鷹緒が日本を発った後、沙織は主にモデルとして活躍の機会が広がっていった。後にその多くは、鷹緒が取ってきた仕事だと知った。学校が始まった頃には、沙織はちょっとした有名人で、友達からも写真を強請られるようなこともある。 沙織は、“頑張る”という鷹緒との約束を胸に、与えられた仕事をこなしていこうと張り切っていた。
それから一年後。鷹緒からの連絡は、沙織宛てには一度もなかった。ただ、たまに事務所に入るらしい連絡で、鷹緒のニューヨークでの活躍を聞いていた。 そんなある日――。 「え、BBと?」 事務所で、沙織が驚いて言った。目の前には、副社長であり、すっかり沙織のマネージャーと化した理恵がいる。 「そうなの。前にBBと話したことがあったんですって? これも鷹緒伝手の仕事だけど、そのBBからオファーなの。新しい飲料水のCMで、BBが起用されることになったんだけど、その相手役にどうかって」 理恵の説明に、沙織の目が輝いた。 BBは未だに人気歌手グループであり、沙織もファンで何度かコンサートにも行っている。鷹緒の伝手で、コンサートの打ち上げにも行ったことがあり、BB本人たちと少しだけだが話したこともあるのだ。そんな過去が一気に噴き出す。 「やりたいです!」 沙織が言った。鷹緒と離れてから、沙織は今までになかったやる気を見せていた。仕事を始めて消えかけていたミーハー心も、BBと聞けば盛り上がる。 「じゃあ、返事しておくわね」 微笑みながら、理恵が言った。
夏休み中の沙織は、いつもより忙しかった。受験も控えているのだが、乗っているこの時期に仕事を疎かにするわけにもいかず、事務所で受験勉強に励むこともしょっちゅうだ。 そんな中で、沙織の初めてのCM撮影が開始された。しかも共演はBBという、未だ人気絶頂の歌手グループと組むということは、沙織にとっても大きな前進となることを意味する。 「沙織ちゃん!」 撮影現場で一番最初に声をかけたのは、BBのリーダーであるユウであった。 「ユウさん」 少し躊躇いながらも、気さくに話しかけてくれるユウに、沙織も笑顔で応える。ユウは笑顔で言葉を続けた。 「すっかり有名人だね。こんなふうに君と共演出来るなんて嬉しいよ。シンコンで準優勝したのは知ってたけど、会う機会もなくて、お祝いも言えずにごめんね」 「知っててくださったんですか? そんな、こちらこそ……」 久しぶりの本物のユウを前に、沙織はまだ緊張していた。それに構わず、ユウは気さくに話を続けてくれる。 「もちろん、覚えてるよ。諸星さんが売り込んでたからね。諸星さんとは連絡取ってるの? ニューヨークなんてすごいけど、残念だな。僕らまだまだ諸星さんに撮ってもらいたかったんだよ。今度、ニューヨークで写真集撮ろうかなんて話もあるくらい」 「へえ、そうなんですか! いえ、私は全然連絡取ってないです……事務所の方には、たまに連絡あるみたいですけど……」 「あはは。諸星さんらしいな……とにかく、これからよろしくね、沙織ちゃん」 「こちらこそ、よろしくお願いします」 二人は握手を交わした。
その後、BB全員が集まり、スタッフも交えての打ち合わせが始まった。CMについての説明やコンセプトが伝えられる。 新しい飲料水のCM出演者は、BBと沙織の五人で構成される。炎天下でバスケットボールを楽しむBBに、沙織が飲料水を差し出す。沙織は、飲料水を差し出す時に言う、「ハイ」の一言のみの台詞だが、BBと共演し、またその一言だけという台詞が、印象づけるであろうことは間違いなかった。 打ち合わせが終わると、早速撮影が始まった。演技や台詞をほとんどやったことがない沙織は、緊張のし通しだったが、BBのメンバーがサポートしてくれた。特にリーダーのユウは、よく気遣ってくれるので、沙織は徐々にコツを掴んでくるのだった。
「沙織ちゃん」 撮影が終わるなり、ユウが沙織に声をかけた。 「ユウさん。ありがとうございました!」 「こちらこそ。初めてなのに、うまかったね」 「いえ、そんな……足を引っ張っちゃってごめんなさい。なかなかオーケー出なくて……」 「そんなことないよ。それより、これなんだけど……」 そう言って、ユウが封筒を差し出す。 「え?」 「一枚だけだけど、今度やる僕らのコンサートチケット。よければ観に来て。あと、よかったらこれ、僕の携帯番号……早くもCM第二弾やること決まってるみたいだし、これから会う機会もあると思うからさ」 「え、いいんですか?」 頬を染めて、沙織が驚いて言った。憧れのユウの携帯番号である。沙織は震える手で、それを受け取る。 「もちろん。あ、でももちろん、友達とかには教えちゃ駄目だよ」 「はい、もちろんです。あ、私の携帯は……」 二人は携帯電話番号を教え合った。目の前にいる人気歌手と知り合いになれた驚きと喜びが、沙織を包んだ。
BBコンサートの当日。仕事があったため、沙織は少し遅れて会場に到着した。すでに、いつも通りのすごい熱気である。席に着いた沙織は、ファンたちに混じって声を上げる。たまには一人でこういうのもいいと思った。 前回、鷹緒の仕事で連れて来てもらったことを思い出す。まだただの女子高生だった沙織が、今では目の前でスポットライトを浴びるBBと共演している。不思議な感覚が沙織を襲い、酔ったようになる。
コンサートが終わると、ぞろぞろと人が帰ってゆく。それに混じって、沙織も腰を上げた。楽屋に行こうとも思ったが、BB直々の誘いとはいえ、今回は鷹緒もいない。裏に入れるはずがないと思い、礼は今度しようと考え、沙織は会場を後にした。 しばらくして、駅へと歩いている途中、沙織の携帯電話が鳴った。画面には、BBのリーダーであるユウと映し出されている。沙織はびっくりして電話に出た。 「は、はい」 『沙織ちゃん? 来てくれたんだね。ステージから見えたよ』 「ユ、ユウさん、もう電話して大丈夫なんですか? さっき終わったばっかりなのに……」 ぞろぞろ歩いているファンの目を気にして、小声で尋ねる。 『うん、もう慣れたもんだよ。ツアーだから今日が終わりじゃないし。もうみんな、さっさと帰り支度してるところ。もし時間があるなら、一緒に食事でもどう?』 あまりにも軽い誘いに、沙織は相手が人気歌手ということを一瞬忘れそうになる。 「え、あ、はい。構いませんけど……」 しどろもどろで、沙織が答えた。プライベートで男性から食事に誘われたことはあまりない。 『よかった。今、どこにいるの?』 「駅に向かって歩いてるところです」 『じゃあ、駅の裏手で待っててくれる? えっと……出待ちの子がいるからもう少しかかるけど、すぐに向かうよ』 そう言って電話は切れた。 突然のデートの誘いに、沙織も否応なしに盛り上がる。相手は憧れていた歌手である。沙織のミーハーな部分が、久々に露になっていた。
人気のない駅裏は、酔っ払いしか通らない。そんな薄暗い道路に、一台のスポーツカーが停まった。中でユウが会釈する。沙織は嬉しそうに駆け寄った。 「どうぞ、乗って」 ユウが窓を開けて言った。 「じゃあ、あの……お邪魔します」 照れくさそうにそう言うと、沙織は助手席へと身を置いた。車はそのまま、夜の街へと走り出す。 「ごめんね、あんなところで待たせて。怖かったよね……」 すまなそうに、ユウが言った。沙織は首を振る。 「いえ。こっちこそ、コンサートのすぐ後だっていうのに、誘ってもらっちゃって……」 「ううん。一度ゆっくり話したいと思ってたんだ。何か食べたいものある? 僕、お腹ペコペコ」 「すごい運動量ですもんね。いえ、私はなんでも平気ですから、ユウさんにお任せします……」 「じゃあ、肉系いきますか」 二人は、ユウの行きつけというハンバーグステーキハウスへと向かっていった。 「ここの店、すごく美味いんだ。結構、芸能人も御用達って感じでね。初めて事務所の社長に連れてきてもらった時は、あまりの美味さに、涙が出るほど感動しちゃったくらいだよ」 ユウが言う。まるで昔からの友人のように、沙織に接してくれる。沙織は緊張しながらも、次第に打ち解けていった。 「どう? 芸能活動は」 食事をしながら、ユウが尋ねた。沙織は苦笑して口を開く。 「芸能活動ってほどじゃないけど……でも、楽しいです」 「モデル業が多いんだよね。タレント業はしないの? 女優とかさ」 「私、あんまり機転利かないから……トーク番組とか、いくつかオファーはいただいているみたいなんですけど、あんまりうまくしゃべれないと思って、事務所の人もまだって感じで言ってます」 「じゃあ、女優さんでいいじゃない。台本見て覚えるだけ。演技は大変だけど、大して機転はいらないよ」 「演技なんて出来ないですよ……あ、ドラマと言えば、この間までやってたドラマ、見てましたよ。ユウさん主演で、すごいよかったです」 沙織が言った。ユウは照れながらも、嬉しそうに微笑む。 「見ててくれてたの? 恥ずかしいな、下手っぴで……」 「そんな! 最終回なんて、私、泣きっぱなしだったんですよ」 「本当? 嬉しいなあ」 二人は会話を弾ませていった。
食事を終えると、ユウが沙織を家まで送り届けてくれた。 沙織は夏休み中だけ、事務所近くで寮代わりに使っているワンルームマンションで暮らしていた。同じマンションに数人の所属モデルやタレントが暮らしている。最近は事務所が忙しいため、鷹緒のマンションスタジオは休みなく撮影などに使われている。そのため、今年はそこで暮らすことは出来なかった。 「ここでいいの?」 ユウの質問に、沙織は頷く。 「はい。あのマンションなんです。数部屋、事務所が押さえていて、上京したての子とかが暮らしてるんですよ。たまたま空きがあったんで、私も夏休みだけお世話になることになってて……」 「そうなんだ」 「じゃあ……今日は本当にありがとうございました!」 「いいえ、こちらこそ。また一緒に食事でもしようね」 「はい!」 沙織は深々とお辞儀をすると、車から降りる。ユウは軽く会釈をして車を走らせていった。それを見届けると、沙織はマンションへと入っていく。恋心に似た胸の高鳴りを覚えていた。
|
|