数十分前、沙織はユウの部屋に居た。 「ごめんなさい!」 深々と頭を下げて、突然、沙織が謝った。ユウにはその意味がわかっていた。 「やっぱり駄目か……」 苦笑してそう言ったユウに、沙織がそっと顔を上げる。 「え……?」 「相手は、諸星さんでしょう?」 「……うん」 静かに沙織は頷き、言葉を続ける。 「説明がつけられないの……私、ユウのことは好き。だけど鷹緒さんのことを考えると、胸が苦しくて、イライラして、悲しいの……」 「……うん」 「ユウには、本当にいろいろ教えてもらった。鷹緒さんが日本にいない間も、ユウが居たから私はやってこれたんだと思う。だけど鷹緒さんが帰ってきて、自分の気持ちに嘘はつけなくなったの……ひどいよね。都合がいいよね……結局私は、ユウを利用してしまっていたんだと思う……」 沙織の本音に、黙って聞いていたユウは静かに微笑んだ。 「十分だよ……ひどいのは、僕の方だ」 思わぬユウの言葉に、沙織は顔を上げる。 「前に言っただろう? 諸星さんがいなくなって、ラッキーだと思ったって。あれは僕の本音だ……諸星さんがいなくなって、僕は沙織とつき合えた。沙織も僕を好きになってくれた。それを嘘だとは思わないし、思いたくもない。だけど、もとから無理があったんだよ。沙織の心は、諸星さんがニューヨークへ行った時点で、日本に置いてけぼりだったんだから……」 「ユウ……」 「……この間、沙織が僕を好きだって言えなかった時点で、僕の恋も終わってた……僕は君をスキャンダルに巻き込んで、その中で早く交際を公表したかったのは、諸星さんが帰ってくる前に、既成事実を作りたかったのかもしれない。だから、僕は君に嫌われて同然の男なんだよ……」 静かにそう言ったユウに、沙織は首を振った。 「違う、違うよ。私が……」 沙織は溢れ出そうとしている涙を、必死に堪えた。そうしているうちにユウが口を開く。 「おあいこだよ……」 「……ユウ」 「最後に、一度だけ……」 ユウはゆっくりと沙織を抱きしめた。堪えていた涙が、沙織の目から溢れ出す。決してお互いに嫌いではなかった。たが鷹緒の存在は、二人にとって思ったよりも大きくなっていた。 「愛してる……愛してた。だから沙織、負けないで……」 「ユウ……ユウ……」 なぜ、この人では駄目なのか。なぜ鷹緒なのか。沙織の頭の中でこだまする。またユウの胸の中で、説明のつかない感情が渦巻き、沙織を責め立てる。 ユウもまた沙織に恋をしているからこそ、沙織の気持ちを痛いほどわかっていた。 「さよなら、沙織。またね」 一度も責めることなく、ユウは沙織を笑って送り出した。そんなユウに、沙織は自分の不甲斐なさを恥じた。
「今、ユウと別れてきた」 半地下のスタジオで、鷹緒と沙織は見つめ合ったままだった。 「なに、言って……冗談だろ?」 目を丸くして驚き、鷹緒は激しく動揺しているようだった。こんな驚いた鷹緒を、沙織は初めて見た。 「冗談、じゃないよ。きっぱりと、さよならしてきた……」 「……なんで……」 鷹緒には沙織の行動が理解出来なかった。ただ沙織の次の言葉に耳を傾ける。 沙織は鷹緒を見つめ、ゆっくりと口を開いた。 「鷹緒さん。私、やっぱり鷹緒さんのことが好きなの」 きっぱりとそう言った沙織に、鷹緒はまた目を丸くした。見つめる沙織は悲しげに微笑み、鷹緒を見つめている。 「……さ、おり……」 状況を飲み込んで、鷹緒はやっとそう口にした。だが、次の言葉が見つからない。 「わかってる。鷹緒さんの返事は……だけど、もう遅いの。私、自分が納得するまで、鷹緒さんを好きでい続けるわ……これは誰にも止められない。鷹緒さんにもね。だって好きなんだもん、しょうがないじゃない」 沙織は笑ってそう言った。 「……」 鷹緒は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのかもしれない。 沈黙の中、沙織は少し不安になった。勇気を振り絞って言ったはずの告白も、後悔しなければならないのか……沙織は俯いた。ふられてもいい、何か言って欲しかった。 そんな中で、鷹緒の深呼吸に似た溜息が聞こえる。顔を上げた沙織に、一瞬、鷹緒の顔が見えた。泣いているように見えた――。 次の瞬間、沙織は強く鷹緒に抱き寄せられ、しっかりと抱きしめられた。 「馬鹿か、おまえは。本当に……信じらんねえ。わけわかんねえ……馬鹿か!」 「そ、そんな、バカバカ言わないでよ……」 複雑な気持ちで沙織が反論する。苦しいくらいに抱きしめる鷹緒の肩は、やっぱり震えていた。 鷹緒の腕の中で、沙織はそっと涙を流し、鷹緒の背中に腕を回す。 「私は、鷹緒さんが好きなの……ずっと一緒にいたい……好きなの。好……」 呪文のように繰り返す沙織に、鷹緒は静かにキスをした。すべての願いが叶うような、満たされるキスだった。 互いに引き寄せられるように、二人は何度もキスを重ねた。鷹緒の大きな手が、沙織の頬を撫でる。沙織の髪を解かす。そして鷹緒の唇は、沙織の頬や額をも捉える。やがて、もう一度唇を重ねた。 「鷹、緒さん……」 観念するように、沙織が呼んだ。コツンと、鷹緒の額が沙織の額にぶつかる。 「……止まらなくなる……」 鷹緒の低い声が響いた。一瞬躊躇ったような、伏し目がちの鷹緒の顔が、沙織の目に映る。鷹緒はなぜか辛そうに、自分の頬と口を片手で押さえている。 「鷹緒さん?」 「……ごめん」 その言葉に、沙織は必死な目をして、鷹緒の腕を掴んだ。 「どうして! どうしてそうやって逃げるの? 私……」 「頼むから、そんなこと言うなよ……」 完全に顔を逸らして鷹緒が言った。沙織は離れていく鷹緒の前に立ち直す。 「そうやって向き合ってくれないんだね。どうして? 私、もう傷なんかつかないよ。恐いものもない。私はもう子供じゃない、前より大人だよ。鷹緒さんがそばに居てくれたら、他に何にもいらないの」 わかってほしい……必死の目で沙織が鷹緒を見つめる。そんな沙織に首を振って、鷹緒は目を反らすことしか出来ない。 「俺は、恐いよ。おまえを好きになるのが……」 静かに鷹緒がそう言った。沙織はやっと鷹緒の本音を聞けた気がした。そして次の言葉を待つ。 「大人なら、わかれよ……なんでだよ。俺なんかのどこがいいんだ? おまえは、俺のすべてを知ってるはずだろ。過去も、なにもかも……」 沙織はそっと頷いた。 「そうだよ。その上で好きなんだよ?」 「アホか。なんでよりによって、こんな男に引っかかる必要があるんだよ……あんなトップスターと別れてまで、つき合うのが俺か? それに、おまえの相手が俺じゃ、おまえの両親にだって申し訳が立たないだろ」 依然として苦しげにそう言った鷹緒の手を取り、沙織は口を開く。 「それで……それでそんなに拒むの? なんで、そういうふうに思うの? 私、鷹緒さんの知らないこと、まだたくさんあるんだよ。だけど、知ってるところは全部好き……お母さんたちだってきっと喜ぶよ。それに、ユウは私を理解してくれた。だから私は逃げるわけにはいかないの。それだけすごい人なの、鷹緒さんは!」 沙織はそう言いながら、止め処ない涙を流していた。鷹緒に振り向いてほしい、この気持ちが真剣なことだけはわかってほしい、ただそれだけだった。 「遊びでもいい……捨てられてもいい。一度でいいから、こっちを向いてよ……」 溢れる涙に酸欠状態になりながらも、沙織はそう言った。涙で滲んだ瞳に、未だ辛そうにこちらを見ている鷹緒が映る。 「アホか。遊びだなんて……そんなこと、出来るわけないだろ。俺だって、おまえが……好きなんだから……」 ゾクッという感覚が、沙織を包んだ。 鷹緒は言葉を選ぶように、途切れ途切れにゆっくりと、そう口にしていた。そんな鷹緒を見つめながら、沙織は震える唇を、なんとか言葉にする。 「い、今……なんて?」 やっとのことでそう言った沙織の涙を、鷹緒の手が拭う。ハッキリと見えた鷹緒の顔は、静かな微笑みを向けている。そして何かを吹っ切ったように、鷹緒は沙織をもう一度抱きしめた。 「俺も好きだよ……」 抱きしめられた沙織は一瞬、何が起こったのかわからなかった。 「う、嘘……」 信じられないといった様子で、沙織は鷹緒の腕の中にいる。鷹緒を見上げる表情は不安気だ。 形勢逆転といった形で、鷹緒は苦笑した。そしてもう一度、沙織にキスをする。 「嘘じゃないよ……」 「……じゃあ、もう一回言って……」 「アホ。そんなポンポン言えるか……」 呆れたように、少し顔を赤らめて鷹緒が言った。そんな鷹緒の腕の中で、沙織が飛び跳ねる。 「嫌だ、もう一回だけ! お願い……」 あまりに切実な目で見るので、鷹緒は目を逸らして、小さく溜息を漏らした。そんな鷹緒に少しだけ傷つきながらも、沙織は見つめることをやめない。 やがて意を決したように、鷹緒は沙織を抱きしめ、沙織の耳元で囁いた。 「愛してるよ……」 とろけるような幸福感が、沙織を満たしてゆく。くすぐったいが心地よい。 やがて合う目線に、二人は縺れ合うようにして床に倒れ込んだ。もう、何も妨げるものはない。本能の赴くまま、二人は愛を確かめ合うのだった――。
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