「ヒロ、起きろよ」 数人だけが残った事務所で、鷹緒が広樹の頬を軽く叩く。しかし広樹は、一向に起きようとはしない。 「まったく……」 そう言って鷹緒が振り向くと、そばには沙織と理恵、そして茜が立っている。 「ここはいいから、おまえらも帰れよ。こいつ、当分起きないと思うから……」 鷹緒の言葉に、理恵が口を開く。 「鷹緒、本当なの? どうして今まで黙ってたのよ」 「どうしてって……俺はおまえに、なんでも話さなきゃいけないの?」 反発するように鷹緒が言う。それに反して、理恵も首を振った。 「そうじゃないわ。でも、仮にも私は、この事務所の副社長なのよ?」 「社長のヒロには言ったよ」 「鷹緒……」 鷹緒の態度に、理恵は溜息をつく。 「ごめんなさい、理恵さん。口止めされてたものだから……」 茜もすまなそうにそう言った。理恵は鷹緒に質問を続ける。 「いつから決まってたことなの?」 「……沙織の宣材写真撮ってた時だから……結構前だよ」 「そんなに前から? どうしてヒロさん、何も言わなかったのかしら……」 理恵の言葉に、鷹緒は軽く頭を掻くと、苛立つように溜息をつく。 「……俺が口止めしてた。おまえもみんなもシンコンに向かってたし、事務所も拡大したばかりだったから、あんまり揺るがすようなこと言いたくなかった」 「……だからって」 「とにかく、もう決まったことだ。恨み言ばかり言ってないで、今後を頼むよ。俺だって、ここを辞めるわけじゃないんだから。ほら、今日はもう帰れ。みんな疲れてるだろ」 追い立てるように、鷹緒が言う。理恵は仕方なく頷いた。 「わかったわ。今日は帰るけど……明日にでも、詳しいことを聞かせて」 「もう言ったけどな……」 「じゃあ、もう一度聞かせて」 「……わかったよ」 鷹緒が苦笑して言う。理恵は振り向くと、沙織と茜を見つめた。 「じゃあ、帰りましょうか」 「あの、私……」 その時、沙織が言葉を発した。 「私、鷹緒さんに話が……」 理恵と茜が、沙織を見つめる。鷹緒はそばにあった机に座り、頷く。 「……そうだったな。じゃあ、沙織は後で俺が送るよ」 「そう。じゃあ、今日はこれで……」 理恵と茜はそのまま事務所を出ていった。事務所には、眠った広樹のほか、鷹緒と沙織だけになった。広樹はソファへ横になり、大きないびきで熟睡している。 「相変わらず、すげーいびき」 苦笑して、鷹緒が言った。沙織は押し黙っている。そんな沙織を、鷹緒が見つめた。 「おまえは大丈夫なのか? さすがに疲れてんだろ」 「……大丈夫」 重苦しい雰囲気に、鷹緒は小さく溜息をつく。やがて沙織が口を開いた。 「鷹緒さん、本当に行っちゃうの?」 「……うん」 「どうして……私の気持ちに、気付いてるくせに!」 思わず大きな声で、沙織が言った。その目は熱く、鷹緒を見つめている。 鷹緒は机に腰をかけたまま、沙織を見つめた。 「……じゃあ、おまえは俺にどうして欲しいの?」 「どうって……」 「俺は日本を離れる。それは変えられないし、決めたことだ」 静かな言葉だったが、揺るぎない決意のような、拒否が感じられる。沙織はもう何を言っても、鷹緒に自分の気持ちは届かないのだと悟った。 「わかった……もういい」 「……送るよ」 そう言って、鷹緒が静かに立ち上がる。だが、沙織は強く首を振った。 「いい」 「送る。こんな夜に、一人じゃ危ない」 「いいってば!」 沙織は鷹緒の手を振り払うと、事務所を飛び出していった。
「沙織ちゃん……!」 事務所の入っているビルの下で、茜が声をかけた。 「茜さん……」 「ちょっと気になって……待ってたの」 その言葉に、沙織は茜に抱きついた。 「ひどい! どうして言ってくれなかったんですか? 茜さん、鷹緒さんが居なくなっちゃうの知ってて、どうして私の気持ち、応援するなんて……!」 泣き叫ぶように沙織が言った。涙が止まらないようで、肩をしきりに震わせている。 「沙織ちゃん。ごめんね……」 そう言った茜の目に、沙織を追いかけてきた鷹緒が映った。鷹緒は茜に、軽く頷くような合図を送ると、そのまま事務所へと戻っていった。沙織は背を向けていて、鷹緒にはまったく気付かなかった。 「……帰ろう。沙織ちゃん」 泣きじゃくる沙織の肩を抱いて、茜が言った。しかし沙織は首を振る。 「でも、このままだと……」 「……実家に帰ります。お母さんにも会いたいし……」 沙織の言葉に、茜は頷いた。 「そう……じゃあ、送るわ。今日はお酒も飲んでないし、鷹緒さんの車のキーを預かったたままだったから」 茜はそう言うと沙織を連れ、鷹緒の車で沙織の実家へと向かっていった。
「……鷹緒さんを、責めないであげてね……」 車の中で茜が言った。沙織は、その言葉に押し黙る。 「……」 「私の父はね、カメラマンやってて、鷹緒さんが弟子みたいになってた頃があるんだ。父は私よりも鷹緒さんをすごく可愛がってた……私も鷹緒さんが好きで、カメラマンになりたくなったんだ」 静かに、茜が自分の生い立ちを話し始める。 「数年前から、父は友人に誘われてニューヨークに渡ったの。私も後から父を追いかけて、外国のカメラ技術を学んだつもり。父は向こうの雑誌社でカメラマンとして働いてたんだけど、今度単独で新しい雑誌を作ることになってね」 「……」 沙織は俯き加減で、茜の言葉に耳を傾けている。 「父が好きにやりたい雑誌を作ろうってことでね。それでどうしても、鷹緒さんにも手伝ってもらいたいって父が電話して、鷹緒さんが了承してくれたってわけなの。私もはじめ、鷹緒さんがアメリカに来るわけないって思ってたんだけど、父には恩を感じてるみたいで……」 「……茜さんは、鷹緒さんを迎えにきたんですか?」 やっと沙織が、そう尋ねた。 「……うん。一度、日本には帰ってきたいって思ってたしね。迎えにきたっていうよりは、事前打ち合わせが、おもな目的だったけど……」 「……」 「沙織ちゃんの気持ち、応援してなかったわけじゃないよ。私だって、鷹緒さんのことが好きだもん。良きライバルだと思ってる。でも、私だってまだ相手にされてないんだよ? それに、一緒にニューヨークへ行くからって、ビジネスなんだから」 「だからって……」 沙織は少し、茜が許せなかった。日本を離れ、見知らぬ土地で一緒に活動するならば、鷹緒は本当に遠いところへ行ってしまうではないか。茜といつ両想いになるかもわからない。沙織は気が気でなかった。 そんな沙織の気持ちを察するかのように、茜は静かに笑う。 「沙織ちゃん。もしかして……私のこと、ずるいって思ってる?」 「……」 「私から言わせれば、沙織ちゃんだってずるいと思うけどなあ」 「え?」 茜の言葉に、沙織は驚いて顔を上げる。 「だって鷹緒さんの親戚なわけじゃない? 鷹緒さんの子供の頃とかプライベートなこととか、そういうのいっぱい知ってるんでしょう? だから、おあいこじゃない」 納得出来るような出来ないような顔で、沙織は俯いた。 「でも……私なら諦めない」 加えて茜が言った。茜は微笑んで、横目で沙織を見つめている。 「私が沙織ちゃんの立場なら、鷹緒さんを追いかけて行く。追いかけなくても諦めないわ。いつかきっと会えるもの。その日が来るまで、私は鷹緒さんを好きでい続けると思う」 沙織は戸惑っていた。そこまでさらりと言える茜を、すごいと思った。 「私も……諦めない」 しばらくして、沙織がそう言った。その言葉に、茜が手を差し出す。 「やっぱり私たち、良きライバルになりそうね。沙織ちゃんなら大歓迎よ」 沙織も微笑んで、茜と握手をした。 「そんなこと言っていいんですか? 私の方が、若くてピチピチなんだから」 無理に笑って、強気に沙織が言う。負けじと茜も口を開く。 「言ったなあ。でも私なんて、アメリカも一緒だもん」 「あ、それはずるい!」 「あはは。沙織ちゃんなら大丈夫よ……私、フラれたんだもん……」 突然、真顔で茜がそう言った。沙織は驚きながらも、いつもの調子だろうと微笑む。 「え? またまた……それで諦める茜さんじゃないんでしょう?」 「……そうね」 二人は笑った。
「ありがとうございました」 実家に戻った沙織は、送ってくれた茜に礼を言った。 「ううん。今日はおめでとう、沙織ちゃん。じゃあまたね」 茜はそう言って、去っていった。シンデレラコンテストに入賞したという栄誉と興奮は、まだ高まったままだ。 沙織は車を見送ると、すぐに家には入れずに俯いた。一人になって、鷹緒がいなくなってしまうという悲しみがまた込み上げる。怒りに似た感情が、沙織を襲う。 沙織は実家を見つめると、気持ちを切り替え、家へと入っていった。 「ただいまー!」 帰ると同時に、両親が出てきた。 「え、ただいま……なにごと?」 両親を前に、沙織が言う。 「おかえり! 今日は帰らないと思ってたから。おめでとう、沙織!」 誇らしげな顔で、両親がそう言った。自分の娘が国民的コンテストに入賞するということは、今まで不安で一杯だった両親の心を、一瞬にして軽くしている。 「さあ、入って入って」 久しぶりの我が家は、沙織の沈んだ心を包み込むような、優しい感じがした。
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