夏――。 沙織は何事もなく過ごしていた。与えられた仕事も順調で、モデルだけでなく今ではちょっとしたタレントもどきな仕事もくるようになっていた。ユウとは相変わらず限られた時間の中で会っていたが、それでも順調に交際は続いている。 鷹緒は帰国間もなくして、日本でのスケジュールが一気に抑えられた。そのため、あちこちに引っ張り回され、二年半前の鷹緒よりも更に忙しくなったと感じるほどである。沙織ともほとんど会う機会はなかった。
ある日。沙織はお盆休みを利用して、家族揃って母方の祖父母の家へ行くことになっていた。いつもはほとんど休みのない沙織の父親も、一人暮らしをしている大学生の兄も、久々に帰ってくるということで実現したものだった。 久々に一家揃った小澤家は、数年ぶりに祖母の家を訪ねる。 「わあ、変わってない。おばあちゃんの家!」 沙織が目を輝かせて言った。それに頷いて沙織の兄、雅人も口を開く。 「本当、ずいぶん来てなかったもんな。俺は中学生以来かな……夏休みには、よくここに来て遊んでたのに」 「いらっしゃい。雅ちゃんも、沙織ちゃんも、大きくなったわね」 祖父母が沙織たちを見て言った。優しそうに目を細めている。久しぶりに会うというのに、その笑顔で沙織の心は一気に解れていた。 「おじいちゃん、おばあちゃん、お久しぶりです。お世話になります!」 一同は中へと入っていった。
「相変わらず、お庭も広いなあ」 縁側に座りながら、沙織が言う。 「沙織ちゃん。沙織ちゃんの写真あるわよ」 そう言って、祖母がアルバムを持って隣に座った。 「へえ、俺も見たい」 雅人も興味津々でアルバムを覗きこむ。そこには幼い頃の沙織と雅人がいた。 「うわあ、いくつだろう。俺が五歳くらいかな?」 「じゃあ、私は二歳?」 沙織がアルバムをめくると、見知らぬ少年が映った。 「あれ? この人……」 「鷹緒兄ちゃんだろ? よく遊んでくれたじゃん」 雅人が言った。沙織の祖母は鷹緒の伯母に当たる。沙織はそれを聞いて、写真に目を凝らす。 「え! そういえば、そうかも……」 「これは鷹緒が十六歳くらいの時じゃないかしらね」 祖母が言った。沙織は祖母を見つめる。 「鷹緒さんも、よくここに来てたの?」 「ああ、沙織ちゃんは覚えてないのね。鷹緒は高校生時代、ここで暮らしてたのよ。卒業してから家を出て、すぐに結婚してしまったけれどね……」 祖母の言葉に、沙織は驚いた。 「え、鷹緒さんが、ここに?」 「俺は覚えてるよ。俺たちがここに遊びに来た時は、いつも一緒に遊んでくれたじゃん」 「へえ。鷹緒さんが……」 雅人の声を聞きながら、沙織はもう一度写真を見つめる。 当時、あまりの幼さに消えてしまった記憶が、写真を通して蘇るような気がした。なにより写真に写っている鷹緒は、まだあどけなさが残る少年で、今の自分よりも年下であり、知らない時代がそこにあった。 「さあ、そろそろご飯にしようかしらね」 祖母がそう言ったので、沙織も立ち上がる。 「おばあちゃん、私も手伝う。でも、このアルバムは貸してもらってていい? 後でじっくり見るから」 「いいわよ」 沙織は祖母について、台所へと向かっていった。
その夜。大人たちが盛り上がる中、沙織は縁側でアルバムを見返した。幼い頃の自分の隣には、間違いなく鷹緒の姿があった。見覚えのある眼鏡をかけている。日本を発つ直前までかけていた眼鏡だ。この写真を見て、年代物だったことがわかる。 (私の知らない鷹緒さん。親戚なのに、何も知らない……) 心の中で沙織はぽりつと呟いた。 「沙織ちゃん。もう寝る?」 そこに、祖母が声をかけた。 「あ、まだ大丈夫……」 「酔っ払いばかりだから、つまらないでしょう?」 「ううん。これ、ありがとうございました」 沙織はそう言って、アルバムを祖母へ返す。 「いいのよ。これを見ると、みんなずいぶん大きくなったことがわかるわね」 「うん……」 「鷹緒と、同じ職場にいるんですって?」 その時、祖母が尋ねた。 「あ、うん。最近は、あんまり会わないけど」 「そう。元気にしてる? ちっとも連絡よこさないから……」 まるで母親のようにそう言った祖母に、沙織は軽く笑う。 「うん、元気そうだよ。なんかおばあちゃん、鷹緒さんのお母さんみたいだね」 「そうね……」 「私、小さい頃の鷹緒さんとの記憶、あんまりないから……ここに暮らしてたって聞いて、びっくりした。仕事で一緒だし親戚だけど、なんにも知らないんだって思った……」 祖母は頷きながら、沙織の隣に腰を落ち着かせた。遠い日を思い返すように、祖母の目は暖かい。そして静かに口を開いた。 「鷹緒の父親は政治家でね。あの子が……鷹緒の母親が死んで、それからすぐに父親が再婚したのよ。その人との子供が生まれた時には、鷹緒も思春期真っ只中で、荒れて荒れて……父親はそんな鷹緒を表に出したくなかったみたいだけど、とうとう放り出すように、うちに連れて来てね。しばらく預かることになったのよ。それが、鷹緒が十五歳の時……」 祖母の言葉に耳を傾ける沙織は、知られざる鷹緒の過去を知った。 「でも、今ではあの子がカメラマンとして活躍しているのを見て、ホッとしているのよ。沙織ちゃんもモデルさんになって、誇らしいわ」 「おばあちゃん……」 相変わらず優しげな祖母の瞳に、沙織もつられて微笑む。 「そうそう、鷹緒がカメラに興味を示したのは、この家でなのよ。鷹緒がおじいちゃんから古いカメラをもらって、よく庭で花とか虫とか撮ってたわ……ほら、この写真を撮ったのも鷹緒よ。写真を撮ることがあの子にとって、救いになってるのかもしれないわね……ああ、ごめんなさいね。こんな昔話思い出しちゃって」 沙織が写っている写真を指差しながら、祖母がそう言った。まだ子供だった鷹緒が撮ったという、ごく普通の写真である。しかし言われてみれば、鷹緒らしい写真といえるかもしれない。 苦笑している祖母に、沙織は首を振った。 「ううん。鷹緒さんにそんな過去があるなんて、知らなかった……なんか今では親戚というよりも、仕事の先輩って感じだから、不思議な感じ。でも、いろいろ知れてよかったな」 「そう。まさか鷹緒と沙織ちゃんが同じ職場で働くとは、思ってなかったわ。あの子はどう? うまくやってるのかしら?」 「うん。スケジュールも一杯みたいだし、ニューヨークに行っても、日本の仕事までやってたんだもん。すごい人だと思う……」 そう言った沙織に、祖母はホッとした顔を見せる。 「そう、よかった……あの子は母親がいないから、私が母親代わりみたいなところはあるのよ。あの子は私たちには優しかったけど、いつも寂しそうで、不憫でならなかったから……」 「へえ……」 「本当に優しい子でね……そうそう、いつだったかしら。あの子がここに来てすぐの時、黒板の字が見えづらいって言うから一緒に眼鏡を買いに行ったんだけど、店の中で申し訳なさそうにしていてね。一生大事にしますなんて……眼鏡なんてそう高いものではないのに、そういうところまで気を使うというか、私たちにも気を許してなかったのかしらね……何にしても買い与えられることを嫌って、結局何もしてあげられなかったのよ」 苦笑しながら祖母が言った。そう言う祖母は、どこか寂しそうだった。 「そんなことないよ。鷹緒さん、眼鏡が壊れるまでずっと着けてたし、きっと今でも大切にしていると思うよ。それに優しいところも、変わってないと思うし……」 祖母を見つめて沙織が言った。そんな沙織に、祖母も微笑む。 「ありがとう。私はあなたみたいな可愛い孫がいて幸せだわ。でも今でも一番心配なのが、甥っ子の鷹緒なのよ……沙織ちゃんは今まで真っ直ぐ生きてきたと、私も誇りに思ってるわ。だけど鷹緒は、いつも不器用でね……沙織ちゃんは鷹緒よりもずいぶん年下だけど、同じ職場同士、鷹緒のことよろしくお願いね」 沙織は少し考えた後、小さく頷いた。祖母の心配そうな顔に、それ以上は何も言えなかった。
数日後。 「沙織ちゃん。茜ちゃんからエアメールが届いたんだ」 仕事を終えて事務所に戻った沙織に、広樹が言った。すでに事務所は閉じていて、広樹しかいない。 受け取ったエアメールは茜から事務所のみんな宛てで、茜の結婚報告が書かれているほか、結婚相手との写真が同封されている。 「知ってた? 茜ちゃん、結婚したんだってさ。あれだけ鷹緒に熱上げてたのに、遂に諦めたか……」 苦笑しながら広樹が言った。沙織は頷き、同封の写真を見つめる。そこには幸せそうな茜の姿があった。 「前に鷹緒さんから聞きました。でも、素敵な人みたいですね」 「うん。結婚か……どんどん追い越されるなあ」 広樹の言葉に、沙織が笑った。 「ヒロさんは、そういう話あんまり聞かないですけど、結婚はしないんですか?」 「あはは。痛いなあ。しないってわけじゃないけど、相手がねえ……今はまだ、事務所も手一杯だし……なんてね」 「大変ですよね……」 「まあね……鷹緒みたいに、さっさと結婚しちゃうやつもいれば、僕みたいに、そんな気配すらないやつもいるわけだよ」 それを聞いて、沙織はふと尋ねる。 「鷹緒さんって、十代の頃に結婚したんですよね?」 「そう、十九だったかな?」 「えっ、じゃあ理恵さんはもっと下ですよね? もしかして、学生結婚?」 驚いた沙織に、広樹は手を振って否定した。 「いや、理恵ちゃんはモデル一筋で、高校には行ってなかったからね。学生結婚ではないよ。でも鷹緒が十九だから、理恵ちゃんは十七か……」 「何の話してるんですか?」 そこに、外回りから帰ってきた理恵が顔を出す。 「ああ、理恵ちゃん、おかえり。今、君と鷹緒の結婚当時のことをね」 「何を言ってるんですか。そんな昔の話を……」 広樹の言葉に、苦笑しながら理恵が言う。それに続いて、沙織も口を開いた。 「でも、すごいですね。十代で結婚なんて……」 「すごくなんかないわよ、幼いだけ。慎重ではあったけど、周りも見えなくなっててね……さあ、こんな古臭い話は終わりにしてください。ヒロさん、子供が風邪引いてるんで、これで帰らせてもらいますね」 「恵美ちゃん、大丈夫なの?」 急いで片付けている理恵に、広樹が尋ねる。 「ええ。今朝、病院にも連れて行ったし、大丈夫です。たまに大きな風邪引くんですよね……じゃあ、お先に」 理恵はそう言うと、事務所を出ていった。 「風邪か。今年の風邪は、熱かららしいよ。気を付けようね……それより、沙織ちゃんはどうしたの? 仕事終わったんだよね?」 そう尋ねてきた広樹に、沙織は少し照れ笑いする。 「あ、さっき仕事終わったんですけど、家に帰っても一人だし、事務所に誰かいないかと思って……」 「ああ、たまに一人で居たくない時もあるよね。今日はユウさんとも会わないんだ?」 「最近会ってないです。今はツアー中だし、なかなか……」 「売れっ子とつき合うのも大変だね……じゃあ、よければ鷹緒の家に行ってきてくれない? あいつ、今日は直帰してて明日も休みなんだけど、休み中にやっておくって言ってた仕事、持って帰ってないんだよ。明日取りに来させるのも可哀想だしね」 沙織は頷いた。全然会わない鷹緒に、会いたい気持ちもある。 「いいですよ。でも休み中にまで仕事なんて、鷹緒さんも大変そうですね」 「あいつは仕事人間だからね。そうでもなけりゃ、一人身でやってられないよ。じゃあ頼むよ」 「はい」 沙織は大きな封筒を受け取って、事務所を出ていった。鷹緒の家へ行くのは、鷹緒が日本を発って以来である。
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