと事務所に寄ることになった。もう行くわ……」 「あ……うん」 「じゃあ……」 立ち上がる鷹緒を前にして、沙織は口を塞がれているかのように、言いたいことが言えない。 「……電話する」 そんな沙織に、鷹緒が言った。その一言で、沙織は嬉しくなった。 「うん!」 「じゃあな……」 鷹緒はそう言って沙織の頭を軽く叩き、店を出ていった。残された沙織は、まだ不安も多いものの、嬉しさに満たされていた。
その夜、沙織は片時も携帯電話を離さなかった。鷹緒からの電話を待つ。その間、鷹緒との夜が思い出され、思考を刺激する。それだけで何もかもが頑張れるような、沙織の勇気が報われた瞬間だった。 しかしその夜いくら待っても、鷹緒からの電話はなかった。
鷹緒は事務所にいた。目の前には広樹もいて、写真や書類を並べている。 「今、何時?」 そわそわした様子で、鷹緒が尋ねた。 「時間なんか気にせず、手を動かせよ」 苛立った様子でそう言う広樹に、鷹緒は手を止めて時計に振り向いた。時計の針は、夜中の一時を回っている。 そんな鷹緒の頭を、広樹が叩いた。 「イテッ」 「手を動かせっつーの」 「やってるよ」 「おまえが昨日片付けてれば、こんなことはしないよ」 鷹緒は仕事に追われていた。昨日、沙織と過ごしたおかげで後回しになっていた仕事が、タイムリミットに近付いていたのだ。今日の撮影も思いのほか長引いてしまったので、これにかかり始めたのは、すでに夜中といわれる時間であった。広樹が手伝っても、朝までかかることは目に見えている。 鷹緒は溜息をつきながら、今日の沙織への電話は諦め、仕事にかかった。 「……で、何があったんだよ」 仕事を続けながら、広樹が尋ねた。 「え?」 「何かあったんだろ? 離婚した時だって淡々と仕事をこなしてたおまえが、今日は一日中、上の空だ。ミスはするし、溜まった仕事もやってない。何があったんだよ」 「……べつに。何もないよ」 そう言って、鷹緒はそのままソファに寝そべった。その顔はどことなく嬉しそうに見える。 「おい、鷹緒。寝てる暇……」 「五分寝かせて。このままやっても、何も進まない」 「……わかった。べつにおまえが言いたくなければ、何も聞かないさ……」 広樹の言葉を聞きながら、そのまま鷹緒は眠りについた。
次の日。ほとんど寝ずの晩で、鷹緒はやっと仕事を片付けた。しかしその日は、押せ押せで仕事がぎっしり入っている。わずかな休憩時間も削られた鷹緒は、その夜にはやっと戻ってきた自宅で、帰った途端に眠りについていた。 沙織への電話は意識していたものの、結局その日も連絡が出来なかった。
沙織は一向にかかってこない電話を待ちながら、涙を流していた。いらぬ心配をしてしまう。やはり鷹緒は自分と一線を越えたことで、思い悩んでいるのではないか。嫌いになったのではないか。本当に一夜限りの遊びだったのかもしれない……。 その日、不安に怯えながら、沙織も寝不足で倒れるようにして眠りについた。
また次の日。早朝から仕事があった鷹緒は、未だ眠り足りない目を擦りながら、現場へと向かっていった。 「鷹緒さん、大丈夫ですか?」 事務所に着くなり、助手の俊二が尋ねる。 「ん? ああ、平気……」 「でもその顔色、尋常じゃないですよ。この間の風邪がぶり返したんじゃ……」 「いや、ただの寝不足だよ。まだ頭が起きてないし……起きればすぐに復活するよ」 そう言いながら、鷹緒は栄養ドリンクの蓋を開ける。 「でも、フラフラしてるじゃないですか。ちょっと横になったほうが……」 「平気だっつーの。そんなに心配してくれるなら、さっさと仕事終わらせようぜ」 「ハハハ。そうしたいのはやまやまですけど、今日の予定も夜までびっしりですからね」 「仕方ない……気力と体力で頑張らなきゃな」 鷹緒は栄養ドリンクを飲み干すと、仕事に取りかかった。
夕方。沙織は自分の仕事のため、事務所へと出向いた。 鷹緒からの連絡を待つ沙織は、自分から連絡する気にはなれなかった。なにより連絡がない今、鷹緒に会うのが恐い。 「沙織ちゃん、これから撮影?」 事務所にやってきた沙織に、広樹が尋ねる。 「あ、はい……」 返事をしながら、沙織の目は鷹緒を探している。そんな沙織を察して、広樹は苦笑した。 「あいつなら、仕事でいないよ」 「あ、そうですか……」 ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちで沙織が言った。 「夜には帰って来ると思うけど……」 「あ、いいんです。なんでもないですから……」 「……もしかして、鷹緒と何かあった?」 沙織の様子に、広樹が尋ねた。沙織は驚いて聞き返す。 「えっ?」 「ああいや、なんとなく……最近あいつ、いつもと少し様子がおかしいし……」 「……そう、ですか。いえ、別に……」 明らかに沙織は動揺していたが、広樹はそれ以上、何も聞かなかった。 「そっか……」 「じゃ、じゃあ、仕事に行ってきます」 そう言うと、沙織は事務所を出ていった。鷹緒はいつも通り仕事をしている。それなのに、なぜ連絡をくれないのか。沙織の心は、不安で一杯になった。
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