そんなある日。鷹緒のもとに一本の電話が入った。もといたモデル事務所の社長からである。 「え、豪の行方がわかった!」 自宅にいた鷹緒は、思わずそう叫んだ。理恵は買い物に出かけていて、それを聞かれてはいない。 『そうなんだ。突然電話が来てね。そろそろ除名しようかと思ってたんだけど、危機一髪繋ぎとめたんだ』 社長が説明をする。 「それで、どこにいるんですか? あいつは」 『それがさ、パリにいるって言うんだ。知り合いがいるらしくて、フリーで記者をやりながらモデルを続けたいと言ってきた。こっちもそろそろ、パリコレ組が向こうへ行く予定だったから、放っておくことにしたよ……連絡先は聞いたけど、連絡するか?』 「はい、お願いします」 『じゃあ、ファックス送るよ』 「お願いします。ありがとうございました……」 鷹緒は電話を切ると、呼吸を整えた。内山に対する怒りが湧き上がる。 すると、一通のファックスが届いた。そこには内山がいるという現住所と電話番号が記されている。鷹緒は意を決して、内山が居るというパリの電話番号へと電話をかけた。 『ハイ』 受話器の向こうから、内山の声が聞こえる。 「……俺がわかるか?」 怒りを落ち着かせるように、鷹緒が静かに言った。 『……鷹緒先輩ですね。かかってくると思ってました。事務所に連絡入れたから……』 「おまえ、どういうつもりだよ?」 『僕の娘は元気ですか?』 内山の言葉に、鷹緒は目を丸くする。 「おまえ、なんで娘だって知って……」 『僕だって、日本に友達くらいいますから』 その言葉にいちいち苛立ちながらも、鷹緒は冷静さを保とうとした。 「……どうするつもりだ、理恵は。子供は?」 『……考え中です。それまで、二人をよろしくお願いしますよ、先輩』 「てめえ……今度会ったら、覚えておけよ」 鷹緒の言葉に、内山が笑う。 『あははは。それじゃあ、しばらく日本には帰れそうにないな』 「笑ってんじゃねえよ!」 目の前の棚を叩いて、鷹緒の怒りが頂点に達した。 『先輩……僕、しばらくこっちでやっていきたいと思ってます。帰ったら先輩に殴られに行きますんで、それまでは放っておいてください』 「なんだと、豪!」 その時、鷹緒は後ろに気配があることに気がついた。そこには、買い物から帰ってきた理恵が立っている。 「……豪って?」 驚く理恵に、鷹緒が無言で受話器を差し出す。 差し出された受話器を取り上げるように掴むと、理恵は叫ぶように問いかける。 「豪?!」 『……理恵? ごめんね』 「馬鹿! どうして急にいなくなったりするのよ。子供が重いなら……私が嫌いになったなら、そう言ってよ!」 理恵の言葉に、内山が一瞬押し黙った。そして静かな口調で語りかける。 『違うよ……ただ今の僕は、結婚出来る経済力も思考もないんだ。今結婚したって、きっとフラフラしちゃうと思う。だから僕も辛いけど、今は離れたところから見てるよ。それで、いつかきっと迎えに行くからね』 「勝手なこと言わないで……都合のいいことばっかり言わないでよ!」 『理恵……』 「さよなら!」 理恵は涙を流してそう言うと、思い切り受話器を置いた。電話は切れてしまった。 「理恵」 鷹緒が声をかけるも、理恵は無言のまま涙を拭いて振り向き、買ってきた食材を黙々と冷蔵庫に詰め始める。そんな理恵の後姿を、鷹緒はただ見つめていた。 「……もういいの。完璧に冷めたわ。あいつは結局、自分のことしか考えてないのよ。うまいこと言って、私のことも恵美のことも考えてない。もうどうでもいい。忘れる……」 自分に言い聞かせるように、理恵が言う。それが本心ではないことを知りながらも、鷹緒は頷いた。 「おまえの人生だ。好きに生きろよ」 「……うん。そうね」 鷹緒と理恵は、そのまま変わりなく過ごした。数年間は穏やかな日々だった。恵美も着々と成長していく。 そんな中で、数年後。突然、理恵が恵美とともに姿を消した。しかしその頃、鷹緒も少なからず、生活に限界を感じていた時だった。同じことを感じながら互いに離れたことで、自然に離婚へと発展する。 離婚はしても、互いの近況は耳に入った。父親がいないことを一番心配していた鷹緒は、月に一度程度で、恵美と会う機会を作った。恵美が子供モデルをしていることで、仕事でもかち合うこともある。 二人は互いに話す機会こそほとんどないものの、何らかの接点を持ち続け、今日まで自然体なつき合いをしていたのであった。
ハッと、鷹緒が目を覚ました。 「はあ……なんでこんな昔の夢……」 頭を抱えて、鷹緒が言った。時計を見ると、もう夜中の二時を回っている。鷹緒は溜息をつくと、仕事を再開した。
次の日。鷹緒が事務所に行くと、一番に理恵の顔が見えた。 「おはよう」 微笑みながら、理恵が声をかける。 「……おはよう」 鷹緒も答える。普段と同じでいながらも、どことなく違う。 しかし、理恵は清々しい顔をしていた。鷹緒に、「おまえの顔なんて見たくない」と言われても、それが鷹緒の本心ではないと知っていたからだ。それは、過去に同じことがあったからこそ気付いた、鷹緒の後押しという優しさであった。 理恵は、もう同じ過ちを繰り返すわけにはいかないと思った。内山を選んだ以上、幸せにならねばならない。もう鷹緒の元へは帰れないが、元の夫として、後ろには鷹緒がいる。心強い温かさが、理恵を包んでいた。 「昨日はごめんね……」 「……いいよ」 鷹緒と理恵は、静かに微笑を交わした。たったそれだけで、わかりあえる何かがある。 「おはようございます……」 そこに、沙織がやってきた。すかさず理恵が口を開く。 「おはよう、沙織ちゃん。じゃあ、早速行きましょうか」 「なに? 今日は何かあんの?」 落ち着く暇もない様子に、首を傾げて鷹緒が尋ねた。 「美容院へ行って、それから二つも取材があるのよ」 「へえ。それはそれは……行ってらっしゃい。頑張れよ」 鷹緒が沙織に言う。しかし、沙織は元気がないようだ。 「どうした?」 「べつに、なんでもない……」 沙織の言葉に、鷹緒は静かに笑う。 「じゃあ、俺も仕事行ってくる」 鷹緒はそう言うと、事務所を出ていった。
「どうしたの? また鷹緒のこと?」 美容院を終え、レストランで食事中に、理恵が沙織に尋ねた。沙織は朝から元気がないままだ。 沙織は困った顔をしながらも、意を決して理恵を見つめる。 「あの。気になることがあって……」 「うん、なあに?」 「あの……内山さんって人、理恵さんや鷹緒さんと、どういう関係なんですか?」 単刀直入に、沙織が尋ねた。理恵は静かに微笑んで、沙織を見つめる。 「……内山豪はね、私の恋人だった人なの。あんまり言いたくないけど、それが原因で鷹緒とも別れることになって……豪は昔から誰とでもあんなだから、あんまり気にしないで」 「でも……」 「……私ね、豪とつき合うことにしたんだ。だから鷹緒を狙うライバルは、一人消えたわよ」 イタズラな目で理恵が言った。 理恵の言葉に、沙織は驚いた。鷹緒との関係を気にするばかりで、理恵に恋人が出来たことなど考えていなかったからだ。 「え、本当ですか?」 「うん。だから安心して仕事に没頭してちょうだい。彼、今はフリーのはずだから」 そう言う理恵は、沙織の恋を応援しようと思っていた。それを察してか、沙織も強力な恋のライバルがいなくなったということに心が軽くなる。 「あの、もう一つだけいいですか?」 沙織は勢いで、もう一つの疑問を尋ねることにした。 理恵も、大事な候補者である沙織の不安が拭えるなら、なんでも答えようという姿勢が見える。 「なあに?」 「あの……恵美ちゃんが、鷹緒さんの子供じゃないっていうのは……本当ですか?」 あまりに唐突な質問であったが、沙織は真剣な目で尋ねる。その質問には、さすがの理恵も驚いていた。 「……それ、鷹緒が?」 「いえ、恵美ちゃんが。本当……なんですね?」 その言葉に、理恵は静かに微笑んで頷く。 「そう。恵美が言ったの……」 「……理恵さん」 「……うん。あの子は、私と豪の子供よ。それは、鷹緒も豪も知ってるの。でも、他は誰も知らないわ。ヒロさんでさえも……私たちのことを知ってる人は、みんな鷹緒の子だと思ってる。それは、鷹緒がそうしろって言ったからなんだけど……」 理恵の話に聞き入るように、沙織は理恵を見つめていた。 「……どうして?」 「……ぶっちゃけて言うとね、私が豪と浮気したのよ」 苦笑して、理恵が言った。もう何も隠す必要はないと思った。ずいぶん年下ではあるが、鷹緒の親戚であり、鷹緒を真剣に恋している沙織に、理恵はすべてを話す決心をする。それは、すべてを話すことで、自分の心を軽くしたかったという気持ちもあったかもしれない。 「えっ……」 その重い真実に、沙織は耳を傾ける。 「寂しかったからって言ったら、自分を美化してることになると思うけど……鷹緒が忙しくて寂しかったのは事実だし、豪のことは気付いたら好きになってたの。だから、鷹緒とはうまくいかなくなった……」 「……」 「自業自得だけどね。だけど豪が消えて、恵美が生まれて……鷹緒は恵美を、自分の子供のように接してくれた。だけど今度は私が、息が詰まるようになってしまったの……すべてを許してくれる鷹緒と一緒にいることが、苦痛になってた。自分の罪が大きく残ったままでいるのが、私には耐えられなかった……」 「……理恵さん」 「だから私は、鷹緒から離れたの。自分勝手と言われても仕方がない。だけど、どうすることも出来なかった……」 遠い目をしながら、理恵が言った。 「……沙織ちゃんは、鷹緒の家庭がどんなふうだったか、知ってる?」 突然、理恵がそう尋ねた。沙織は首を振る。実際、親戚といっても、鷹緒のことはあまり知らない。 「そう。鷹緒はあんまり、家族のことは話さないんだけど……家族に愛された経験が少ないらしくて、いつも家族の温もりみたいなものを求めてた……だから結婚して、家族を作ってあげたいって思ったの。だけど、駄目になって……」 「……」 「私が恵美を一人で産むって言った時も、何もかも許して自分が父親になるって言ってくれたのは、恵美が一人で生まれることが、鷹緒に相当な抵抗があったからだと思うんだ……」 「理恵さん……」 真実を知って心は重くなったが、すべてを知ることが出来て、沙織は晴れた気持ちにもなっていた。 「沙織ちゃん。私は今の鷹緒のことは知らないし、もう何とも思ってないわ。だから、それを気にして上の空になったりするのはやめて。もし何か気になることがあったら、なんでも話して。私だって、ここまで話したのは初めてだもん」 加えて理恵が言った。すべてを話してくれた理恵に、沙織は少し申し訳なく思うも、嬉しくもなる。 「ごめんなさい……」 「いいのよ。さあ、これから取材よ。心機一転、頑張ろうね」 「はい!」 二人は取材の場所へと向かっていった。
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