真夜中。事務所に茜が戻ってきた。鷹緒は一人、ソファでビールを飲んでいる。 「なんだ……戻ってきたの?」 鷹緒が茜に言う。 「電話、繋がらなかったから……」 「ああ、電源切ってんだ……事務所のやつらが、真相聞きに電話が殺到……あいつは?」 「……沙織ちゃん、実家に戻るっていうんで、送り届けました。これ、車のキーです」 「おう、サンキュー」 鷹緒は車の鍵を受け取ると、ポケットへとねじ込む。茜は辺りを見回した。 「……ヒロさんは?」 「社長室で寝てるよ。あのいびきじゃ、俺も参るからな」 苦笑しながらそう言うと、鷹緒は立ったままの茜を見つめる。 「……ビール飲むか?」 「いえ、今日はこのまま帰ります」 「電車ないだろ。車使えよ」 そう言うと、鷹緒はポケットを探る。 「いいです。タクシー拾うから……」 「そうか。どうした? いつもの勢いは」 笑いながら鷹緒が尋ねる。茜はどこか他人行儀で、真剣な顔をして、鷹緒に何かを語りかけようとしている。 「……ひとつ、聞いてもいいですか?」 「なに?」 ソファに座っている鷹緒は怪訝な顔をして、そばに立っている茜を見つめた。 「沙織ちゃんのこと、どうするつもりですか?」 「……どうするって?」 「なにも今日言うことはなかったんじゃないですか? いつみんなに言うのかと思ってたけど、今日じゃなくたって……沙織ちゃんの晴れ舞台なのに……」 その言葉に、鷹緒は静かに口を開く。 「……さっき言った通りだよ。今日しか全員集まる時はないと思ったし……もうすぐ日本を離れるんだ。前から決めてたことだよ」 「でも、もっと早くでもよかったんじゃないですか? こんなギリギリまで待たなくても……いくらなんでも今日言うなんて、沙織ちゃんが可哀想……」 「いつ言ったって同じことだろ。それに、あいつはすぐ態度に表れるからな。シンコン前に言ってたら、あいつはシンコンどころじゃなかっただろうし……」 「本音が出ましたね。鷹緒さんも、沙織ちゃんのこと好きなんでしょう?」 茜が言った。鷹緒はその言葉に驚いた後、笑い飛ばした。 「あははは。なんで俺が沙織を……」 「とぼけないでください。私がどれだけ鷹緒さんを見てきたと思ってるんですか? いくら親戚だからって、鷹緒さんは沙織ちゃんを構い過ぎです!」 「……そう?」 茜の言葉を上から受けて、鷹緒はビールに口をつける。 「それに、みんなからいろいろ聞きました。沙織ちゃんのために、好きなアーティストのコンサートチケットを取ってあげたり、そのために好きでもない仕事引き受けたって……」 「……BBのコンサートのこと言ってんの? 誰から聞いたか知らないけど、そんなことはないよ……」 尚も話を続ける茜に、鷹緒がうんざりした様子で言う。 「それだけじゃない。撮影現場に連れていったり、隣の部屋に住まわせたり、送ってあげたり……そんなの鷹緒さんじゃない! 私の知ってる鷹緒さんは、いつも人を寄せつけなくて、笑ってても遠くて……それなのに、どうして沙織ちゃんには……!」 そう言う茜の口を、突然、立ち上がった鷹緒の手が塞いだ。 「……それ以上言うなよ」 静かに鷹緒がそう言った。その顔はどこか辛そうで、しっかりと茜を見据えている。 「鷹緒さん?」 「俺だって、一歩も前進してないわけじゃない……おまえが知ってる、数年前の俺とは違うんだろ」 鷹緒は静かに微笑んでそう言うと、茜に背を向けた。茜の目が潤む。 「じゃあ、どうして私の口を塞ぐの? 図星だからじゃないんですか!」 「それ以上言うなって言ってるだろ!」 強い口調で鷹緒が言った。その言葉に、茜の瞳から涙が溢れ出る。 「どうして? 理恵さんのことが過去に出来たら、私、鷹緒さんの一番近くにいけると思ったのに……」 茜の言葉に、鷹緒はソファに座った。 「……馬鹿だな。俺なんて、過去を引きずってばかりの、情けない男なのに……」 「そこが、格好良かった……」 「……」 二人は一瞬、押し黙る。 「……教えてください。どうして沙織ちゃんのこと……?」 一瞬の沈黙を破り、茜は尚もそう尋ねた。 「だから、なんでもないって……」 「嘘つかないでください。私には聞く権利があります」 「ねえよ」 「教えてください!」 茜が鷹緒の前に、座り込んで言う。鷹緒は髪をかき上げると小さく息を吐き、口を開く。 「……べつに。ただ放っておけなかっただけだよ……」 そう言った鷹緒は溜息をつき、言葉を続けた。 「茜。あいつは俺の親戚なんだぞ? あいつの親含めて、俺の子供の頃まで知ってる。いわば弱みを握られてるも同然なんだ。あいつに何かあったら、俺はあいつの母親に何をされるかわからないし、下手なこと出来るかっての」 ソファに寝そべって鷹緒が言った。その言葉に、茜も俯く。 「親戚か。微妙ですよね……」 そんな茜に、鷹緒は天井を見つめたまま口を開く。 「……茜。俺さ、今はこれからのことしか考えらんないんだ。日本に後悔は残したくない。おまえも、気持ち切り替えてくれ」 その言葉に、茜は頷いた。 「わかりました……これからは、ニューヨークへ向けての、仕事モードでいきます」 茜はそう言って立ち上がる。これ以上、追求は出来ないと思った。 「ああ。じゃあ俺、寝るから。おやすみ」 「ここでですか? 風邪引いちゃいますよ」 「夏だから平気だよ、じゃあな。おまえも気を付けて帰れよ」 「はい……」 茜は事務所を出ていった。煮え切らない態度の鷹緒だったが、少しだけ、本心を覗けた気がした。 鷹緒はそのまま目を閉じた。茜の言葉が、頭の中でこだまする。鼓動が早く、体が熱いのは、浴びるほど飲んだビールのせいだろうか。脳裏には、沙織の姿があった。
次の日。鷹緒が目を覚ますと、広樹がコーヒーを入れていた。 「ヒロ……」 「おはよう。僕、また酔って寝ちゃったみたいだね……」 入れたばかりのコーヒーを差し出し、広樹が言った。鷹緒は苦笑する。 「まあな。おまえ、その酒癖悪いのなんとかしろよ」 「ハハハ……それで、どうだった?」 「なにが?」 「いや、昨日のこと、覚えてなくてさ……言ったんだよな? ニューヨークに行くこと……」 「なに、おまえ、何も覚えてないのか? まあ確かに、途中から寝てたけどな……」 コーヒーに口をつけるや否や、呆れて鷹緒が言った。 「打ち明けたところまでは覚えてるんだけど……」 「……みんなびっくりしてたよ。暗い雰囲気になったから、すぐにお開き」 「だろうな。そりゃあびっくりするよな……沙織ちゃんは?」 「……なんで?」 広樹の言葉に、鷹緒が驚いて尋ねる。 「だって、一番びっくりする人物だろう?」 「……まあ、ショックは大きかったみたいだけど……理恵も怒ってたし」 「まあね。副社長には言うべきだったと思うけど」 「いいんだよ」 鷹緒は遮るようにして言った。 「……いつから行くんだっけ?」 「……来週」 「本当、間もないな……」 「ああ……まあ、後を頼みますよ。やり手の社長さん」 二人は笑って、朝焼けの街を見つめた。新しい幕開けのような、美しい朝だった。
しばらくして、沙織が事務所へやってきた。すると、まだ眠気眼の広樹が出迎える。 「沙織ちゃん。おはよう」 「おはようございます……ヒロさん、一人ですか?」 辺りを見回しながら、沙織が尋ねる。 「うん。鷹緒は、さっき出てったよ」 「そうですか……」 少し残念なような、ホッとしたような気持ちで、沙織は頷いた。 「おはようございます」 そこに、理恵と数人の事務員がやってきた。 「沙織ちゃん、早かったのね。今日はスケジュールぎっしりよ。なにせシンコンの準グランプリだからね! 鷹緒さんも、結構アポ取って来てくれてたみたいだし……」 理恵が言った。 「社長。鷹緒さん、今日休みですよね? 昨日からかけてるのに、電話切ってるみたいなんですよ。真相聞こうと思ってたのに!」 広樹の周りを事務員たちが囲む。誰一人知らされていなかった鷹緒の渡米に、一同はやきもきしているようだ。 「まあまあ。僕も口止めされてたんだよ。確かにシンコンでみんなが張り切ってる時に、言うべきじゃないと思ってさ……」 困ったように、広樹が言う。しかし尚も事務員たちは質問を続ける。 「いつ行っちゃうんですか? 鷹緒さん」 「ああ。来週って言ってたかな……」 「来週! もうすぐじゃないですか!」 「うん……今度、お別れパーティー的なことは企画するからさ。ああ、もうこんな時間だ。僕も得意先に電話しなくちゃ」 広樹はたじろきながら、事務員たちから逃げるように社長室へと入っていった。 そんな会話を聞きながら、沙織も理恵も口をつぐんだ。理恵も、鷹緒が日本を離れるということは少しも聞いておらず、未だ動揺を隠せないようだ。 「……さあ、行きましょうか」 やがて、理恵がそう言った。 沙織は吹っ切るように微笑み、頷く。きちんと告白する前に鷹緒に拒絶され、沙織はもうどうしていいのかわからなくなっていた。出来るだけ早く忘れられれば、と思った。
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